石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

佐伯城(大分県佐伯市) 2022年8月 登城

佐伯の八幡山に残る佐伯城。世の中が平安に移りゆく中で築かれた山城です。明治の文豪・国木田独歩はこの城山を舞台に小説「春の鳥」を書きました。近年4段石垣が見つかり、要注目のお城です。

日本100名城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

関ケ原合戦後、豊後日田から毛利高政が佐伯に入封しました。それまでの栂牟礼城が不便であったことから、新たに八幡山に4年がかりで築城しました。以後幕末まで毛利氏の居城になりました。

ちなみに毛利高政の旧姓は「森」でしたが、秀吉の中国大返しで毛利の人質となった際、毛利輝元に気に入られ、毛利性を与えられました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR佐伯駅から登城口まで徒歩30分。駅隣りの佐伯市観光協会で電動自転車をレンタルするのもお薦めです。自転車なら10分ほどで着きます。

 

城歩き

登城の道

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佐伯城は山頂部に本丸・二ノ丸・西出丸・北出丸があり、三の丸からは3通りの登城道があります。オレンジ部分は江戸時代から残っている道になります。

 

三の丸櫓門

佐伯城 三の丸櫓門

三の丸の正門として築かれた櫓門。佐伯城唯一の現存建物になります。かつて門の背後には佐伯文化会館がありましたが、ちょうど取り壊し中でした。

 

登城の道入口

本丸への登城道は3つあります。昔からの急な上りの「登城の道」、近年造られた「翠明の道」と「独歩碑の道」。ここは当然「登城の道」にチャレンジでしょう。

 

登城の道

覚悟はしていたけど結構きついです。 山道としては整備されており、途中から石畳もありました。ただ、岩盤剥き出しのところもありますので、雨の日は止めときましょう。

 

二の丸下石垣

佐伯城

佐伯城

山頂に近づくと、つづら折りの道沿いに立派な石垣が現れました。この圧倒的な石垣感が素晴らしい。

 

本丸廊下橋

佐伯城

やっと本丸に辿り着きました。ここまで息を切らせながら15分。昔の殿様も大変だ。

 

縄張図(北出丸へ)

本丸を中心に、北に北出丸、南に二の丸と西出丸を延ばした縄張りです。山頂の限られた敷地を最大限利用するため、折れが少ないのが特徴です。

まずは廊下橋を潜って、北出丸へ向かってみます。

廊下橋と堀切

佐伯城 堀切

本丸と二の丸は堀切で断ち切られています。本丸に入るためには二の丸を経由する必要があり、いざというときは廊下橋を落として防御する仕組みとなっていました。

 

本丸西石垣

佐伯城

本丸西面の石垣に沿って進むます。

 

虎口

佐伯城

北出丸は本丸外曲輪より低くなっており、出入口には虎口が設けられています。

 

北出丸

佐伯城 北出丸

佐伯城 北出丸 櫓台跡

南北に細長く伸びる北出丸。北端にはかつて二重櫓が建てられていました。正直言って狭い北出丸ですが、水場への道がある重要な曲輪でした。

 

若宮の道への下り口

北出丸の虎口近くには、麓の若宮八幡宮に続く「若宮の道」への下り口があります。ここから佐伯城の生活用水であった雄池・雌池に向かってみましょう。

 

若宮の道

若宮の道を数分下ると、雄池への看板が出ていました。この道も結構キツイな。

 

雄池

雄池は、谷の斜面を削った平坦地に築かれた人工池です。湧水と斜面から流れ込む雨水を貯めており、飲料水や防火用水として利用されました。

 

雌池

雄池の下には雌池が造られています。豪雨の際に雄池が溢れないように、雌池に水を流す仕組みが作られていました。しかし、2016年の台風による豪雨により、雄池と雌池間の斜面が崩落し、雌池は埋没してしまいました。現在は復旧しています。

 

縄張図(二の丸、西出丸へ)

再び廊下橋まで戻って、二の丸、西出丸へと向かいます。謎の近世遺跡があるんですよ。

 

二の丸入り口

佐伯城

廊下橋脇の石段を上って二の丸に入ります。

 

二の丸

佐伯城

本丸の南西に配置された二の丸。山頂部では一番広い曲輪で、居宅と呼ばれる建物が中央に建てられていました。

独歩文学碑

佐伯城 独歩文学碑

かつて二重櫓が在った場所に独歩文学碑が建てられていました。

国木田独歩は明治の作家であり、明治26年9月から翌年6月まで教師として佐伯に滞在しました。

 

二の丸虎口

佐伯城

二の丸南端には虎口があり、櫓門が建っていました。

 

西出丸

佐伯城

二の丸西に設けられた西出丸。曲輪の東には虎口があり、先程登ってきた「登城の道」につながっています。普通に考えたら、この道が正式ルートだったんでしょうね。

謎の窪み

二の丸内には井戸のような窪みがありますが、よく見るとレンガで造られています。太平洋戦争時の高射砲跡ではないかとも言われてきましたが、詳細不明とのことです。

 

櫓台跡

佐伯城

南西隅には櫓台跡がありました。では、本丸方面に向かいましょうか。

 

縄張図(本丸方面へ)

本丸へは廊下橋から入ります。本丸東にはコンクリート製の階段がありますが、これは昭和に造られたものです。

 

廊下橋

佐伯城 廊下橋

佐伯城

橋を渡って本丸に入ります。当時は屋根の架かった廊下橋であり、唯一の本丸への入口でした。また、本丸への階段は人ひとりが通れるぐらいの狭い幅しかありません。

 

天守台跡

佐伯城 天守台跡

佐伯城 天守台跡

佐伯城には三層天守があったと伝わっていますが、早々に失われました。本丸中央に天守台が残っていますが、この天守台に天守が建てられたかは不明です。

 

本丸東階段

本丸東の階段から外曲輪に下りました。当時は二重櫓がありましたが、戦前の毛利神社建設に伴いコンクリート製の石段が設けられました。城好きからは残念な改築です。

 

独歩碑

佐伯城 独歩碑

本丸外曲輪にも国木田独歩の碑がありました。独歩は城跡にもよく訪れていたようで、城山を舞台にした「春の鳥」という哀しい話を残しています。ぜひご一読あれ。

 

櫓台跡

佐伯城 櫓台跡

本丸外曲輪には二重櫓が建てられていました。城下からも目立っていたでしょうね。

 

城下の風景

本丸外曲輪からは城下と佐伯湾を一望できます。釣りバカ日誌19の舞台は大分で、最後の方でここからの眺めがちらっと映っていますね。

 

本丸外曲輪冠木門跡

佐伯城

冠木門跡から麓に下りる道は「独歩碑の道」として整備されており、多数の地元の方が登城を楽しまれています。

 

独歩碑の道

「独歩碑の道」は「登城の道」より傾斜が緩い分、大回りになっています。特に案内はありませんが、下の写真の道を曲がらずに真っ直ぐ進むと、最近発見された階段状石垣を見ることが出来ます。

 

ひな壇状石垣

佐伯城 ひな壇状石垣

佐伯城 ひな壇状石垣

2017年(平成29年)の石垣調査で、本丸外曲輪の北斜面にひな壇状の4段石垣が見つかりました。調査当初は近代のものと思われていましたが、1735年(享保20年)に築かれていることが判明しました。

記録によると、1734年(享保19年)の大雨で斜面が崩落したため、翌年安芸(広島)から招いた石工により築かれました。上段石垣の裾を下段石垣が覆うことで補強する「はばき石垣」という手法が取られており、高さ13メートル、その段数は4段になります。

佐伯市はこの石垣をもっとアピールすべきです!

 

感想

山頂の曲輪はけして広くはありませんが、総石垣で築かれており、所々に工夫が垣間見えて面白かったです。また、ひな壇石垣や雄池・雌池のように整備された遺構もあり、続100名城に選ばれて、佐伯市のやる気が感じられました。

そしてなによりも、地元の方々が多数登城しており、愛されているのが感じられたのが嬉しかったです。いい城ですね。

岡城(大分県竹田市) 2021年7月 登城

作曲家・滝廉太郎の「荒城の月」のモデルにもなった岡城。建物は残っていませんが、その壮大な石垣はまるで古代遺跡を思わせます。城好きに絶対お勧めの城跡です。

日本100名城

満足度:★★★★★

 

 

歴史

戦国時代の岡城は大友氏家臣である志賀氏の居城であり、島津軍の猛攻にも耐え抜いた堅城でした。

豊臣秀吉による大友氏改易に伴い志賀氏も竹田を去り、1594年に播磨から中川秀成が入封しました。今に残る壮大な石垣は中川氏時代に築かれたものです。以後明治まで中川家の居城となりましたが、明治維新後に廃城になりました。

作曲家・滝廉太郎は幼少期の2年半、竹田に住んだことがあり、1901年(明治34年)に「荒城の月」を発表しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

大分駅から豊肥本線豊後竹田駅まで70~80分。豊後竹田駅から岡城入口まで徒歩25分弱。岡城入口までのバスもありますが、平日2本しかありません。駅の観光案内所では電動レンタルサイクルを貸し出しています(電動自転車だと10分弱)。

 

縄張り

岡城は、大野川と稲葉川に挟まれた溶岩台地上に築かれており、東西に細長い縄張りとなっています。最大の特徴は総石垣造りであったこと。現在もその石垣がほぼ残っています。エクセレント!

 

城歩き

大手口から大手門跡まで

大手口の登城道入口

岡城

さすが大手口だけあって、立派な登城道。奥に見えるのが大手門の櫓台であり、まるで西洋の古代遺跡のようにも見えます。
 

蒲鉾石

岡城

道沿いには手すりのような蒲鉾石が設置されています。日出城でも見かけましたが、独特の意匠ですね。石の上には塀が建てられていました。

 

登城道

岡城

岡城

岡城

右に左にうねりながら、登城道は続きます。現在は歩きやすく整備されていますが、当時、この石段を進軍するのは大変だったでしょう。

 

大手門跡

岡城

岡城

岡城

登城道の最後の関門である大手門跡。当時は櫓門が構えられていました。現在は石垣しか残っていませんが、西洋の古城のような雰囲気が漂っています。

 

大手門内側

岡城

岡城

大手門の内側は枡形になっていました。門扉があったところには、車輪溝が残っています。重い扉を開閉しやすいように、車輪がついていたのでしょうね。

 

古大手門跡

岡城

大手門跡の裏側にある古大手門跡。大手門とは思えない小ささです。門跡の外側も眺めてみましたが、現在は道らしきものは無いようですね。

 

大手門跡から本丸まで

本丸方面への通路

岡城

大手門跡から本丸へは一本道になります。とても歩きやすい!

 

朱印状倉入口

岡城

通路の左側には曲輪が広がっており、朱印状倉、家老屋敷、城代屋敷が区画されていました。朱印状倉への石段ですが、巻き貝のようなスロープ状に築かれており、なんだかおしゃれです。

 

中川但見屋敷跡

岡城

家老・中川但見屋敷跡です。江戸時代の山城は、藩主が麓に居住するケースが大半でしたが、岡城は藩主も家老の屋敷も城内に住んでいました。

 

城代屋敷跡

岡城

建物は残っていませんが、城代(参勤交代時の留守番)の屋敷跡。

本丸方面の眺め

岡城

岡城が侵食された溶岩台地の上に建っているのがよく分かります。これはちょっと攻められん。

 

西中仕切跡

岡城

通路が途中で折り曲げられており、貫木門が設けられていました。城内で一番狭い箇所で、幅16メートルしかありません。

 

三の丸高石垣

岡城

岡城を撮った写真で一番有名なアングルです。どうやって石垣を積んだのか知りたいくらい立派な高石垣。

 

太鼓櫓跡

岡城

岡城

岡城

三の丸入口には太鼓櫓門が建ち、枡形が設けられていました。石垣は見事な切込み接ぎで、枡形内には鏡石と呼ばれる巨石が埋め込まれていました。

 

三の丸跡

岡城

太鼓門後を過ぎると三の丸跡です。かつては殿舎が建てられており、藩主が他藩の家臣と対面する場でした。

 

御三階櫓跡

岡城

岡城

本丸南西隅の御三階櫓跡。三の丸に面した本丸上には、天守相当の三階櫓が建てられていました。現在は櫓台を残すのみですが、石垣の反りが美しいですね。

くじゅう連山

三の丸からのくじゅう連山の眺め。左から、久住山大船山 、黒岳。この日は本当に眺めが最高でした。

 

二の丸入口

岡城

当時は三の丸と仕切られていた二の丸ですが、現在入口には石段を残すのみ。奥に見えるのは無料休憩所で、当時は藩主用の風呂屋(蒸し風呂)が建てられていました。

 

二の丸跡

岡城

二の丸は本丸や三の丸より狭いです。御殿、月見櫓、風呂屋が建てられて、主に藩主の遊興の場として使用されていました。

 

滝廉太郎

滝廉太郎像

滝廉太郎は12才のとき、父の赴任先である竹田に移り住みました。その後、上京するまでの2年半、廉太郎は竹田で幼少期を過ごし、1900年(明治33年)に岡城の印象を元に「荒城の月」を作曲しました。

 

月見櫓跡

岡城

二の丸北端に築かれた月見櫓跡。ここからの眺めは素晴らしい、というか怖い(笑)

 

本丸への石段

岡城

本丸へは石段が2ヶ所築かれ、上部には櫓門が構えられていました。石段を上って本丸に向かいます。

 

本丸跡

岡城

本丸には御殿が築かれ、御三階櫓、多門櫓、金倉も建てられていました。現在は天満神社が鎮座しており、岡城が島津の大軍を退け落城しなかったことから、「落ちない」として受験生に人気だそうです。

 

御三階櫓跡

岡城

岡城

本丸南西隅には、天守相当の御三階櫓が建っていました。明治維新後にも残っていましたが、廃城令によって破却されました。建物こそ残っていませんが、ここからの眺めは最高ですね、

 

金倉跡

岡城

岡城

本丸の東端には金倉(金庫)が建てられていました。櫓ではなく倉というのがユニークですね。金倉跡から東中仕切跡を見下ろすことができ、空堀を設けて通路をわざと狭くしているのがよく分かります。

 

東の郭と下原門跡

三の丸埋門跡

岡城

岡城

御三階櫓下の埋門跡を出て、岡城の東端にある下原御門跡に向かいます。本丸石垣に沿っての一本道です。

東中仕切跡

岡城

本丸の東には東中仕切がありました。西側に空堀を設けて道幅を狭くし、守りやすい地形にしています。

本丸石垣

岡城

岡城

東中仕切跡から振り返って眺めた本丸石垣。先ほど訪れた金倉の石垣です。よく見ると石垣を継ぎ足した跡が見受けられます。建物の大きさを調整したほうが楽だったと思うのですが・・・

 

下原御門跡への道

岡城

下原御門跡へは迷いようのない一本道です。この辺りからは、観光客をほとんど見かけず、とても静かです。

清水門跡

岡城 清水門跡

道の左側にあった清水門跡。清水門は、藩主が稲葉川のほとりの休息所に向かうために設けられました。今は草が生い茂っていて進めませんが、岡城って意外と抜け道があります。

 

東の郭入口

岡城

清水門跡を横目に先を進むと、東に郭が広がっています。志賀氏の時代にはここ東の郭が城の中心であり、中川氏入封時には、家臣・中川平右衛門の屋敷が設けられていました。

三楽亭跡

岡城 三楽亭跡

落語家の名前のような三楽亭跡。郷土史家の書にその名が出てきますが、詳しくは分かっていません。石碑には、私有地の山林を寄進した方の名前が掘ってありました。

 

荘嶽社跡

岡城 荘嶽社跡

三楽亭跡の奥には、かつて藩祖を祀る神社が在りました。戦後には音楽堂が建てられ、瀧廉太郎記念音楽祭が開催されました。その音楽祭ですが、開催場所は変えたものの、今も竹田で開催されています。

 

御廟所跡

岡城 御廟所跡

更に先には歴代藩主の位牌を祀る御廟所がありました。今はこんもりとしたツツジが円形に植えられています。

 

東の郭沿いの道

岡城

再び道に戻って、再度下原御門跡へと向かいます。車が通れるように道は整備されていますが、曲輪上には草が生い茂っています。「荒城の月」の頃もこんな感じだったのかも。。

 

下原御門跡

岡城 下原御門跡

岡城 下原御門跡

志賀氏時代はこの下原御門が正門でした。1594年に播磨三木から中川秀成が入封し、岡城を大改築した際、現在の大手門が正門となり、下原御門は搦手門となりました。加藤清正のアドバイスとのことですが、本当かな?

 

西の丸

下原御門跡から来た道をずーと戻って、西の丸に向かいます。西の丸は岡城で最も広い曲輪で、1664年に三代藩主・久清が御殿を普請し、政務の中心地となりました。

 

西の丸入口

岡城

やたらと幅広い石段が、古代遺跡のような雰囲気を漂わせています。城って雰囲気ではないですね。

西の丸

岡城

岡城

岡城

更に石段を上った先には、だだっ広い原っぱが広がっています。西の丸は3代藩主・久清の隠居地として普請され、1779年の御殿再建後は政務の中心地となりました。

 

物見櫓跡

岡城

岡城

岡城

西の丸の南端に物見櫓跡が見えましたので、恐る恐る行ってみました。眼下には駐車場が見え、高所恐怖症にはたまりません。櫓台は堀切で遮断されていました。

西の丸南西

岡城

物見櫓跡から眺めた西の丸の南西面。見ての通り断崖絶壁となっており、岡城が難攻不落だった理由がよく分かります。奥に櫓台が見えるので、立ち寄ってみましょう。

角櫓跡

岡城

岡城

岡城

西の丸の西端にある角櫓跡。とにかく見晴らし抜群で、見張り用として建てられた理由もよく分かります。登城途中の道から見えた石垣は、ここ角櫓の石垣だったんだな。

 

中川民部屋敷跡

角櫓跡から北東の道を進むと、中川民部屋敷跡に出ました。中川民部は、3代藩主・久清の五男・久旨を祖とする家系です。

 

近戸門方面

屋敷跡の門跡から出ると、T字型に道が別れています。左に曲がると、主要口の一つであった近戸門口へと続きます。

近戸門跡

岡城

岡城

大手門跡とそっくりの立派な石垣。ここから七曲りの坂を下ると駐車場に辿り着きますが、通行止めになっていました。とても残念。

 

家老屋敷跡への道

近戸門への道を引き返し、そのまま東に向かうと、突き当りで道が二手に別れます。左に進むと家老屋敷跡(中川覚左衛門屋敷跡)に辿り着きます。途中には埋門があったりして、城というより遺跡チック。

 

中川覚左衛門屋敷跡

岡藩家老の中川覚左衛門は、茶道綾部流の祖である古田織部の子孫です。1993年から屋敷跡の発掘調査が実施され、現在は当時の屋敷間取りが復元されています。はっきり言ってめちゃ広いです。

 

感想

本当に最高でした。丁寧に積まれた石垣が西洋の古代遺跡のような雰囲気を漂わせており、石垣マニアには堪りません。訪問の際には、縄張りもよく残っているので、十分時間を取っておいてくださいね。

日出城(大分県日出町) 2021年7月 登城

城下かれいで有名な大分・日出にも城跡があり、日本唯一の鬼門櫓が残っています。作曲家・滝廉太郎の父は元日出藩士であり、祖父は家老を務めていました。

「日出の殿様 木下様は 城の下まで船が着く」

満足度:★★★ 

 

歴史

豊臣秀吉の義理の甥である木下延俊は、関ケ原の合戦で東軍につき、その戦功により日出3万石を与えられました。延俊は日出に入封すると城を築き始め、1602年に日出城が完成しました。築城にあたっては、義兄・細川忠興(中津藩主)の支援を受けました。

日出藩木下家は豊臣家絡みの外様大名でしたが、幕末まで16代続きました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR日豊本線の暘谷(ようこく)駅から徒歩10分。別府から小倉方面に4つ先の駅になります。隣駅に日出駅がありますが、城へは遠くなりますので間違わないように。

 

 

縄張図

縄張図(正保城絵図から)

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海に面した南端に本丸を配し、本丸外側を二の丸が囲み、その東に三の丸、北側に総構えが巡らせてありました。石垣が築かれたのは本丸と各虎口のみでした。

城巡りルート

本丸には日出小学校が建っており、ある意味最強の小学校です。二の丸には中学校が建っており、こちらにはほとんど遺構が残っていません。日出城を堪能するためには、小学校周辺を不審者のように巡る必要があります。

 

城歩き

日出城 鬼門櫓

日出城 鬼門櫓

暘谷駅から日出城を目指して歩いていると、まず最初に目に入るのが鬼門櫓です。特徴的なのは、鬼門を封じるため、櫓の鬼門(北東)方向の隅が無いことです。石垣で鬼門隅を無くす例はありますが、櫓では非常に珍しいです。

実は鬼門櫓は廃城後に民間に払い下げられ、ボロボロの状態でしたが、2008年(平成20年)に町に寄付されて、無事修復されました(よかった!)。

 

日出城 本丸北東隅

鬼門櫓は本丸の北東(鬼門)に建っていましたが、現在は本丸北西の外側に移築されています。当時の北東隅部分はわざわざ凹ませてあり、二重で鬼門封じされていたのかもしれません。

 

本丸北西石垣と空堀

日出城 本丸石垣と空堀

本丸は総石垣で築かれており、かなり大規模な空堀に驚かされます。当時は北西隅に月見櫓が建っていましたが、現在は体育館がどど~んと建っています。

大手門跡

日出城 大手門跡

本丸には小学校が建っています。当時ここには枡形が設けられ、大手門が建っていましたが、現在は校門すら無いですね。


かまぼこ塀

日出城 かまぼこ塀

土橋の両側には、かまぼこ塀が設けられていました。岡城でも見かけた独特の意匠です。

 

本丸北東石垣と空堀

日出城 本丸石垣と空堀

大手土橋から本丸北東の石垣と空掘を見たところ。堀底の花壇みたいのはなんやろ?

 

滝廉太郎

滝廉太郎本人は東京生まれですが、祖先は日出藩の上級武士でした。日出の龍泉寺には廉太郎を含む滝家のお墓があります。

 

裏門櫓

日出城 裏門櫓

滝廉太郎像の正面にある裏門櫓。観光案内所の入口にあるので、なんちゃってかと思ったら、2000年(平成12年)に町が譲り受けた本物でした。鬼門櫓といい、この裏門櫓といい、小学校があるので本来の位置には戻せないみたい。残念。

 

城下公園への道

二の丸に建つ中学校の脇を通って海に向かいます。右側には小学校のプールがありますが、当時は水堀がありました。

 

裏門後

本丸の東に設けられた裏門跡です。当時は枡形が設けられていましたが、今では直進すると校庭です。

 

時鐘

時鐘

裏門櫓跡に設置された時鐘。現在も児童が毎朝突いてくれています。先程の裏門櫓はここに建てられていたわけですね。

 

本丸東石垣と空堀

日出城

日出城

小学校(本丸)と中学校(二の丸)の間には大きな空堀が設けられています。本丸石垣は二段に築かれており、犬走りを通って奥に見える天守台に向かいます。

 

天守

日出城 天守台

天守台がやたら巨大です。あまりに立派すぎたため、三階天守を建てたとき、2階部分に対して1階部分がやたら広い、アンバランスな天守になってしまいました。

 

望海楼跡

日出城 望海楼跡

日出城 望海楼跡

日出城 望海楼跡

本丸南側に虎口があると思いきや、望海楼と名付けられた櫓の跡でした。櫓の一階は海岸側の城門としても機能しており、櫓と門を兼ねていました。天守台にも上りたかったのですが、この先は小学校のグランドなので断念しました。

 

海側への階段

階段を下りて海岸に向かいます。日出は別府湾に面しており、城下かれいでも有名ですね。ちなみに釣り禁止でした。

海側の石垣

現在は遊歩道が造られていますが、当時は海に面して石垣が築かれており、波が石垣を洗っていました。ただ、この石垣は明らかに新し過ぎるので、近年築かれたものですね。

 

空堀

日出城

今は普通の道に見えますが、当時は本丸と二の丸を隔てる空堀でした。

人柱祠

日出城 人柱祠

1960年(昭和35年)に海岸遊歩道の工事中に早桶が発掘されました。早桶は岩盤をくり抜いた穴に収められ、上には大石が載せられていました。中には老武士と思われる人骨と陶製の翁像が、大石の上からは兜の金具が見つかりました。築城当時の人柱と推定されています。

 

空堀

日出城 空堀

空堀の底を北に歩いていきます。奥に見える櫓は鬼門櫓です。ぐるっと本丸周辺を一周してきました。

 

本丸北西隅の石垣

日出城 石垣

高さ15メートル以上はある見事な石垣です。義兄である細川忠興が協力したというのは本当でしょうね。小藩主の初築城なのに石垣が立派です。

 

大手土橋

気になっていた土橋に空いたトンネルを探検してみます。果たして秘密の抜け穴か、防空壕跡か。

 

土橋のトンネル

予想していましたが、やはり近年造られた普通のトンネルでした。空堀の間を繋いだほうが、掃除等で移動しやすいしね。

 

おまけ

滝廉太郎の墓

「荒城の月」を作曲した滝廉太郎の家は、代々日出藩の要職を務めてきました。滝廉太郎の墓は大分市万寿寺にありましたが、遺族の遺構により2011年(平成23年)に日出の龍泉寺に移されました。

 

感想

思っていたよりも立派な石垣と空掘でした。珍しい鬼門櫓も無事修復されて、中に入れるのもうれしいです。ただ残念なのは、小学校があるため本丸に入ることが出来ないこと。天守台から別府湾を眺めてみたかったな。

玖島城(長崎県大村市) 2022年6月 登城

大村藩二万七千石の居城だった玖島城大村湾に突き出した玖島に築かれた海城でした。現在は大村公園となっていますが、大空堀があったり、船蔵跡があったりと見どころ十分の城でした。

満足度:★★★★ 

 

歴史

キリシタン大名であった大村純忠は三城城を居城としていましたが、息子・喜前は朝鮮出兵時の経験から、1598年に三方が海に囲まれた玖島に新たに城を築きました。これが現在残る玖島城(大村城)であり、喜前は大村藩初代藩主となりました。

1614年には2代藩主純頼が大改修を行い、大手口を南側に移し、大手門周辺には打込み接ぎの石垣を築きました。以降、明治維新まで大村家12代の居城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

大村と言ってもピンとこないかもしれませんが、長崎県の中央に位置し、長崎空港があるのも大村市です。地元の方が大村空港と呼んでいて、どこの空港か分かりませんでした(笑)

長崎空港から諫早駅前行のバスに乗って20分、長崎駅からだと長崎駅前から高速シャトル(長崎-大村)に乗って37分、公園入口で下車。公園入口から徒歩4分。

JR長崎駅から長崎本線で約60分、JR大村駅下車。大村駅から徒歩25分。

 

城歩き

日本古城絵図より

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玖島というだけあって、本当に島ですね。方形の本丸は石垣で囲まれており、その南西に二の丸、空堀を挟んだ向こう側に三の丸がありました。普通、海城は本丸が海寄りにあることが多いのですが、玖島城は陸側にあります。大村湾沿岸を領地とした大村藩は、海側から攻められることを想定していたようです。

 

大手入口門跡

玖島城

この場所から大手門まで南西に道が走っていました。なぜ鳥居が建っているかというと、現在本丸には歴代藩主を祀る大村神社が鎮座するからです。

 

桜田の堀

桜田の堀

道の右手には池が広がっています。元は海であり、築城に堀として造られました。

 

菖蒲園

玖島城

大村公園 菖蒲園

城跡を囲むように、L字型に菖蒲園が設けられております。もちろんこれは内堀跡を利用したもので、6月初旬に花菖蒲まつりが開かれるんですよ。

 

大手門跡

玖島城

菖蒲を眺めながら歩いていると、大手門の石垣が見えてきました。このまま入城しても良いのですが、この先の板敷櫓を見学することとします。

 

板敷櫓(復元)

玖島城

玖島城

1992年(平成4年)に建てられた板敷櫓。実は櫓は存在しなかった可能性が高いようです。注目すべきは櫓台の石垣で、ここだけ石の大きさや積み方が異なります(石垣上部は櫓を乗せるために近年積み見直された感じですが)。

 

櫓台脇の石垣

玖島城

櫓台とその脇の石垣とでは、石の大きさや積み方が違いますね。大手門から板敷櫓台に延びる石垣は、2代藩主・大村純頼の大改修時に築かれました。櫓台は後から付け足されたのではないかと想像してみます。

 

大手門跡

玖島城

城への入口に見事な鳥居が建っています。当然ですが、当時は櫓門が設けられていました。

 

埋門

玖島城

玖島城

大手門跡を過ぎると右手に隠れるように埋門がありました。長石を屋根のように渡しており、古代遺跡みたいで面白いですね。

 

大手虎口から本丸へ

玖島城

玖島城

玖島城

玖島城

玖島城

大手虎口から本丸へは、4回も折れ曲がる必要があります。近世城郭らしい技巧的な縄張りです。

梅ヶ枝荘と梅ヶ枝焼

梅が枝荘

途中に店を構える梅ヶ枝荘さん。大村寿司や梅ヶ枝焼が食べられます。お店のホームページによると、大村藩の台所番として仕えていた方が明治に創業されたとのこと。

 

台所口門跡

玖島城

玖島城

本丸には3つの入口があります。階段を上がって右手にあるのが台所口門。藩主の住居の出入り口の門です。

 

二の丸へのルート

玖島城

玖島城

階段を上がって左に曲がると、二の丸か虎口門に向かうルートになります。ちなみに正面に見えるのはトイレです(笑)。玖島城ってトイレが多くて複雑な気分。

 

二の丸

玖島城

玖島城

本丸の南側には二の丸が置かれており、空堀で三の丸と区切られています。

 

板敷櫓(裏側)

玖島城 板敷櫓

玖島城 板敷櫓

空堀に架かった橋を渡って、板敷櫓へと進みます。現在玖島城のシンボル的な板敷櫓ですが、案内板には「二層の櫓が築かれていたものと思われる」と書かれています。また、大改修にあたっては肥後の加藤清正に意見を求めたともありますが、微妙に年が合わないんだよな(大改修は1614年、清正が亡くなったのは1611年)。

 

土橋

玖島城

土橋を通って三の丸に入ります。注目すべきはここから北(上記写真だと右側)に200メートル延びる空堀で、その広さ深さは半端じゃないです。

 

三の丸

玖島城

三の丸は、丘陵地の狭い部分(左右反転させたL字形)と海に接した平地部分で構成されています。左(西)に進むと海側へ出て、右(北)だと空堀沿いの道になります。間の平地には長崎県教育センターがデデーンと建っています(あらら)。

 

大村湾

大村湾

左(西)に進み、樹木の隙間から眺めた大村湾大村藩の領地は湾を囲むように広がっていたので、船での移動は必須でした。そのため全国でも珍しい遺構が残っています。

 

御船蔵跡

お船蔵跡お船蔵跡

玖島城では三の丸の海に面した箇所に船蔵を築いていました。当時は屋根で覆われていて、そのための柱穴の跡も残っていますね。

 

空堀

玖島城

玖島城

再び三の丸に戻りますが、二の丸との間に設けられた空堀が本当にすごいです。幅25メートル、深さは5メートルほどあり、海側からの攻撃をここで食い止めようという強い意志を感じます。

玖島城豊臣秀吉が亡くなった年に築城された新しい城にも関わらず、中世山城のような空堀を防御の要にしているのが面白い。

 

虎口門跡

玖島城

玖島城

再び二の丸に戻って、本丸西の虎口門跡から本丸に入ります。虎口門は正門だけあって、枡形の石垣も立派です(結構積み直されていますが)。

大村神社

大村神社

藤原鎌足藤原純友、歴代の大村領主・藩主を祀る大村神社。本丸には政庁や藩主居館が構えられ、天守や櫓は建てられませんでした。

 

稲荷神社とたぬき

玖嶋稲荷神社

本丸北東隅にある稲荷神社にも参拝したところ、奥でたぬきと目が会いました。稲荷神社なのに、狐ではなくてたぬきなのが可笑しい。


搦手門跡

玖島城

本丸北に設けられた搦手門跡。裏口のためか、単純な平虎口です。

本丸北石垣

玖島城

玖島城

搦手門跡を出て左に曲がり、石垣を眺めながら西に進みます。立派な石垣ですが、上部は最近積み直されていますね。

 

古い石垣

玖島城

玖島城

城郭北側で野面積みの古い石垣が目に入りました。ここにはかつて門が構えられており、石段が海岸に通じていました。玖島城に残る石垣の多くは大改修後のものですが、これは間違いなく築城当時のものです。

 

いろは段

玖島城

城と海岸を結ぶ石段です。築城当初は北側が大手だったと伝えられていますので、ここが大手道だったかもしれません。

 

野球場

現在は野球場がありますが、当時は遠浅の海でした。やはり海城だったんですね。

 

街歩き

玖島城の東には5つの武家屋敷街が形成され、五小路(本小路、上小路、小姓小路、上小路、草場小路)がありました。

 

小姓小路

大村 小姓小路

初め小姓たちが住んだ通りである小姓小路。家の石垣が分厚く重厚です。

 

中尾元締役旧宅

中尾元締役旧宅

大村藩の元締役の中尾静摩が建てた住宅です。切込み接ぎの石垣の上に特徴的な塀が建っています。ちなみに民家なので当然非公開です。

 

五色塀

五色塀

草場小路にある五色塀です。様々な色の石の石積みを漆喰で塗り固めた美しい塀です。大村以外では見かけたことはありません。

 

旧円融寺庭園

旧円融寺庭園

えらい石段を上ったら、斜面を利用した見事な枯山水の石庭がありました。

3代藩主・大村純信には子供がいませんでしたが、末期養子を取ることでお家断絶を免れました。その徳川家の恩義に報いるために、家光の位牌を祀って創建したのが円融寺です。

 

戊辰の役戦没者の碑

知らなかったのですが、幕末に大村藩は尊皇倒幕側にいち早くつき、倒幕から戊辰戦争まで従軍して活躍したとのことです。徳川家の恩から円融寺を創建したにもかかわらず、幕末には倒幕派につくなど、運命は複雑ですな。

 

感想

こぢんまりとしていますが、いろいろ見どころのある城でした。本丸と三の丸の違いが面白く、中世と近世城郭が混じっているようなところが興味深かったです。旧城下の五色塀や旧円融寺庭園も良かったので、興味のある方はぜひどうぞ。

原城(長崎県南島原市) 2021年4月 登城

島原・天草の一揆の主戦場となった原城。激しい籠城戦の末に一揆は鎮圧されましたが、幕府が鎖国に踏み切るなど、日本の歴史に大きな影響を及ぼしました。近年の発掘調査により、十字架やロザリオが見つかるとともに、埋もれた原城の構造も判明しました。

日本100名城

満足度:★★★★★

 

歴史

有馬家時代

現在残る原城は、1599年から有馬晴信日野江城の支城として築きました。城の規模から推察すると、原城に移るつもりだったかもしれません。その後、晴信は詐欺に引っかかって死罪となり(岡本大八事件)、子の直純が後を継ぎますが、日向延岡に転封となります。

代わりとして、1616年に大和五條から松倉重政が島原に入封し、島原に新城(島原城)を築いたため、日野江城原城は廃城となりました。

 

島原・天草の一揆

1637年、島原・天草領主による苛政やキリシタン弾圧、旧有馬・小西家の浪人の参加もあり、日本最大の農民一揆が起こりました。一揆勢は島原城富岡城を攻撃するも落とすことが出来ず、原城に集結しました。

鎮圧には九州の諸大名が駆り出され、幕府からは上使として譜代大名板倉重昌が派遣されます。重昌は12月に2度の総攻撃をかけるも失敗し、後任として老中・松平信綱が派遣されたことを知ります。年明けの総攻撃も失敗し、重昌自身も戦死しました。信綱が現地に着いたのはそのわずか3日後でした。

指揮を引き続いた松平信綱兵糧攻めを選択し、徐々に一揆勢を追い詰めます。そうして城内の食料が尽きたことを確認すると、2月28日の総攻撃で一揆を鎮圧しました。立て籠もった一揆勢3万7千人の多くが処刑されました。

 

その後の原城

島原・天草一揆の後、幕府は原城を徹底的に破壊しました。石垣を崩して土で埋めるという念の入れようで、城の痕跡を残しませんでした。その後、城域の大半が林や畑となり、忘れされました。

長年、松倉重政島原城を築いた際に原城の石材を転用したと伝えられてきましたが、埋まっていたためそのように見えたというのが真実のようです。

 

交通アクセス

行きやすさ:

陸の孤島とまでは言いませんが、結構遠いです。

博多駅から諫早駅まで、特急つばめで1時間40分。諫早駅から島原まで、島原鉄道で1時間10分。熊本からフェリーを利用した場合、熊本港から島原港まで60分、港から島原港駅まで徒歩5分。

それぞれの駅前のバス停から、島鉄バス加津佐前浜海水浴場行きに乗って、原城前停留所で下車します。島原駅から55分、島原港駅から45分。バスは1,2時間に1本しかないので要注意。 

島原鉄道とバスを使うなら、土日祝限定ですが「島原半島周遊パス」を利用するとかなりお得です。

 

城歩き

肥前国原城攻図」から抜粋 

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原城は三方が海に囲まれており、本丸・二の丸・三の丸が南北に並ぶ、連郭式の縄張りでした。一揆勢は籠城にあたり、有馬氏の本城だった日野江城ではなく、この原城を選択しました。

 

原城入口

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バス停「原城前」で降りて、原城に向かいます。二の丸と三の丸の間に横から入る感じですね。ちなみに車の方も同じ道を通ります。

 

板倉重昌の碑

板倉重昌の碑

道の途中にある板倉重昌の碑。重昌は討伐軍を指揮しますが、後任として老中・松平信綱が派遣されたことを知り、覚悟の総攻撃で戦死しました。実は信綱が選ばれたのは重昌が島原に着く前であり、幕府がただの農民一揆ではないと認識を改めたからですが、重昌の武士としての誇りが許さなかったのでしょう。

 

全体図

城の北端まで一旦行ってから、戻るような形で城を歩いてみます。この先にある「原城温泉 真砂」では温泉に入ることも出来ますので、時間があればぜひどうぞ。

 

大手口跡

原城 大手口跡

現在は真っ直ぐ道が通っていますが、当時は内枡形になっていました。一揆後には大量の石で埋め立てられ、人骨や銃弾も見つかっています。

 

三の丸跡

原城 三の丸跡

原城 三の丸跡

道路を挟んだ左右に三の丸跡が広がっています。三の丸には石垣はなく、土塁で守られていました。過去を知らないと、普通の畑にしかみえません。のどかだ。

 

二の丸跡

原城 二の丸跡

原城 二の丸跡

二の丸は城の中央に位置し、最も激しい戦闘が行われた場所でもありました。二の丸にも石垣は無く、丘陵の崖を利用した縄張りなのが分かります。

 

世界遺産の碑

原城 世界遺産の碑

2018年に原城を含む12の構成資産が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、ユネスコ世界遺産に登録されました。

本丸方面

原城

本丸左手は窪地になっており、当時は蓮池と呼ばれる池がありました。これが城内の水源としても利用されました。

 

空堀

原城 空堀

本丸右手には幅広い空堀があり、戦時には女子供が堀底に住んでいました。ちなみに西南戦争時にも、熊本城に籠城中の将校の妻子が空堀へ避難した記録が残っています。銃弾を避けるためには、空堀は有効な避難場所だったのでしょう。

 

ほねかみ地蔵

本丸入口前のほねかみ地蔵。一揆から約130年後の1766年、有馬願心寺の住誉上人と各村の庄屋達が敵味方の区別なく遺骨を集めて供養した地蔵塔です。

 

本丸図

本丸の縄張図です。原城は本丸にのみ石垣が築かれました。特徴的なのは枡形の巨大さで、なんと本丸の40パーセントを占めています。

 

大手正門跡

2005年(平成17年)の発掘調査で礎石や階段が発掘されました。門は櫓門だった可能性が高いですが、両脇の石垣が破却されているので断言はできません。

 

枡形内部

枡形内はとても広く、石がごろごろ転がっています。有馬晴信がここまで大きい枡形を築いた理由は見栄だったのか?

 

埋門跡

大手門の次にある埋門跡です。一揆後に幕府に破却され埋められましたが、発掘調査で石垣や階段が確認されました。

 

本丸門跡

本丸への最後の門跡です。櫓門が建っていたと考えられていますが、やはり一揆後に幕府によって破壊されてしまいました。

 

櫓台跡

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原城

原城

本丸西側には櫓台があり、天守相当の三層櫓が建っていました。島原城が築かれる際に際に石材が持ち去られたと伝えられていましたが、実際には櫓を含めて残っていたようです。それにしても幕府による破壊が徹底していて、櫓台石垣の隅石が抜き取られています。

 

天草丸跡

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本丸の南西先に築かれた天草丸。原城は各郭が独立して築かれており、天草丸は最前線でもありました。

 

天草方面の海

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美しい天草の海。一揆勢はポルトガルの支援を期待していましたが、幕府からの要請を受けたオランダ軍艦から砲撃を受けました。

 

破壊された石垣

原城

本丸内部には破壊された石垣が露出展示されていました。赤線部分が原城本来の石垣部分であり、青線部分は壊された後に築かれた石垣とのこと。

 

天草四郎像と墓

天草四郎像

天草四郎の墓

天草四郎時貞は本名を益田四郎といい、父は改易された小西行長に仕えていた益田甚兵衛好次で、宇土郡江部村で生まれ育ったと伝えられています。一揆時はまだ十代半ばであり、救世主的な存在に仕立て上げられました。

 

十字架のモニュメント

本丸の一角には、十字架のモニュメントが建てられていました。

 

池尻口門跡

原城 池尻口門跡

原城 池尻口門跡

本丸虎口の複雑さに比べて、こちらは単純な平虎口です。攻められにくい搦手に築かれているので、蓮池への水汲みの出入口だったのかなと。

池尻口門跡角石

幕府による破壊の跡がはっきり残っており、石垣隅には根石しか残っていません。

本丸石垣

門跡を出て左側に道があり、本丸石垣に沿って正門に戻ります。

 

石垣の破壊

原城

原城

原城の石垣は徹底的に破壊されています。突き崩した石を前方にどかし、更にまた突き崩すことを繰り返す徹底ぶりで、石は石垣内部の小石や土砂で覆われていました。また、崩された石垣の下からは多数の白骨が見つかっています。

 

感想

現在はのどかな風景が広がっていて、ここで日本有数の籠城戦が行われたとは思えません。近年の発掘調査により人骨や銃弾が見つかり、惨状が明らかになりました。今はただ冥福を祈るのみです。