島原の乱の原因の一つにもなった島原城。その白亜の天守と高石垣に圧倒されますが、天守からの眺めも絶景でした。
2021年4月登城
満足度:★★★★★
歴史
1616年、大坂の陣の戦功により、松倉重政が大和五條から島原に4万石で入封しました。当初、重政は日野江城に入りますが、城が島原半島の南西寄りにあることから、島原の森岳に新しく城を築くことを決意します。そして1624年に完成した島原城は、南蛮造と呼ばれる5層の天守を持つ、大規模なものでした。この費用の捻出のために圧政を敷き、島原の乱の下地を作ったとも言えます。
重政は1630年に急死しますが、後を継いだ子の勝家は父以上の圧政を続けます。遂に1637年に領民が一斉に蜂起します。一揆勢は島原城まで攻め込むも入城することは出来ず、天草の一揆勢と合流して原城に集結します。これが日本最大の一揆となる島原の乱です。翌年の1638年に一揆は鎮圧されますが、勝家は責任を問われ斬首刑に処せらます。荒廃した島原には浜松から高力忠房が入封し、領内の復興に努めます。しかし、子の高長は苛政を行い、領民の訴えにより改易されます。
深溝松平家の忠房が福知山から入封し5代続き、一時宇都宮の戸田忠盈・忠寛と入れ替わるも、再び松平忠恕が入封し、以後松平家が明治維新まで続きました。深溝松平家が入封されたのは、海外貿易の窓口である長崎の警護や九州外様大名の監視が目的でした。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
島原駅から島原城までは直ぐですが、島原までがなかなか遠いのよね。意外と熊本からフェリー利用のほうが近いかもしれません。
博多駅から諫早駅まで、特急つばめで1時間40分。諫早駅から島原まで、島原鉄道で1時間10分。
熊本からフェリーを利用した場合、熊本港から島原港までフェリー60分。島原港駅から島原駅まで島原鉄道で乗車9分。
城歩き
島原城縄張図
島原城は、一国一城令後に築城が認められた数少ない例になります。その縄張は少々独特で、本丸・二の丸・三の丸が一列に並び、外郭がそれらをぐるりと取り囲む長方形の城でした。また、総石垣造りですが、外郭には堀が設けられていませんでした。
島原城遠景
島原駅を出るとまず目に入るのが島原城。駅チカの城ですね。ただ、島原駅までが遠いですが・・・
巽三重櫓(再建)
駅前からの道を上り切ると、いきなり本丸の東側に突き当たります。ただ、城に入るためには回り道しなければなりません。天守の撮影のため、取り急ぎ左(南)に進みます。
本丸南側の石垣の折れ
本丸の石垣の高さは15メートル以上はあり、石垣の折れも見事なものです。
天守と巽三重櫓
島原城の写真の90パーセント以上が、この南東隅からの構図と言っても過言ではありません。苔むした高石垣に白亜の天守のコンストラストが本当に美しい。
本丸には二の丸経由でしか入れませんでしたが、現在は本丸西側に石垣をぶち壊した道路が造られています(白目)。もちろん私は二の丸からのコースを目指すため、来た道を戻って北に向かいます。
丑寅三重櫓(再建)
島原城には3基の三重櫓が建っていました。丑寅三重櫓は本丸北東隅に建てられていますが、巽櫓と西櫓は塀の内側に建てられています。少し不思議だなと。
本丸と二の丸の間
当時、本丸と二の丸の間には廊下橋が架かっており、それが唯一の出入り口でした。守備的には堅固ですが、逃げ場がないので縄張り的には微妙だと思います。現在、堀の水は干上がって散策コースになっており、ここから天守を目指すのが徒歩組の最短コースになります。
島原城二の丸
更に北に進んで、二の丸北東隅を振り返ってみたところ。手前の建物は島原文化会館です。島原は湧水で有名ですが、現在はほとんど空堀ですね。
二の丸入口
二の丸への入口は一箇所のみで、当時は枡形になっていました。現在は写真の通り、道路が真っ直ぐ通っています。二の丸内には公民館と文化会館が建っていて、残念なことに見どころは少ないです。
本丸入口
文化会館の裏に本丸への道がひっそりあります。現在は堀底を通って本丸に入りますが、当時は廊下橋が架けられていました。いざというときは、橋を落として防御を固める縄張です。
本丸枡形
本丸入口には枡形が設けられています。島原城の石垣は比較的小振りな石が使用されていますが、流石に大手には巨石が用いられています。鏡石もありました。
連続枡形
本丸には迷路のように石垣が張り巡らせられており、天守に至るまでに連続して枡形が設けられていました。現在、門などの建物は残っておらず、石垣も一部失われています。
天守への道
天守への一直線の道路。もちろん当時この道はなく、手前にあった石垣は撤去されてしまったようです。また、天守周りは駐車場になっています。バリアフリーと言えなくもありませんが、島原城の改変具合はかなりのものです。
天守(再建)
再建された5重5階の白亜の天守。写真や記録が残っておらず、実際は4重5階だとか、壁面が下見板張(つまり黒色)だったとも云われています。注目すべきはその高さで、なんと熊本城よりも高いのです(再建天守では名古屋城に次ぐ第3位)。何度も言いますが、建てたのは4万石の小大名ですよ。無理しすぎです。
普賢岳方面
天守最上階の展望台から眺めた普賢岳。手前が眉山、右奥が平成新山です。1991年の普賢岳の噴火が記憶に新しいですが、1792年の噴火では1万人以上が亡くなる日本史上最悪の災害となりました。
熊本方面(有明海)
噴火で崩壊した眉山東部が有明海になだれこみ、大津波を発生させました。大津波は対岸の肥後と天草を襲い、反射した津波が島原を襲いました。俗に言う「島原大変肥後迷惑」です。その被害の大きさは、当時の島原藩主である松平忠恕が心労で亡くなるほどでした。
西三重櫓
本丸南西隅に位置する西三重櫓。実はここが本丸で一番高い場所になります。
本丸西側の道
堀を埋めて土橋を造り、石垣を壊して作られた本丸への道路。現在ほとんどの観光客がここから天守に向かっています。今だったら許可されないでしょうね。個人的には、本丸は昔のままにして、二の丸に駐車場を作れば良かったのにと思います。
扇の勾配
本当に本丸の高石垣は見事です。堀の南東側は昭和40年代まで蓮根畑になっており、今でもレンコン堀り大会が開催されるとか。なんか平和だ。
外郭の石垣
外郭の石垣も所々ですが残っています。島原の乱の際には一揆軍の攻撃を防ぎ、島原大変のときには大津波を受け止めました。
大手門跡
一揆勢との激戦が繰り広げられた大手門跡。電柱の辺りが門の入口で、裁判所前の駐車場が虎口だった模様。一揆勢は城内に侵入することが出来ず、原城での籠城を決断しました。
武家屋敷跡
外郭の西には、徒士(歩兵)の住居が建てられており、現在もその雰囲気を残しています。どの家も石垣が築かれており、道の真ん中に用水が引かれています。車が通れず、車庫も作れないので、現在住むのは大変そうです。
感想
島原の乱の原因の一つになったのも理解できる立派な城でした。本丸の高石垣と白亜の天守が本当にきれいです。ただ、観光のためとはいえ、石垣を壊して道路を作ったり、天守の周りに駐車場を作ったりと、昭和時代の整備が雑なのが残念です。
島原城を築くための負担が島原の乱の一因になり、戦いの際には一揆勢の障害となり、島原大変の際には大津波を受け止めたりと、歴史の皮肉さを感じさせられました。