加藤清正が築いた堅城・熊本城。しかし、2016年4月の熊本地震により甚大な被害を受け、全復旧までには2037年までかかるとされています。2021年に復旧した大小天守の一般公開が始まりましたので、登城してきました。
2021年7月登城
満足度:★★★★★
歴史
1588年に肥後半国に入封した加藤清正は、茶臼山に新たに築城を開始しました。直後の朝鮮出兵により工事は中断しましたが、1607年に熊本城は完成しました。大小天守以外にも6基の5階櫓が建ち、石垣の曲線は「扇の勾配」と称されました。まさに築城の名手・清正の集大成でした。
1611年の清正没後に兄二人が夭逝し、3男の忠広が11歳の若さで相続しました。しかし、お家騒動がおこるなど、その治世は安定したものではありませんでした。ついに1632年に3代将軍・徳川家光によって改易されました。
同1632年に肥前小倉から細川忠利が肥後54万石で入封し、以後細川家の居城となり明治維新を迎えました。
熊本城がその堅城ぶりを発揮したのは1877年(明治10年)の西南戦争でした。西郷隆盛率いる1万3千名に対し、熊本鎮台は農民兵中心の3千3百名。司令官・谷干城は熊本城に籠城することを決断します。熊本城は西郷軍の度重なる強襲にも耐え、52日後に西郷軍は包囲を解き退却しました。まさに歴史を変えた籠城戦でした。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR熊本駅から市電で「熊本城」「市役所前電停」まで約10分。熊本の繁華街にあり、まさに熊本の中心にあります。
城歩き
2016年4月の熊本地震により、天守と重要文化財13棟が損壊しましたが、2021年に大小天守が復旧し、一般公開が再開されました。ただ、コロナ禍の影響で、公開は何度か中止になっていますが、タイミングよく7月に登城しました。
清正公像
豊臣秀吉の部下として活躍した加藤清正は、1588年に肥後半国を与えられました。河川の治水や干拓にも着手し、現在の熊本の繁栄の基を築きました。清正公(セイショコ)さんとして、今日も熊本市民に親しまれています。
馬具櫓(復元)
地震で被害を受けた馬具櫓を横目に行幸橋を渡ります。土台の石垣が崩れており、馬具櫓にもひびが入っています。
桜の馬場 城彩苑
城彩苑にある熊本城ミュージアムわくわく座にて、コロナアンケートを記入し、前売り入城券を購入しました。開城時間の18分前に着きましたが、既に行列が出来ていました。
復興見学ルート
今なお損壊している箇所が多数あるため、高さ約6mの特別見学通路が設けられており、その通路を通って天守に向かいます。
法華坂への階段
開城時間少し前に列が動き出しました。まずは法華坂への階段を上ります。
未申櫓(復元)
奉行丸の南西に位置する未申櫓。奉行丸は本丸西に築かれた出丸であり、江戸時代には奉行所が置かれていました。
法華坂
石垣の保護が痛々しいですね。ちなみに法華坂には重箱婆という妖怪が出るという伝承がありました。
特別見学通路
特別見学通路は全長350メートルの見学ルートです。被災した城の復旧過程を間近に見ることが出来る空中歩道です。なんと、2020年度グッドデザイン賞受賞なり。
数寄屋丸二階御広間(復元)
数寄屋丸二階御広間は、内部一階に土間、二階には書院造の座敷があり、能や茶会の場所として使われていました。地震で中央部の石垣が崩れ、建物もひびが入り歪んでいます。
大天守
2021年に復旧された大天守。南から眺めた天守は意外にスッキリしています。
二様の石垣
傾斜の緩やかな古い石垣(右側)に傾斜の急な新しい石垣(左側)が継ぎ足されています。近年では、古い石垣は加藤清正が、新しい石垣は息子の忠広が築いたと推定されています。
二様の石垣の積み方
よく見ると、それぞれの石垣の積み方に違いがあります。右側の石垣隅は正方形に近い角石を用いた重箱積みで、石の形も様々です。左側の石垣隅は長方形の石を交互に組んだ算木積みで形の整った石が用いられています。
連続外桝形
竹の丸から飯田丸は連続枡形で繋がっています。ブロックみたいな石垣が圧巻なのですが、地震で石垣が崩れてしまっています。再びここを通れる日はいつになるやら。
本丸入口
本丸御殿の下を潜って、天守に向かいます。当時、この通路は無かったと思います。
闇り(くらがり)通路
本丸御殿は2つの石垣を跨るように建てられているため、御殿下には地下通路が通っています。残念なことに立入禁止でしたが、この先に本来の入口である闇り御門がありました。
天守(復元)
1877年(明治10年)、西南戦争の直前に原因不明の火災により大小天守は消失しました。1960年(昭和35年)に外観復元されましたが、2016年(平成28年)の熊本地震で被災しました。そして2021年(令和3年)に復旧したわけです。
復旧にあたっては制震ダンパーが設置され、地震に対する対策が採られています。また、新しく葺き替えられた瓦が白く輝き、黒のイメージの強い熊本城の雰囲気が少し明るくなりました。
小天守の忍び返し
鋭い刃が下に向いた忍び返し。熊本城の特徴は執拗なまでの実戦性です。加藤清正の経験がそうさせたのでしょうか。
天守からの眺め
天守最上階から西方面を眺めたところ。地震にも倒壊しなかった宇土櫓。特別見学通路も見えますね。
古写真
天守内で展示されていた焼失前の大小天守の古写真。かなり荒廃しています。明治維新後に解体が予定されていましたが、直前になって中止。しかし、西南戦争前に謎の焼失。数奇な運命を辿っています
他にも興味深い展示がされており、勉強になりました。
・入城した細川忠利は城の大きさに驚いたものの、地震時に高い石垣や天守・櫓に囲まれた本丸には危なくて居られないと書状を出していた。実際、城下の花畑屋敷に移ってしまった。
・西南戦争の際に薩摩軍から水攻めを受けた。しかし、周囲は水没したものの城は水没することなく、かえって守備側の助けになった。
・熊本城はしばしば地震による被害を受けており、1889年(明治22年)の熊本地震でも被災した。熊本城に駐在していた第6師団は陸軍省に復旧を訴え、自らの手によって石垣を修復した。
大小天守
西側から見た大小天守。小天守は大天守完成後に増築されているため、天守大部分の石垣の勾配や積み方が異なります。
宇土櫓
宇土櫓は小西行長の宇土城天守が移築されたとの伝承がありましたが、現在では加藤清正が築いたと考えられています。西南戦争でも焼失しなかった貴重な現存櫓ですが、今回の地震では内部が変形してしまいました。今後解体修理される予定です。
元太鼓櫓跡
この場所には再建された元太鼓櫓が建っていましたが、震災後の2018年(平成30年)に倒壊しました。
上の写真は今回(2021年7月)、下の写真は2018年6月の姿です。大小天守が復旧したのが分かります。宇土櫓が小天守より大きく見えますね。
戌亥櫓(復元)
櫓の北東隅が奇跡の一本石垣で支えられた戌亥櫓。上の写真(2021年7月)と下の写真(2018年6月)を比べても、戌亥櫓に変化はありません。バックの小天守は復旧していますが・・・、頑張れ。
長塀
2021年1月に復旧が完了した長塀。長さは252.7メートルもあり、芝生の緑との対比がきれいですね。
感想
大小天守が復旧したのは本当に喜ばしいです。今回の特別公開でも多くの観光客が訪れており、人気のほどが窺えます。ただ、改めて地震の被害の大きさも実感しました。崩れた石垣に解体された櫓や門。少しずつでも復旧されることを応援してます。