石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

飫肥城(宮崎県日南市) 本丸にそびえ立つ飫肥杉

伊東氏5万1千石の飫肥城。城下町は「九州の小京都」とも言われ、武家屋敷の石垣が残っています。NHK連続テレビ小説わかば」のロケ地にもなりました。

日本100名城

2023年1月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

飫肥は日向と大隅の境目に位置しており、戦国時代には島津氏と伊東氏との間で100年にも渡る争いの場となりました。

1568年、日向国戦国大名・伊東義祐は島津忠親が守る飫肥城を攻め、飫肥を手に入れました。飫肥城には義祐の次男・祐兵が入り、伊東氏は全盛期を迎えることになります。

しかし、栄華は長く続かず、1572年の島津義弘との木崎原の戦いで大敗を喫し、祐兵も飫肥城から逃げ出さざるを得ませんでした。飫肥城は再び島津氏の手に戻りました。

だがだがしかし、豊臣秀吉による九州征伐で状況が一変します。祐兵は、秀吉勢の先導役として活躍した結果、旧領地を回復し、1588年には飫肥城に入りました。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、徳川家康に所領5万 7000石を安堵されました。以降、明治維新まで伊東氏が藩主を務めました。

 

交通アクセス

行きやすさ:

JR駅はありますが、鹿児島を除く他県から鉄道のみで訪問するのはなかなか大変な城跡であります。

・JR日南線で、宮崎駅から飫肥駅まで、快速60分、普通70~80分。飫肥駅から城入口まで徒歩20分弱。

宮崎交通バスで、JR宮崎駅から飫肥まで129分、宮崎空港からだと100分。バス停から城入口まで徒歩6分。

 

 

縄張図

江戸時代中期(地震後)の縄張り

元々の飫肥城の縄張りは、シラス台地の各曲輪を空堀で区切った南九州特有の中世的な縄張りで、石垣も本丸と門入口の一部分にしか築かれておりませんでした。

しかし、1662年、1680年、1684年と度重なる地震で大きな被害を受けたことから、1686年から改修を開始し、中ノ丸全体と松尾丸と今城の一部を合わせて、新たな本丸としました。この工事により、飫肥城は中世と近世の特徴が融合した城郭へと生まれ変わりました。

 

城下町

大手門通り

飫肥 大手門通り

飫肥城下町は重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、景観に配慮した街づくりが行われています。大手門へと続くこの大通りにも、電柱が無いですよね。

 

小村寿太郎生誕地碑

小村寿太郎生誕地碑

大手門通り入口近くに建てられている小村寿太郎生誕地碑。

小村寿太郎飫肥藩の下級武士の子として生まれましたが、その後、明治政府の外交官として活躍しました。日露戦争講和条約ポーツマス条約」を締結したこと、幕末以来の米英独仏との不平等条約を改正したことで有名です。

 

武家屋敷

飫肥 武家屋敷

通り沿いには武家屋敷が建ち並んでおり、隙間なく積まれた石垣が立派です。鹿児島各地に残っている、麓(ふもと)と同じ様な雰囲気を感じます。

 

水路の鯉

飫肥 城下町

後町通り沿いの水路では、悠々と鯉が泳いでいました。

 

城歩き

大手門

飫肥城 大手門

飫肥城 大手門

城入口にそびえ立つ大手門。飫肥城の建物は明治の廃城令で撤去されましたが、1978年(昭和53年)に飫肥杉を使用して復興再建されました。

 

大手門横空堀

飫肥城 大手門横空堀

大手門の両脇には空堀が掘られています。飫肥城の縄張りはシラス台地の地形を利用したものでしたが、南側(大手門側)にのみ直線の堀が掘られています。

 

大手枡形

飫肥城 大手枡形

飫肥城 大手枡形

飫肥城 石垣

大手門を通ると、立派な枡形が待ち構えています。石垣がきれいな布積みなところをみると、地震後に修復されたのかもしれません。

 

本丸石垣

飫肥城 本丸石垣

虎口を出ると本丸石垣に突き当たり、左右どちらかに進むことになります。と思ったら、本丸への入口がありました。古絵図にも残っていることから、本丸造成時に設けられたようです。防御的にはどうかと思いますが、江戸の平和な時代ですからね。

本丸東側の石垣

飫肥城 本丸石垣

飫肥城

飫肥城

本丸石垣に沿って右側(東側)に進むと櫓台があり、そこを左折すると校舎が見えます。本丸東側と今城曲輪が削平されており、現在は小学校が建てられているんですね。

本丸西側の石垣

飫肥城

来た道を戻って、本丸石垣沿いに西側(左側)に進みます。こちらが観光の正式ルートになります。

 

大手門西側土塁

飫肥城 大手門西側土塁

大手門西側の土塁を裏から見ることが出来ます。内側の高さは4メートルですが、空堀底からの高さは16メートルもあったとのことでした。

 

本丸西側通路

飫肥城

飫肥城

本丸西側と松尾丸の間の道を進みます。松尾丸は小島のように独立しており、元々の飫肥城はこのような曲輪の集合体でした。

 

本丸西側枡形

飫肥城

飫肥城

飫肥城

本丸西側入口は枡形になっており、当時は門が設けられていました。

 

本丸跡

飫肥城 本丸跡

現在、飫肥城の本丸跡は小学校のグランドになっています。

 

松尾丸と復元御殿

飫肥城 松尾丸

飫肥城 復元御殿

松尾丸への階段があり、曲輪上には書院造りの御殿が再建されています。本当は本丸に建てたかったのでしょうが、小学校の校庭ですからね。

 

旧本丸への道

飫肥城

本丸と旧本丸の間の道を通って、旧本丸へと向かいます。

 

旧本丸入口

飫肥城

飫肥城

飫肥城 旧本丸枡形

旧本丸入口は枡形となっています。地震後に積み直したのでしょうが、きっちりと積まれた石垣がきれいです。

 

旧本丸

飫肥城 旧本丸

飫肥城 旧本丸

旧本丸には杉の木が立ち並んでいます。静かな雰囲気がとても良い。

NHKの連続テレビ小説わかば」にも、主人公が元気を取り戻すシーンで登場しています。

 

謎の岩

飫肥城

北門前には謎の直方体の岩がありました。ミステリーですね。

旧本丸北門

飫肥城 旧本丸北門

旧本丸の北側には門がありました。特に案内板はなく、当時の門ではなさそうです。

北門からのグランド

北門からはグランドを見渡すことが出来ました。現在は削平されておりますが、当時は旧本丸のような小山の曲輪でした。間を通る道路が空堀を兼ねた通路でした。

 

感想

大手の立派な門や石垣からは想像できない、中世城郭の気配が残っている城でした。特に旧本丸の雰囲気が最高です。島津氏と伊東氏がこの城の争奪を繰り返したと思うと、ますます感慨深かったです。

具志川城(沖縄県糸満市) 海を見渡す断崖絶壁に立つ城

沖縄半島南端の喜屋武岬の断崖上に築かれた具志川城。城内からは海を見渡すことができ、海上の船を監視する役目を果たしていました。城壁が良好に残っていることから、1972年(昭和47年)に国の史跡に指定されました。

2022年12月登城

満足度:★★★★

 

歴史

伝承によると、久米島の具志川城主・真金声按司が落城して島から脱出してこの地に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたと言われています。

発掘調査によって、青磁等の中国陶器が見つかっており、12世紀後半から15世紀中旬までグスクとして機能したと推定されています。

 

交通アクセス

行きやすさ:

那覇からバスで行くには一度乗り換える必要があり、バス停からも20分ほど歩くので、なかなかにハードルが高いです。ポイントは、1日数便しかない南部循環線(糸満バスターミナル↔喜屋武)をいかに利用出来るかにかかっています。また、那覇から糸満ロータリーまでは渋滞するので、乗り継ぎ時間に余裕を見ておいてください。

那覇バスターミナルから「89番 糸満線」もしくは「446番 那覇糸満線」に40分弱乗車し糸満ロータリー下車。糸満ロータリーから「107 南部循環線(真壁・喜屋武)」だと40分、「108番 南部循環線(喜屋武・真壁)」だと10分乗車し、喜屋武バス停下車。バス停から徒歩20分。

 

 

縄張図

具志川城の縄張りは、海側の先端部分に一の曲輪、陸側に二の曲輪が配置されています。地形の高低差上しょうがないのですが、一の曲輪の方が二の曲輪より低い位置にあります。

 

城歩き

具志川城入口

具志川城入口

畑だらけの道を進むと、具志川城の入口が現れました。駐車場もあるので、車で来られた方も安心です。

 

具志川城への道

入口から城までは一本道です。具志川城は海の断崖上に築かれていますが、そんな雰囲気は未だ感じられません。

 

アザナ前広場

具志川城 アザナ

具志川城 東のアザナ

具志川城 西のアザナ

道を抜けると、壮大なアザナ(物見台)が出現しました。手前が東のアザナ、奥が西のアザナで、門の防御を固めています。

 

城門入口

具志川城

アザナの間を通って城内に入ります。門を建てるには虎口の幅が広すぎる気がしましたが、門の両脇に石垣を積み上げていたようです。

 

二の曲輪

具志川城 二の曲輪

二の曲輪はぐるっと城壁に囲まれていて、中心には井戸のような「火吹き穴」があります。

 

火吹き穴

具志川城 火吹き穴

この穴の面白いのが、断崖の割れ目に繋がっており、実際に海まで降りることが出来ることです。よくある抜け穴伝説は「絶対無いぞ、これ」っていうのが多いですが、これは現実に可能なんですね。

石段と武者走り

具志川城 石段と武者走り

城壁上の平らな部分(武者走り)に上るための石段が設けてあります。

 

石段と基壇

具志川城 石段と基壇

石段を上って一の曲輪に向かいます。説明板によると、石段は基壇(建物を立てるための土台)の中から見つかったとのことです。つまり、最初は石段を造ったが、後に物見曲輪を拡張するため石段を埋めて、基壇を築いたということです。

 

一の曲輪

具志川城 一の曲輪

遺構保護のために、デッキの階段が設置されていました。具志川城は海側の方が低いので、眺めが良いですね。

 

一の曲輪

具志川城 一の曲輪

ぐるっと城壁に囲まれています。具志川城は海に突き出た岩盤上に建てられているので、海側から攻めるのは無理でしょう。

 

城壁

具志川城 城壁

具志川城 城壁

東側の城壁は狭く低いのに、西側は広く高く築かれています。西側には裏道があるので、より厳重に守られているとのことです。

 

一の曲輪からの眺め

やはり眺めが最高です。遠浅な海なので、船でこの城を攻めるのは困難ですね。

 

感想

巨艦のような岩の上に築かれた具志川城。陸側にはアザナがそびえ立ち、海側は断崖絶壁の堅固な城でした。立地から考えると、海外からの船を監視するための出城だったかもしれません。

以前は城から海岸に下りて、潮溜まりで遊ぶことも出来ましたが、現在は禁止されています。海遊びは別として、海側からこの城を眺めたかったな。

福山城(広島県福山市) 日本唯一の鉄板張りつけ天守

駅からめっちゃ近い福山城。ホームからも5層の天守を見ることができます。2022年の築城400年を記念して、日本唯一の天守北側の鉄板貼りが復元されました。これは絶対見逃せません。

日本100名城

2022年12月登城

満足度:★★★★

 

歴史

1619年に安芸・備後を治めていた福島正則が改易されると、備後には大和郡山から水野勝成が10万石で入封しました。この地には山城の神辺城がありましたが、西日本の外様大名に対する抑えとして、新たに福山城が築かれました。幕府からの支援もあり、10万石とは思えない規模の城でした。伏見城から櫓が移されたことからも、幕府の力の入れようがわかります。

水野氏絶縁後も、松平氏、阿部氏と譜代大名が配されました。幕末には新政府軍の標的となり、長州軍との戦場になる寸前でした。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

本丸南の内堀を埋めて福山駅が建てられたこともあり、駅からとっても近い城跡です。個人的には、城を避けて鉄道を通して欲しかったのですが・・・

 

 

縄張図

福山城は常興寺山を中心に築かれた平山城で、本丸上段に天守を始めとした櫓群、本丸下段に帯曲輪のような二の丸、内堀の外側には三の丸を巡らせていました。また、現在の姿からは想像できませんが、外堀と海が運河で繋がっていました。

さて、縄張図を見て気づくのが、城の背面である北側の守りが非常に弱いことです。しかも、城外に小山があるため、そこから本丸を砲撃されると一溜まりもありません。その対策として、天守の北側面に鉄板を貼るという方法を取っていますが・・・。

西国大名の抑えとして、幕府の支援を受けて大々的に築城されたところ、なのに背面側が無防備なところが、明石城に似ているなと思いました。幕府の権威を見せつけるための、ある意味で張りぼて的な城郭でした。

 

城歩き

ホームからの福山城

福山城

先にも述べましたが、内堀を埋め立てて山陽線を通したので、新幹線上りホームから福山城がよく見えます。

 

本丸石垣

福山城

駅南口を出てすぐ、そびえ立つ本丸石垣。結構な高石垣で、奥に見えるのは月見櫓。

 

城内入口の石段

福山城

本丸石垣を横目に西に歩くと、城内入口への石段があります。当時は石段横側にも曲輪が広がっており、鉄砲櫓や櫛形櫓が建てられていましたが、現在は跡形もありません。

 

伏見櫓

福山城 伏見櫓

石段を上りきると、こちらを見下ろすように建てられている伏見櫓。1951年の改修工事の際、2階の梁に「松ノ丸東やく(ら)」との刻字が見つかったことから、伏見城の松ノ丸ノ東であることが判明しました。

 

筋鉄御門、御湯殿、月見櫓

福山城

本丸上段入口には筋鉄御門が設けられており、東に向かって御湯殿と月見櫓が見えますね。

 

御湯殿(再建)

福山城 御湯殿

石垣から飛び出た懸造のこの建物は御湯殿です。名前のとおり、藩主が使用するための風呂場でした。この湯殿も伏見城から移築されたと伝わっていますが、1945年8月の空襲で焼失しました。

 

月見櫓(再建)

福山城 月見櫓

本丸南東隅に建てられた月見櫓。城下を一望することができ、伏見城から移築されたと伝わっています。現在、会議室として貸出されていますが、今後「城泊」としての活用も考えられているようです。

 

筋鉄御門(現存)

福山城 筋鉄御門

本丸に入る正門である筋鉄御門。扉に十数条の筋鉄(すじがね)が打ち付けられています。空襲を免れた貴重な遺構です。

 

鐘櫓

福山城 鐘櫓

ぽつんと独立しているように見えますが、当時は多聞櫓が連なっていました。いろいろ改築されて本来の姿とは異なるようですが、現存する貴重な遺構です。現在でも1日4回鐘が鳴らされています。

 

黄金水

福山城 黄金水

本丸で一番重要だった井戸「黄金水」。現在も水を湛えています

 

天守

福山城 天守

福山城 天守

5重6階の大天守に2重3階の小天守が付属する堂々たる姿です。戦前に国宝に指定されていましたが、1945年8月8日の空襲で焼け落ちました。本当に残念。

1966年(昭和41年)に再建されたわけですが、北側に鉄板張りをしなかったり、窓枠を黒くしなかったり、最上階の回廊の華頭窓が2つだったり(元は1つ)と、焼失前とは異なる点がいくつかありました。

 

六角形の鉄砲狭間

福山城 天守鉄砲狭間

しかし、2022年の築城400年リニューアル工事「令和の大普請」を経て、焼失前に近い姿を取り戻しました。細かいところでは、六角形の鉄砲狭間まで再現されています。

 

天守北面

福山城 天守北面

福山城 天守北面

鉄板が貼られたことによって真っ黒となった天守。ジキルとハイド氏のように、印象が全く変わりますね。逆光になるので写真が撮りづらいのが難点か。
今回の天守北側の鉄板張りにあたり、市民から実物の鉄板2枚の提供があり、検証に大いに役立ちました。また、地元に工場のあるJFEスチールが鋼板約2千枚を寄付しました。市民や地元企業からの支援がありがたいね。

感想

正直に言うと、本丸以外の遺構が壊滅状態で、天守はあるけどなんだか面白くないと思っていました。しかし、今回のリニューアル工事を経て、かなり面白くなりました。何と言っても、日本唯一の鉄板張りつけ天守をぜひ見てください。

糸数城(沖縄県南城市) 万里の長城を思わせる城壁

南部地区で一番の城壁が残っている糸数城。万里の長城のようで迫力満点です。城内も広く、見どころいっぱいのグスクでした。

2022年10月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

築城の年代は不明ながら、三山鼎立時代に玉城城にいた玉城按司が三男を糸数按司に任じて築かせたと伝えられています。また伝承によると、糸数按司の配下には猛将・比嘉ウチョウがいたが、彼がグスク増築のための部材を買いに城を離れている隙に、敵対する上間按司に急襲されて落城したといいます。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

那覇からのバスは2通りあります。糸数アブチラガマから南に向かうとすぐにある、左の別れ道を進んだ先にあります。

那覇バスターミナルから、「51番 百名線」に40分弱乗車し「糸数入口」下車。バス停から徒歩20分弱。

那覇バスターミナルから、「40番 大里線/309番 大里結の街線」に45分乗車し「世利田」下車。バス停から徒歩16分。

私は玉城城からグスクロードを歩いて向かいました。

 

 

途上の道

グスクロード

玉城城からグスクロードを西に進みます。途中のグスクロード公園(なんじー公園)に自販機やトイレがありました。

 

糸数城への道

25分ほど歩くと右側に駐車場があり、左側に脇道がありました。案内板等は無く、この先に城があるのか不安になってきます。

 

蔵屋敷

道の左側に広がる蔵屋敷跡。糸数城の東には蔵屋敷が広がっていましたが、明治時代に天然痘が流行した際、現在の城跡西に移転しました。石積みが残っているようですが、草ぼうぼうでよく分かりませんね。

 

佐南グムイ

道の右側には、佐南グムイという標柱が立っています。かつてここには溜池があっりました。奥に見える建物は、気象レーダー観測所です。

 

糸数配水池

配水池が見えれば、城跡はもうすぐ。配水池があるということは、この場所が高所にある証拠ですね。

 

根石グスク

配水池の近くには根石グスクの標柱がありました。糸数城が建てられる前は、根石グスクがこの地の中心でした。

 

城壁

糸数城

今まで城らしき遺構は何もありませんでしたが、道の先に城壁が垣間見えます。

 

北のアザナ

糸数城 北のアザナ

北のアザナ(物見台)に出ました。何もない草原を歩き、唐突に現れた城壁の迫力に驚きました。本当に感動しました。

 

城歩き

北のアザナ

糸数城 北のアザナ

北のアザナ(物見台)のこの迫力。北東部にあるこのアザナは崖の上に築かれており、城内で一番の高所にあります。

 

東側城壁

糸数城 城壁

糸数城は丘陵に築かれていますが、玉城城方面には高低差がありません。その弱点を補うため、東側に高い城壁を築いています。

正門

糸数城 正門

城壁の中頃に正門が設けられていました。東側からの入口はここだけです。城内に入る前に南側の城壁の先を見てみます。

 

南のアザナ

糸数城 南のアザナ

城壁の南側にはアザナが連続して設けられています。手前が訳ありのアザナ、奥が南のアザナです。

 

正門寄りのアザナ

糸数城

正門寄りのアザナは、当初は城の正門でした。元は甕城(おうじょう)と呼ばれる方形の小堡であり、後にアザナへ改築されています。また、城壁が2段になっており、下段の犬走り状の石垣は根元が崩れるのを防ぐために積まれています。

 

南のアザナ

糸数城 南のアザナ

アザナとは物見台のことですが、中国の「馬面(ばめん)」、朝鮮半島の「雉(ち)」によく似ており、この城のルーツが垣間見えます。

 

正門

糸数城 正門

再び正門に戻ってきました。正門部分のみ切石が積まれており、明らかに後から築かれています。

城壁(南側)

糸数城

南のアザナや旧正門跡を内からも見たかったのですが、正門を入って左側(南側)は立入禁止になっていました。昔はアザナにも登れたらしいのですが残念。

城壁(北側)

糸数城

糸数城

正門を入って右側(北側)には、北のアザナへの城壁が延々と続いています。実は北のアザナ部分は後から増築されており、この城壁もその時に築かれました。

 

糸数按司の墓

糸数城

糸数城

林の中の道を進むと、糸数按司の墓に出ました。ちなみにこの墓は当時のものではなく、1966年(昭和41年)に建てられています。

城内(北東側)

糸数城

糸数城

林を抜けると平場が広がっており、北東側に城壁が築かれています。ただ、城壁の中央部分は崩されており、車道が造られていました。糸数城に来られる方の大半が、ここから入城することになります。

 

北のアザナ

糸数城 北のアザナ

糸数城 北のアザナ

城壁の外側から見上げる北のアザナは迫力満点。北のアザナは後から増築されていますが、北側の防御を考えると必然だと思います。猛将・比嘉ウチョウが石材調達のため国頭に赴いたとの伝承がありますが、この北のアザナ部分の増築のことを指しているのかもしれません。

 

糸数城の碑

城内には糸数城の碑が建てられていました。次は城内の南側に行ってみます。

 

糸数城之嶽

糸数城 糸数城之嶽

城内には石灯籠付きの御嶽がありました。他にも御嶽らしき跡があり、廃城後も聖域とされてきたことが分かります。

 

謎の穴

プレハブ小屋の後ろに石積みがあったので、恐る恐る入ってみたところ謎の穴がありました。井戸?抜け穴?

 

城跡からの眺め

南端から海が眺められます。こうやって見ると、糸数城が高地に築かれていることが実感できます。

 

感想

何と言っても、中国の城のような城壁が素晴らしかったです。特にアザナは迫力満点で、上れないのが残念でした。日本100名城には選ばれていませんが、隠れた名城だと思います。

玉城城(沖縄県南城市) 岩造りの太陽の門

玉城村(現南城市)の小高い丘にある玉城城。何と言っても岩をくり抜いて造られた太陽の門が写真映えします。城からの眺めも素晴らしかったです。

2022年10月登城

満足度:★★★ 

 

歴史

築城の年代や城主は不明ながら、琉球開闢(かいびゃく)の神「アマミキヨ」が築いたとの伝承が残っており、英祖王統の第4代目・玉城王が居城したとも伝えられています。

琉球王国時代には、国王の命を受けた役人が国家安康と五穀豊穣のため毎年祈願しており、国王も参詣したと伝えられています。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

最寄りのバス停は「玉城」または「喜良原」になり、いずれもバス停から25分ほど歩く必要があります。

那覇バスターミナルから、「50番51番 百名線」に55分乗車し「玉城」下車。バス停から徒歩20分。

那覇バスターミナルから、「40番 大里線/309番 大里結の街線」に45分乗車し「喜良原」下車。バス停から徒歩26分。

私は知念城からのはしごだったので、「知念」バス停からNバス 「A1 知念・佐敷一周線(右回り)」に乗車し、「仲村渠」で下車。グスクロードを17分ほど歩きました。

 

 

城への道

仲村渠(なかんだかり)バス停

知念城から向かうので、最寄りのバス停は仲村渠(なかんだかり)になります。沖縄には仲村渠という苗字の方がいらっしゃいますが、多くは中村に変わっている方も多いのだとか。

 

坂道

バス停から200メートルほど坂道を上ります。路の左側に「ミントングスク」がありましたが、城というより御嶽らしく、民家の私有地内にあるのでスルーしました。

 

グスクロード入口

南城市には城が点在しており、東の垣花城から西の糸数城を結ぶ約4キロの道路をグスクロードと呼んでいます。

 

グスクロード

グスクロードって城好きなら憧れるじゃないですか。でも特に何も無く、こんな道が延々と続きます。現実は厳しい。

 

玉城青少年の家

玉城青少年の家までくれば、玉城城はもうすぐ。先の山上に城壁を望むことができます。

 

玉城城

やっと到着しました。休憩所やトイレはありませんが、城の入口近くに駐車場があり、ちらほら人を見かけました。

 

城歩き

縄張り図

玉城城は、山頂の主郭、斜面にある二の曲輪、麓の三の曲輪で構成されています。現在は主郭にのみ城壁が残り、二の曲輪と三の曲輪の城壁は米軍基地建設の骨材用に持ち去られてしまったとのことです。残念。

 

主郭方面

玉城城

岩をくり抜いた太陽の門がはっきり見えますね。主郭が丘に築かれているのがよく分かります。

 

三の曲輪

玉城城 三の曲輪

一見するとただの広場ですね。現在は入口近くが駐車場になっています。

 

通路

玉城城

玉城城

奥に設けられた仮通路を進むと、主郭への登り口に着きました。当時はここから石畳を上っていましたが、滑りやすく危険なのと、遺構保護のため、近年木製の階段が設けられています。勝連城と同じですね。

拝所

拝所

階段を上っている途中に配所がありました。

主郭の城壁

玉城城

見上げると城壁がそびえたっています。石積みや石自体がきれいすぎる気もしますので、近年修復されたのかもしれません。登り口に面する東側には立派な城壁を築いていますが、その他は急斜面に囲まれていますので、低い石垣のみ築かれています。

 

階段

木で造られた階段は大きく左に旋回しており、その先には・・・

 

太陽の門

玉城城 太陽の門

玉城城といえば、岩をくり抜いて造られた太陽の門。防御力という点では最高レベルでしょう。夏の夏至には城内から朝日が昇るところを見ることができます。


階段からの遠景

階段の途中が踊り場になっていて、ここからの眺めが最高です。遠くの海、自分が歩いてきたグスクロード、芝のきれいなゴルフ場。主郭は木が茂っているため。実はここからの眺めの方が良いんですよ。

二の曲輪

玉城城 二の曲輪

主郭からの斜面が二の曲輪であり、城壁のような石がわずかに残っています。ただ、平常時にここで暮らせるようには思えません。


天つぎあまつぎの御嶽

天つぎあまつぎの御嶽

門を潜った正面にあるのは、「琉球国由来記」に記載された「アガル御イベ、ツレル御イベ」を祀った「天つぎあまつぎの御嶽」です。

 

基壇

玉城城 基壇

天つぎあまつぎの御嶽の右側には、石積みの基壇が残っています。当時は主殿が建てられていたのでしょうね。

 

城壁

玉城城 城壁

玉城城 城壁

城壁は野面積みですね。積まれた石も小振りです。

 

主郭内

主郭内は然程広くなく、平地が少なかったです。普段は祭祀場で、籠城時のみ使用といったところでしょうか。

 

城歩き

玉城城の見どころは何と言っても太陽の門。青空をバックに映えていました。主郭には御嶽もあって、厳かな雰囲気も感じられました。