佐賀藩35万7千石の居城であった佐賀城。広大な堀と本丸石垣が残っています。大藩の割には地味な印象が強かった佐賀城ですが、2004年(平成16年)に本丸御殿が復元されました。
2023年9月登城
満足度:★★★★★
歴史
戦国時代、肥前を支配していた龍造寺隆信が戦死し、混乱する龍蔵寺一門を取り纏めたのが重臣・鍋島直茂でした。直茂は豊臣秀吉、徳川家康にも力量を認められ、佐賀領主として実権を掌握します。
鍋島直茂・勝茂父子は龍造寺家の居城だった村中城を拡張し、1611年に完成したのが佐賀城です。以後、幕末まで佐賀藩の居城となりました。
佐賀城が実戦の舞台になるのは、1874年(明治7年)に起こった佐賀の乱です。政争に敗れた江藤新平は不平士族と反乱を起こし、県庁(佐賀城)を占拠しましたが、反乱はまもなく鎮圧されました。
龍造寺家と鍋島家
「肥前の熊」の異名をとった龍造寺隆信は九州三強の一角として勢力を拡大しましたが、その右腕として活躍したのが重臣の鍋島直茂でした。直茂の父・清房の後室は龍造寺隆信の母・慶誾尼であり、つまり直茂は龍造寺隆信の義弟にあたります。1584年の沖田畷の戦いで隆信が戦死した後、島津家との交渉にあたったのも直茂でした。
豊臣秀吉の九州平定や朝鮮出兵の際にも鍋島直茂は活躍し、龍造寺家に代わって肥前の国政を任せられます。名目上は龍造寺家、実質は鍋島家が治める二重体制になりました。
1600年の関ヶ原の戦いでは、息子・勝重は西軍について伏見城を攻めますが、直茂は九州の西軍の城を攻め落とし、領土を安堵されます。その後、勝茂は徳川家康の養女を正室に娶り、徳川家からも肥前領主として認められました。
龍造寺家と鍋島家の捻れた関係が解消したのは江戸時代に入ってからでした。龍造寺隆信の孫・高房は、龍造寺家の復権を望みましたが、幕府はおろか家臣からも相手にされません。激昂した高房は、1607年に正室(直茂の孫娘)を殺害し、自身も自殺を図るという事件を起こします。この事件後、龍造寺姓を名乗るものは居なくなり、名実ともに鍋島家が佐賀藩主となりました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR佐賀駅から徒歩だた約30分。駅からバスが複数出ており、バス停:佐賀城跡までだと15分程度で着きます。
縄張り
佐嘉小城内絵図
佐嘉小城内絵図は築城当初の佐賀城を描いた絵図になります。縄張りはシンプルで、方形に水堀と土塁が囲み、南東部に本丸・二の丸が設けられました。石垣は本丸北側と西側のみ、天守以外の多層櫓が1つ、門の枡形も1つしかないという、35万石の大名にしてはかなり地味な造りでした。
築城時の肥前領主は(名ばかりですが)龍造寺家だったこともあり、城内の要所は旧龍造寺一門の屋敷で占められています。鍋島直茂の気苦労が垣間見えます。
出典:国土地理院撮影の空中写真(2021年撮影)
日本有数の幅広い水堀が残っていますが、残念ながら本丸北側と西側、外堀の東側は埋め立てられています。特に外堀東側は昭和初期に埋立・分譲されており、住宅が立ち並んでいます。現在東堀の復元を一部行っていますが、城好きにとって勿体ないことをしてしまったかも。
城歩き
北側堀
駅から城内を縦断する本丸通りを通って、北から佐賀城に向かいました。江戸時代にこの通りは無かったので、城の一角をぶち抜いているはずですが、土塁は見受けられませんでした。ただ、堀の幅は60メートルほどもあり、スケールの大きさが感じられました。
本丸通り
城内が広く、かつ平地なので、城を歩いている気分は全く感じられません。近代大名の城はとにかく広いなと感心。
本丸石垣
堀から400メートルほど歩くと、本丸北西隅に着きました。奥に見えるのは天守台で、手前の芝生部分は当時水堀でした。ここから城内を横断する城内通りを通って、二の丸に向かいます。
二の丸
正面奥に鯱の門が見えます。当時は二の丸御門が設けられていたようですが、跡形も残ってないですね。
幕末に活躍した10代藩主・鍋島直正公の銅像が建てられていました。本丸御殿内の展示もそうでしたが、藩祖の直茂ではなく、幕末の直正推しのようです。
鯱の門
佐賀城で唯一の現存建築物である鯱の門。この門を通ると本丸に入りますが、先に天守台に向かいます。
本丸石垣
佐賀城で石垣を築いたのは本丸北側と西側のみになります。当初は本丸・二の丸の四方全てを石垣にする予定でしたが、財政難、かつ幕府に遠慮したためと言われています。
天守台入口
佐賀城の天守台が面白いのは、二の丸側(外側)から付櫓経由で入る珍しい構造でした。築城した鍋島直茂が主君の龍造寺家に遠慮したからだとも言われています。ただ、付櫓の南側(城内側)石垣に石材が異なる箇所があり、本丸側からも入れた可能性はありそうです。
天守台上
天守台には4重5階の天守が建てられていましたが、1726年の大火で焼失し、再建されませんでした。その後、1887年(明治20年)には測候所が、1957年(昭和32年)には協和館(集会所)が移築されましたが、2004年(平成16年)に解体撤去されました。
通常天守は城下町からよく見える場所に建てるものですが、佐賀城天守は城内側の本丸北西隅に位置しています。推測ですが、城内に住む旧龍造寺一門に鍋島家の威光を見せつけるためだったかもしれません。
鯱の門
鯱の門は本丸表門で、二重二階の櫓門に続櫓が配されています。1835年の二の丸火災後、1838年に新たに建てられました。外側に続櫓が突き出ていて、珍しい構造です。
銃弾跡
門の扉には、佐賀の乱で打ち込まれた銃弾跡が残っています。
本丸御殿
2004年(平成16年)に復元された本丸御殿。佐賀の乱の戦災を逃れた建物は役所や学校に利用されて来ましたが、老朽化すると随時解体されました。
平成に再建された御殿はとにかく広く、佐賀城本丸歴史館の一部として公開されています。展示は藩祖の鍋島直茂や龍造寺家の説明は少なく、幕末の佐賀藩に関するものが多かった印象です。ちなみに入場料は 無料(募金の協力)です。
本丸西入口
本丸には鯱の門以外にもう一つ入口がありました。現在は車1台通れるほどの幅がありますが、当時は道路に描かれた線まで石垣がありました。発掘調査では門の跡が見つからなかったそうなので、隠し通路みたいなものだったのでしょう。
南西隅櫓台
平成の本丸御殿復元に併せて復元された櫓台。櫓が建てられたことはないようですが、櫓台自体は江戸時代に何度か修理されています。それにしても、なんで碁石みたいな白黒の石垣にしてしまったのか・・・
本丸南側
南西隅櫓台から本丸南側の堀を眺めてみました。現在この辺りの堀幅が一番広く、80メートル近くあります。佐賀城の堀が広いのは、鉄砲戦を意識したからだとも言われています。
本丸西側
土塁の城の佐賀城で、城内に面する本丸西側に石垣を築いたのは、旧龍造寺一門に対する鍋島家の示威だったのかもしれません。ただご覧の通り、内側は土塁という節約型です。
感想
佐賀城の目玉は、やはり鯱の門と本丸御殿でしょう。特に復元された本丸御殿の立派さは大したものです。天守台も逃さず登ってください。
行政は佐賀城の遺構の保護に無関心だったようですが、平成以降はやる気を出しているようなので、これからも頑張って欲しいですね。