石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

佐賀城(佐賀県佐賀市) 鯱の門と蘇った本丸御殿

佐賀藩35万7千石の居城であった佐賀城。広大な堀と本丸石垣が残っています。大藩の割には地味な印象が強かった佐賀城ですが、2004年(平成16年)に本丸御殿が復元されました。

日本100名城

2023年9月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

戦国時代、肥前を支配していた龍造寺隆信が戦死し、混乱する龍蔵寺一門を取り纏めたのが重臣鍋島直茂でした。直茂は豊臣秀吉徳川家康にも力量を認められ、佐賀領主として実権を掌握します。

鍋島直茂・勝茂父子は龍造寺家の居城だった村中城を拡張し、1611年に完成したのが佐賀城です。以後、幕末まで佐賀藩の居城となりました。

佐賀城が実戦の舞台になるのは、1874年(明治7年)に起こった佐賀の乱です。政争に敗れた江藤新平は不平士族と反乱を起こし、県庁(佐賀城)を占拠しましたが、反乱はまもなく鎮圧されました。

 

龍造寺家と鍋島家

肥前の熊」の異名をとった龍造寺隆信は九州三強の一角として勢力を拡大しましたが、その右腕として活躍したのが重臣鍋島直茂でした。直茂の父・清房の後室は龍造寺隆信の母・慶誾尼であり、つまり直茂は龍造寺隆信の義弟にあたります。1584年の沖田畷の戦いで隆信が戦死した後、島津家との交渉にあたったのも直茂でした。

豊臣秀吉の九州平定や朝鮮出兵の際にも鍋島直茂は活躍し、龍造寺家に代わって肥前の国政を任せられます。名目上は龍造寺家、実質は鍋島家が治める二重体制になりました。

1600年の関ヶ原の戦いでは、息子・勝重は西軍について伏見城を攻めますが、直茂は九州の西軍の城を攻め落とし、領土を安堵されます。その後、勝茂は徳川家康の養女を正室に娶り、徳川家からも肥前領主として認められました。

龍造寺家と鍋島家の捻れた関係が解消したのは江戸時代に入ってからでした。龍造寺隆信の孫・高房は、龍造寺家の復権を望みましたが、幕府はおろか家臣からも相手にされません。激昂した高房は、1607年に正室(直茂の孫娘)を殺害し、自身も自殺を図るという事件を起こします。この事件後、龍造寺姓を名乗るものは居なくなり、名実ともに鍋島家が佐賀藩主となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR佐賀駅から徒歩だた約30分。駅からバスが複数出ており、バス停:佐賀城跡までだと15分程度で着きます。

 

 

縄張り

佐嘉小城内絵図

佐嘉小城内絵図は築城当初の佐賀城を描いた絵図になります。縄張りはシンプルで、方形に水堀と土塁が囲み、南東部に本丸・二の丸が設けられました。石垣は本丸北側と西側のみ、天守以外の多層櫓が1つ、門の枡形も1つしかないという、35万石の大名にしてはかなり地味な造りでした。

築城時の肥前領主は(名ばかりですが)龍造寺家だったこともあり、城内の要所は旧龍造寺一門の屋敷で占められています。鍋島直茂の気苦労が垣間見えます。

 

出典:国土地理院撮影の空中写真(2021年撮影)

日本有数の幅広い水堀が残っていますが、残念ながら本丸北側と西側、外堀の東側は埋め立てられています。特に外堀東側は昭和初期に埋立・分譲されており、住宅が立ち並んでいます。現在東堀の復元を一部行っていますが、城好きにとって勿体ないことをしてしまったかも。

城歩き

北側堀

佐賀城 北側堀

駅から城内を縦断する本丸通りを通って、北から佐賀城に向かいました。江戸時代にこの通りは無かったので、城の一角をぶち抜いているはずですが、土塁は見受けられませんでした。ただ、堀の幅は60メートルほどもあり、スケールの大きさが感じられました。

 

本丸通り

佐賀城 本丸通り

城内が広く、かつ平地なので、城を歩いている気分は全く感じられません。近代大名の城はとにかく広いなと感心。

本丸石垣

佐賀城 本丸石垣

堀から400メートルほど歩くと、本丸北西隅に着きました。奥に見えるのは天守台で、手前の芝生部分は当時水堀でした。ここから城内を横断する城内通りを通って、二の丸に向かいます。

 

二の丸

佐賀城 二の丸

正面奥に鯱の門が見えます。当時は二の丸御門が設けられていたようですが、跡形も残ってないですね。

鍋島直正銅像

佐賀城 鍋島直正公銅像

幕末に活躍した10代藩主・鍋島直正公の銅像が建てられていました。本丸御殿内の展示もそうでしたが、藩祖の直茂ではなく、幕末の直正推しのようです。

 

鯱の門

佐賀城 鯱の門

佐賀城で唯一の現存建築物である鯱の門。この門を通ると本丸に入りますが、先に天守台に向かいます。

 

本丸石垣

佐賀城 本丸石垣

佐賀城で石垣を築いたのは本丸北側と西側のみになります。当初は本丸・二の丸の四方全てを石垣にする予定でしたが、財政難、かつ幕府に遠慮したためと言われています。

 

天守台入口

佐賀城 天守台入口

佐賀城 天守台入口

佐賀城 天守台入口

佐賀城 天守台入口

佐賀城の天守台が面白いのは、二の丸側(外側)から付櫓経由で入る珍しい構造でした。築城した鍋島直茂が主君の龍造寺家に遠慮したからだとも言われています。ただ、付櫓の南側(城内側)石垣に石材が異なる箇所があり、本丸側からも入れた可能性はありそうです。

 

天守台上

佐賀城 天守台上

天守台には4重5階の天守が建てられていましたが、1726年の大火で焼失し、再建されませんでした。その後、1887年(明治20年)には測候所が、1957年(昭和32年)には協和館(集会所)が移築されましたが、2004年(平成16年)に解体撤去されました。

通常天守は城下町からよく見える場所に建てるものですが、佐賀城天守は城内側の本丸北西隅に位置しています。推測ですが、城内に住む旧龍造寺一門に鍋島家の威光を見せつけるためだったかもしれません。

 

鯱の門

佐賀城 鯱の門

佐賀城 鯱の門

鯱の門は本丸表門で、二重二階の櫓門に続櫓が配されています。1835年の二の丸火災後、1838年に新たに建てられました。外側に続櫓が突き出ていて、珍しい構造です。

 

銃弾跡

佐賀城 銃弾跡

門の扉には、佐賀の乱で打ち込まれた銃弾跡が残っています。

 

本丸御殿

佐賀城 本丸御殿

佐賀城 本丸御殿

2004年(平成16年)に復元された本丸御殿。佐賀の乱の戦災を逃れた建物は役所や学校に利用されて来ましたが、老朽化すると随時解体されました。

平成に再建された御殿はとにかく広く、佐賀城本丸歴史館の一部として公開されています。展示は藩祖の鍋島直茂や龍造寺家の説明は少なく、幕末の佐賀藩に関するものが多かった印象です。ちなみに入場料は 無料(募金の協力)です。

 

本丸西入口

佐賀城 本丸西入口

本丸には鯱の門以外にもう一つ入口がありました。現在は車1台通れるほどの幅がありますが、当時は道路に描かれた線まで石垣がありました。発掘調査では門の跡が見つからなかったそうなので、隠し通路みたいなものだったのでしょう。

 

南西隅櫓台

佐賀城 南西隅櫓台

平成の本丸御殿復元に併せて復元された櫓台。櫓が建てられたことはないようですが、櫓台自体は江戸時代に何度か修理されています。それにしても、なんで碁石みたいな白黒の石垣にしてしまったのか・・・

 

本丸南側

佐賀城 本丸南側堀

南西隅櫓台から本丸南側の堀を眺めてみました。現在この辺りの堀幅が一番広く、80メートル近くあります。佐賀城の堀が広いのは、鉄砲戦を意識したからだとも言われています。

本丸西側

佐賀城 本丸西側土塁

土塁の城の佐賀城で、城内に面する本丸西側に石垣を築いたのは、旧龍造寺一門に対する鍋島家の示威だったのかもしれません。ただご覧の通り、内側は土塁という節約型です。

 

感想

佐賀城の目玉は、やはり鯱の門と本丸御殿でしょう。特に復元された本丸御殿の立派さは大したものです。天守台も逃さず登ってください。

行政は佐賀城の遺構の保護に無関心だったようですが、平成以降はやる気を出しているようなので、これからも頑張って欲しいですね。

延岡城(宮崎県延岡市) 驚異の千人殺しの高石垣

大瀬川と五ヶ瀬川に挟まれた川中島に築かれた延岡城。一二三段状に石垣が築かれ、特に二の丸北面の高石垣は「千人殺し」と呼ばれていました。

2024年2月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

延岡は、かつて懸(あがた)と呼ばれ、豪族・土持家の所領でしたが、島津家についた土持家は豊後の大友宗麟によって滅ぼされました。その後、豊臣秀吉九州征伐によって島津家は降伏し、懸(延岡)には1590年に秀吉の命を受けた高橋元種が5万国で入封しました。関ヶ原の合戦後、元種は大瀬川と五ヶ瀬川に挟まれた中州に築城を開始し、1603年に延岡城が完成しました。

しかし、1613年に高橋元種は罪人を匿った罪に問われて改易となり、翌1614年に島原から有馬直純が入封しました。直純は延岡城を整備し、このとき三階櫓や櫓門が建てられました。また、このとき地名が、懸から延岡に改められたと考えられています。

有馬家は78年間統治しますが、三代目・清純の代に領内の百姓が逃散する事件が起き、これが原因で清純は転封させられました。その後、下野壬生から三浦明敬が、次は三河国吉田から牧野成央が入封し、目まぐるしく城主が交代しました。

1747年に陸奥磐城国平から内藤政樹が入封し、以後明治維新までの123年の間、内藤家が延岡藩を納めました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

JR宮崎駅から延岡駅まで特急で約70分。延岡駅から北大手門まで徒歩25分。

 

縄張図

 日向国延岡城絵図

延岡は古くから水郷として知られ、延岡城五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた川中島に築かれました。城域の東と西に丘陵があり、東に本丸と二の丸、西に西曲輪を設けました。藩主は主に西曲輪で暮らしていたそうです。

 

城歩き

延岡駅から延岡城を目指すと、五ヶ瀬川に架かる橋を渡ることになります。高橋元種の時代は川に橋が架けられておらず、この板田橋が最初に架けられた橋でした。


三階櫓跡

延岡城 三階櫓跡

城趾に近づくと、櫓台の石垣を仰ぎ見ることができます。この櫓台にはかつて天守代わりの三階櫓が建っていました。城下町から目立つところに三階櫓(天守)を置くのは大名の鉄則ですね。

 

北櫓台

延岡城 北櫓台

延岡城 北櫓台

丘陵の北側裾野にある北櫓台。櫓台前の遊歩道は当時は堀であり、北櫓台は堀に突き出すように築かれていました。ただ、櫓は建てられていなかったようです。

大手道

延岡城 大手道

当時の北大手門への道には折れが入っていましたが、現在は一直線になっています。とはいえ、道の左側の北曲輪の威圧感はなかなかのものです。

北大手門

延岡城 北大手門

城の表玄関である北大手門。廃城後に石垣のみ残っていましたが、1993年(平成5年)に復興復元されました。

 

北大手門東側石垣

延岡城 北大手門東側石垣

延岡城 北大手門東側石垣

北大手門の手前左には見事な高石垣が築かれています。また、石には様々な刻印が残っており、有馬家が延岡に入封した際に改修したものと考えられています。

 

内藤家墓所

旧延岡藩主 内藤家墓所

北大手門の手前右には、藩主であった内藤家の墓所がありました。ただ、門は閉められており、参拝することは出来ませんでした。

 

二の丸石垣

延岡城 二の丸石垣

延岡城 二の丸石垣

延岡城 二の丸石垣

城内に入る前に北大手門右手の二の丸石垣を散策してみました。石垣の際まで民家が立ち並んでおり、地震時の被害が心配になります。市でも石垣を補強しているようですが・・・

 

二の丸西櫓台

延岡城 二の丸西櫓台

二の丸西櫓台は有馬家、三浦家時代の絵図には描かれておらず、牧野家以降の絵図には描かれています。言われてみれば、櫓台部分の石垣の積み方が他とは異なっているように見えますね。

 

二の丸入口

延岡城 二の丸入口

再び北大手門まで戻って、二の丸に入ります。階段の先にそびえ立つのが、有名な千人殺しの石垣です。

 

千人殺しの石垣

延岡城 千人殺しの石垣

延岡城 千人殺しの石垣

延岡城 千人殺しの石垣

これが千人殺しの石垣です。高さ19メートル、法長22メートルもあります。初代城主・高橋元種による築城当初からの石垣で、次に城主になった有馬家によって改修されたと考えられています。

千人殺しの異名は、一番下の根石を外すと石垣が崩れ、千人の敵兵を殺すことができるということから名付けられました。これは内緒ですが、千人殺しと呼ばれるようになったのは、明治以降のようです。

 

石垣の根石

その千人殺しの石垣の根石はコンクリートブロックです。1935年(昭和10年)の天皇行幸の際に補強されましたが、その前には穴が空いていたとの話もあります。真相は藪の中ですね。

 

二の丸

延岡城 二の丸

延岡城 二の丸井戸

延岡城 二の丸西櫓台

二の丸は広場になっており、西側には井戸や櫓台もありました。また、1988年(昭和63年)までは児童遊園地があり、動物もいたそうです。

 

二階櫓跡

延岡城 二階櫓跡

二の丸の西端には櫓台がありました。2重2階の櫓が明治初期まで残っていたそうです。

 

本丸への石段

延岡城 本丸石段

本丸への石段は40メートル近くあり、左側には千人殺しの石垣が迫っています。非常時に石垣を崩すという仕組みが真実でしたら、この石段を通れなくするのが目的だったかもしれません。

 

本丸西曲輪

階段の突き当りの右側には、細長い曲輪がありました。

 

二階櫓跡

延岡城 二階櫓跡

延岡城 二階櫓跡

曲輪の端には、先程見上げた二階櫓跡がありました。石垣は金網で補強されていて、そのうち補修が必要になるかもしれません。

 

二階櫓門跡

延岡城 二階櫓門跡

延岡城 二階櫓門跡

本丸への入口は内枡形になっており、二階櫓門が建てられていました。

 

本丸

延岡城 本丸

本丸は公園になっており、延岡藩最後の藩主・内藤政挙公の銅像がありました。

 

西曲輪

延岡城 西曲輪

千人殺しの石垣上からの風景。奥に見えるのが、旧西曲輪に建てられた内藤記念博物館です。

 

天守曲輪

延岡城 天守曲輪入口

延岡城 天守曲輪

延岡城天守は建てられませんでしたが、天守曲輪があります。当時の入口が残っていましたが、残念ながら通行禁止でした。

 

鐘撞き堂

延岡 鐘撞き堂

現在の鐘は二代目ですが、オリジナルは延岡藩主であった有馬康純が今山八幡宮に寄進したものでした。

 

三階櫓跡

延岡城 三階櫓跡

本丸から三の丸に下りる途中、櫓台の石垣がありました。延岡城の三階櫓は天守代替だったので、城下から目立つこの場所に建てられました。

 

吹上坂

延岡城 吹上坂

延岡城 三階櫓台

本丸から三の丸へはつづら折りの道があり、吹上坂と呼ばれていました。この辺りの石垣は有馬家によって整備され、布積みで築かれています。

 

三の丸

延岡城 三の丸

延岡城の三の丸は城の東にあり、二の丸の三分の一ぐらいの広さしかありませんでした。現在は日本庭園が復元されています。

 

石御門跡

延岡城 石御門跡

延岡城 石御門跡

延岡城 石御門跡

三の丸の搦手には、岩盤を削った石御門が設けられていました。非常時の避難路ですが、平時は通用口として使用されていました。

 

北曲輪

延岡城 北曲輪

三の丸から北大手門に向かうと、北曲輪があります。延岡で高等小学校・中学校時代の8年間を過ごした若山牧水の碑がありました。
「なつかしき 城山の鐘鳴り出でぬ 幼かりし日 聞きしごとくに」

 

北大手門と内藤家墓所

延岡城 北大手門

内藤家墓所

北曲輪から俯瞰した北大手門と内藤家墓所。やはり北曲輪は敵を撃退するのに絶好の場所のようです。

千人殺しの石垣

延岡城 千人殺しの石垣

千人殺しの石垣まで戻ってきました。やはり凄い石垣です。

 

感想

最大の見所は何と言っても千人殺しの石垣です。他の箇所も整備が進んでいて、石御門跡などが発掘されたのも嬉しかったです。次は三階櫓跡にも入りたいですね。

富岡城(熊本県天草郡苓北町) 天草の乱の行方を左右した激戦地

草の乱の激戦地となった富岡城。この城を落とせなかった天草四郎は島原の一揆勢と原城で合流し、幕府相手に籠城戦を繰り広げました。その後富岡城は経済的な理由から廃城となりましたが、平成に入り櫓や石垣が復元されました。

2023年9月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

草の乱

関ヶ原の合戦後、東軍についた唐津藩主・寺沢広高天草郡4万2千石を拝領しました。ただ、天草は西軍の小西行長の領地の一部であり、肥後の加藤清正へ与えられたが、清正がキリシタンが多いことを嫌って幕府に交換を申し入れたという、曰く付きの土地でした。

寺沢広高は飛び地である天草の拠点として、1602年から天草下島の富岡に城を築きました。広高は唐津に在住し、天草の統治は城代(番代)が行いました。

1637年、島原の一揆に呼応して、天草でも天草四郎が指揮する一揆が起こります。鎮圧を図った唐津藩兵は本渡の戦いで敗れ、一揆勢は富岡城に攻め込みます。唐津藩兵の必死の抵抗を受け、一揆勢は戦いが長期化することを懸念して、海を渡って島原の一揆勢に合流しました。もし富岡城が落城していたら、歴史が変わっていたかもしれません。

 

城の改修と破却

1638年、天草の乱を引き起こした責任から、唐津藩主・寺沢堅高は天草領を没収され、代わりに山崎家治が備中・成羽から入封します。家治は築城の名手としても知られており、城の改修と縄張りの見直しに取り掛かります。現在残る百間土手や袋池は家治が築いたものです。ただ、3年後に家治は讃岐・丸亀へと転封しました。

山崎家治の転封後に天草は天領となります。鈴木重成が代官として入り、荒れ果てた領地の整備に努めます。重成は一揆の一因は過大な石高の算定による年貢負担にあると考え、実石高は半分の2万1千石だと幕府に訴えました。後を継いだ養子の重辰も幕府に再三上申し、ついに1659年に石高半減を成し遂げました。

1664年、鈴木重辰が京都代官に任じられると、天草は私領となり、三河田原から戸田忠治が入封します。1671年に忠治は奏者番として関東に移りますが、その際に富岡城を破却しています。忠治が破却を幕府に提言したとも伝わっていますが、再び天領に戻る天草に城は不要と幕府が判断したからかもしれません。富岡城の石垣は崩され、古材は城外に持ち出されました。

 

交通アクセス

行きやすさ:

富岡城は天草半島の先端にあり、非常に行きにくい場所にあります。公共交通機関で行くには、長崎・茂木から高速船に乗るしかありません。

長崎駅から茂木港まで長崎バスで25分。茂木港から富岡港まで高速船で45分。富岡港から富岡城本丸まで徒歩20分。

 

 

縄張り

国土地理院撮影の空中写真(2014年撮影)を加工

富岡城砂州で陸地に繋がった陸繋島にあります。天草全体を治めるにはかなり北西に偏っていますが、唐津から海路で行きやすい富岡に城が築かれました。

 

草の乱

築城当初の富岡城は石垣造りの近世城郭でしたが、縄張り的に問題があり、天草の乱では籠城戦で苦労しました。入江が城の奥まで入り込んでいるため、一揆勢は舟を着けてそこから攻め込みました。また、地続きである陸側からの攻撃への備えがなく、井戸も三の丸と城外にしか設けられていませんでした。

本領ではなく飛び地だったことから、唐津藩主・寺沢広高が利便性を優先したためだと、個人的には考えます。

 

草の乱

草の乱後、山崎家治が富岡城に大改築を施しました。百間土手を築いて入江を仕切り、淡水池(袋池)を造りました。また、城内と城下町の境目に堀切を造り、大手門を設けました。

家治はまもなく讃岐に転封しましたが、城を改修させるために幕府が遣わせたように思います。

 

城歩き

大手門跡

富岡城 大手門跡

陸路からの攻撃に備えて、陸繋砂州(トンボロ)の付け根に設けられた大手門跡。当時は堀切で城内と陸路を切り離し、跳ね橋を架けていました。右側(東側)の石垣が新しいのは、昭和に農協が事務所建設で取り壊したのを、2009年(平成21年)に復元したからとのこと。なんかもったいないね。

 

富岡城と百間土手

富岡城と百間土手

山の上に見えるのは富岡城の櫓、下に見えるのは百間土手とその石垣です。

 

百間土手石垣

富岡城 百間土手石垣

富岡城 百間土手石垣

富岡城 百間土手

圧巻の百間土手石垣。長さ170メートル、高さ8メートルの土手を築き、城の弱点だった入江を仕切りました。現在、石垣下は埋め立てられていますが、建設当時は海だったわけです。

 

百間土手の上部道

富岡城 百間土手の上部道

百間土手の上部は道となっており、左が袋池、右が海側になります。当時も土手の上部を登城道として使用していました。

袋池

富岡 袋池

先に述べたように、袋池は土手を造成して造った淡水池です。城内の水源としての意味合いもありました。名の由来は「袋」のようにキュッと絞って誕生したからかも。

 

袋池神社

富岡 袋池神社

袋池には、溺死した娘が大蛇に姿を変え、水面に落ちた葉を取り除いているという伝説があります。池に木の葉が一枚も浮いていないのはそのおかげということですが・・・

個人的には、江戸時代に造られた人造池にそのような言い伝えが生まれたのが興味深いです。

 

追手門跡

富岡城 追手門後

百間土手の突き当りには枡形があり、追手門が設けられていました。つまり富岡城ではトンボロ付け根の「大手門」、土手の突き当りの「追手門」と2種類あったわけです。

ただ特に案内板は無く、道路を通すために一部石垣が積み直されていて残念。

富岡稲荷神社の石段

徒歩で本丸に向かうには、富岡稲荷神社の石段を上っていきます。この道が当時は登城道だったようです。特に案内は無いですが、徒歩の方はこちらからどうぞ。


二の丸東下の虎口

富岡城 二の丸東下の虎口

富岡城 二の丸東下の虎口

神社を抜けると突然現れる二の丸東下の虎口。大手口だけあって、かなり立派な石垣です。ただ、破城の際に徹底的に破壊されたため、新たに復元されたものです。

 

二の丸下帯曲輪

富岡城 二の丸下帯曲輪

二の丸下には帯曲輪が設けられていました。奥は出丸と繋がっています。

二の丸入口

富岡城 二の丸入口

二の丸入口には長櫓が復興再建されており、現在は歴史資料館になっています。富岡城の歴史と構造が非常に詳しく展示されているので、城好きは必見です。

 

本丸虎口

富岡城 本丸虎口

長櫓(歴史資料館)の南側には本丸への石段がありますが、まずは二の丸を堪能しましょう。

二の丸

富岡城 二の丸

二の丸は昭和に公園化され、その後荒れ果てていたようですが、きれいに整備されています。

 

勝海舟頼山陽

富岡城 勝海舟・頼山陽像

勝海舟長崎海軍伝習所の生徒だったときに富岡に来たことがあり、宿泊した鎮道寺の柱に「日本海軍指揮官 勝麟太郎」と落書きしました。

頼山陽は江戸時代後期の漢学者で、長崎から富岡を訪れ、漢詩「泊天草灘」を詠んだと言われています。実は富岡には来ていないとの説も有力ですが・・・

 

鈴木重成・正三像富岡城 鈴木正三・重成像

鈴木重成は初代代官として、乱後の天草の復興に尽力しました。正三は重成の兄にあたり、僧として領地運営を補佐しました。天草には、鈴木重成、正三、重辰を祀る鈴木神社が現在も残ります。

 

出丸

富岡城 出丸

富岡城 出丸

城の北東に二の丸より一段低く出丸が設けられていました。

 

二の丸西側石垣

富岡城 二の丸西側石垣

富岡城 二の丸西側石垣

車で来られた方は西側虎口から入城することになりますが、興味深い説明板がありました。二の丸西側石垣は寺沢氏が築いた石垣、それを覆い隠すために山崎家治が急造した石垣、それが崩れたので修復した石垣の三重で構成されているとのことです。
わざわざ寺沢氏の石垣の外側に石垣を築いたのは、乱の痕跡を隠すためだったと考えられています。

 

本丸北櫓

富岡城 本丸北櫓

二の丸から眺める本丸北櫓。外からだと2重櫓に見えますが、実際は平櫓というトリックアートのような外観です。

 

本丸虎口

富岡城 本丸虎口

富岡城 高麗門

本丸へは一本道です。途中の櫓では鈴木重成に関する資料が展示されていました。


本丸西櫓・北櫓

富岡城 本丸西櫓・北櫓

西櫓・北櫓はビジターセンターとして利用されています。再建された西櫓と北櫓はくっついていますが、本来は別々の建屋でした。先も述べた通り、外からだと二重櫓に見えますが、実際は平櫓です。

本丸からの眺め

本丸からは富岡特有の陸繋砂州(トンボロ)や細長く突き出た砂嘴を眺めることが出来ます。絶景かな。

 

感想

縄張りが非常に面白い城でした。復元された石垣が立派ですが、麓の百間土手石垣も必見です。まさか袋池が人造池とはね。

アクセスが良い城とは言えませんが、原城島原城と同じく天草・島原の乱の舞台となった富岡城を訪問してみてください。

二本松城(福島県二本松市) 戊辰戦争の激戦と智恵子抄

戊辰戦争の激戦地となった二本松。少年隊の悲劇が知られています。二本松城は中世山城から近代城郭に移行した城であり、近年発掘調査が行われ整備が進んでいます。

日本100名城

2023年5月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

二本松城跡の歴史は、南北朝時代奥州管領・畠山満泰が白旗ケ峯に城を設けたのが始まりと云われています。以後、畠山家の居城となりますが、1586年に伊達政宗により滅ぼされ、城代が置かれました。

1590年の豊臣秀吉による奥州仕置により、二本松城会津藩主である蒲生氏郷の支城となります。氏郷の他界後、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明と目まぐるしく支配が変わります。

1643に白河から丹羽光重が10万700石で入封し、現在残る城へと改築しました。以後、明治維新まで丹羽家の居城となります。

二本松城が戦いの舞台になったのは戊辰戦争でした。主力部隊が白河の戦いに出向いていたところ、隣の三春藩の奥羽列藩同盟からの離反もあり、新政府軍に攻め込まれます。主力不在の二本松藩は為すすべもなく、城に籠もる重臣らは自刃し落城しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

東北本線 JR二本松駅から麓の箕輪門まで徒歩20分少し。バスが無く、丘を越える必要があるので、意外ときつかったです。

 

 

縄張図

城下町図

二本松の城下町は、三方が丘陵で囲まれたUの字(馬蹄型)をしており、その底部分に城が構えられています。江戸時代に丹羽光重が入城した際には、城下町が手狭になったため、丘陵の南側にも町が広げられました。どうりで駅から城に行くまでに坂を上り下りする必要がある訳です。

縄張図

二本松城は白旗ヶ峰山頂に本丸、麓に三の丸が設けられています。中世山城と近世城郭が混在した造りになっています。また、東北の城では珍しく、本丸や麓には石垣が築かれています。

 

城歩き

二本松城 大手門跡

二本松城 大手門跡

先に述べた通り、二本松の城下町は丘陵の南にも拡張されたため、奥州道中に面した久保丁口に大手門(通称:坂下門)が設けられました。予算の問題から9代藩主の丹羽長富の代に築かれたので、現在残されている石垣は新しい工法の亀甲積みです。

 

峠部分(?)

大手門跡から坂を上って下ります。城に着くまでに疲れそう。遠く白旗ヶ峰の山頂に本丸石垣を望むことが出来ました。

 

戒石銘

旧二本松藩 戒石銘

白旗ヶ峰の麓には旧二本松藩の戒石銘がありました。5代藩主の丹羽高寛が藩士としての戒めを刻ませたものです。

 

三の丸石垣

二本松城 石垣

三の丸の高石垣は加藤家時代に築かれました。ただ、石積みがきれいすぎる箇所もあるので、近年一部積み直されたのかもしれません。また、築城当時から堀はありませんでした。

 

少年隊像

二本松城 少年隊像

戊辰戦争にて急遽招集された少年隊62名も戦いに参加し、隊長と副隊長を除く14名が戦死しました。

 

虎口

二本松城 虎口

入口は虎口になっており、右奥には箕輪門が設けられています。右手前には二重櫓がありますが、そもそも二本松城に櫓は一つも建てられていませんでした。近世大名の城で櫓がなかったのは逆に珍しいです。

 

箕輪門(復興)

二本松城 箕輪門

箕輪村の樫の木を使用したので、箕輪門と名付けられたと伝えられています。現在の門は1982年(昭和57年)に復興再建されました。江戸時代の正保城絵図を見ると、本来は櫓門ではなかったようです。

 

帯曲輪とアカマツ

二本松城

二本松城 赤松

箕輪門を過ぎると帯曲輪が広がっています。門北側の石垣上にはアカマツが植えられており、土塀の代わり果たしていました。二本松藩の財政は厳しかったかもしれません。

 

虎口

二本松城

二本松城

城内を進むには、更に虎口を通る必要があります。

 

三の丸下段

二本松城 三の丸下段

三の丸下段は今でこそ何も無い広場ですが、江戸時代には御殿が建てられていました。

また、明治時代には製糸工場が建てられていました。元二本松藩士の山田脩は二本松製糸会社創立に参画し、製糸会社が解散すると工場を譲り受けて、双松館として1925年(大正14年)まで操業しました。後に二本松町長にもなり、郷里の発展に尽くしました。

 

双松館 出典:国立国会図書館ウェブサイト(https://dl.ndl.go.jp/pid/763455/1/55

 

三の丸上段

二本松城 三の丸上段

二本松城 三の丸上段

三の丸上段には、かつて藩主の住居がありました。今は盆踊り会場みたい。

 

登城道

本丸への登城道は整備されていて歩きやすいです。また、所々に案内板が立てられていて、現在地が分かりやすかったです。二本松市、グッジョブ。

 

二本松藩士自尽の地

二本松藩士自尽の地

ここで、家老の丹羽一学、小城代の服部久左衛門、郡代の丹羽新十郎が責任を取って自尽しました。

 

立て看板図

藩士自尽の碑を通り過ぎ、西にある松森館と硝煙蔵にも立ち寄ってみます。

 

松森館

二本松城 松森館

二本松城会津の支城だったときに、城代が東西にそれぞれ置かれた時期があり、松森館はその東城にあたります。残念ながら立入禁止だったので、道から松森館を眺めるにに留めました。

 

硝煙蔵跡

二本松城 硝煙蔵跡

2003年(平成15年)の発掘調査で、直方体の花崗岩を長方形に並べた建物跡が3棟見つかりました。そのうちの2棟は硝煙蔵だったと推定されています。

 

日陰の井戸

二本松城 日影の井戸

今でも水が湧き出ている(という)日陰の井戸。日本の三井とのことですが、誰が決めたんか謎や?

 

本丸下南面大石垣

二本松城 本丸下南面大石垣

二本松城 本丸下南面大石垣

二本松城 本丸下南面大石垣

圧倒されること間違い無し。その高さは13メートル、のり長は17メートルにも及びます。会津支城時代に蒲生氏によって築かれた、この城で最も古い石垣の一つです。

 

乙森

二本松城 乙森

畠山氏時代に使用された本丸下にある平場です。蒲生氏時代に大規模に削平、盛土整地されました。現在は駐車場になっており、ここまで車で上ってくることが出来ます。

 

本丸

本丸石垣は蒲生氏時代(慶長期)に築かれ、加藤氏時代(寛永期)に拡張されました。

廃城後は次第に荒廃し、1953年(昭和28年)に入口部分(⑪⑫)は修復されたものの、北東面(②~⑥)は崩落滅失している状況でした。現在の見られる石垣は、1991年(平成3年)に発掘調査が行われ、1995年(平成7年)までに修築・復元されたものです。

 

本丸石垣

二本松城 本丸石垣

二本松城 本丸石垣

二本松城 本丸石垣

二本松城 本丸石垣

二本松城 本丸石垣

二本松城 本丸旧石垣

本丸周囲を時計回りで一周しました。修築・復元されたものとはいえ、とても立派なものです。また、本丸の北に蒲生氏時代の本丸石垣の一部が移築展示されていました。

 

本丸内部

二本松城 本丸内部

内緒ですが、1958年(昭和33年)に三五教(あなないきょう)が本丸に天文台を建てたという裏歴史があります。

「あなない教信者と町民の協力によって完成した天守台は、白旗ヶ峯の山頂霧ヶ城跡の石垣の上に、反り屋根白壁の、三階建ての天守閣ふう建物である。」

作家の佐藤愛子さんがこの騒動を「あなない盛衰記」として執筆されていますので、興味のある方は一読してみてください。

貴重な幻の天守天文台)の写真は余湖さんのHPに載っていますので、リンクを張っておきます。

二本松城 模擬天守 余湖

 

自尽の碑

二本松城 自尽の碑

天守台の横に建てられた二本松藩士の自尽の碑。城代の丹羽和左衛門、勘定奉行の安部井又之丞は燃え上がる御殿を眼下に自尽しました。

 

天守

二本松城 天守台

二本松城には天守は築かれませんでしたが、ここからの眺めが絶景なんです。

 

安達太良山

日本百名山の一つである安達太良山。風が爽やかで気持ちいい。

これが「ほんとの空」だ。

 

天守台下西面二段石垣

二本松城 天守台下西面二段石垣

二本松城 天守台下西面二段石垣

天守台下の西面には、二段石垣が築かれていました。上段の高さが3.5メートル、下段の高さは3.9メートルあり、間に犬走りが走っています。南面大石垣と同様に、この城で最も古い石垣の一つです。

 

とっくり井戸

二本松城 とっくり井戸

入口より内部が広いフラスコ状の石組みの井戸です。確認はできないけど。

 

搦手門跡

二本松城 搦手門跡

蒲生氏時代には屋根なしの掘立柱の門、加藤氏時代に石垣を築き、高麗門を設けたと考えられています。

 

新城館

二本松城 新城館

二本松城会津の支城だったときに、城代が東西にそれぞれ置かれた時期があり、松森館はその西城にあたります。新城館は中世山城時代には本城的役割を果たしていました。

 

二本松少年隊顕彰碑

二本松少年隊顕彰碑

二本松少年隊顕彰碑

ここは少年隊が稽古に励んだ場所であり、碑の裏には隊長、副隊長、少年隊62名の名が刻んであります。

 

智恵子抄詩碑

智恵子抄詩碑

智恵子抄詩碑

彫刻家であり詩人の高村光太郎の妻・智恵子の生家は二本松の酒蔵でした。築城の際に牛を生贄にしたという牛石に、詩集「智恵子抄」に収められた「樹下の二人」の有名なフレーズが刻まれています。

「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川

 

二合田用水

二合田用水

一見ただの溝のように見えますが、初代藩主である丹羽光重の命により施設された用水路であり、安達太良山中腹から18キロに渡り水を引いています。こういう技術には思わず感心してしまう。

 

感想

戊辰戦争の悲劇が色濃く残る城跡でした。天守台からの安達太良山の眺めは最高です。

一方、城の調査・整備が進められていることに感心しました。特に本丸下の古い石垣は石垣マニア必見ですよ。

白河小峰城(福島県白河市) 戊辰戦争と震災に翻弄された城

戊辰戦争の舞台となった白河に建つ小峰城。平成に入り三重櫓と前御門が木造復元されています。2011年(平成23年)の東日本大震災では石垣が崩れるなどの大きな被害を受けましたが、力強く復興しています。

日本100名城

2023年5月登城

満足度:★★★★★ 

 

 

歴史

白河は奥州の玄関口であり、南北朝時代結城親朝がこの地に城を築いたのが小峰城の始まりと言われています。しかし結城氏は豊臣秀吉の奥州征伐の際に滅び、白河は会津領の一部となりました。

江戸幕府が創立されると、白河は関東の背後を守る要衝として重要視されます。1627年に陸奥棚倉から丹羽長重白河藩10万石の初代藩主として入封し、本格的に築城を開始します。長重は築城の名手として知られ、1632年に小峰城を完成しました。現在残る遺構の多くが長重に依るものです。

1643年に2代藩主・丹羽光重は二本松に転封し、代わりに村上から本多忠義が入封します。その後も徳川譜代・親藩が置かれ、寛政の改革を行った老中・松平定信白河藩主でした。

幕末には阿部家が白河を治めていましたが、7代藩主・阿部正外が老中として失脚し、8代藩主・正静のときに棚倉に転封させられます。そのため白河は二本松藩の預りとなりました。

戊辰戦争が始まると、東北の入口である白河は藩主不在にも関わらず、新政府軍と奥羽列藩との戦いに巻き込まれます。この白河口で惨敗した奥羽列藩側は退却し、小峰城も新政府軍の手に落ちました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

東北本線 JR白河駅から徒歩5分。東北本線白河小峰城を南北に分断する形で開通しているので、白河駅は旧三の丸に建てられています。

 

縄張図

正保城絵図より

 

現地案内図より

白河は東北の玄関口にあたり、古くから交通の要所でした。小峰城阿武隈川谷津田川に挟まれた丘陵の西端に本丸を設け、南側に二の丸、南東側に三の丸を配置しています。

小峰城の特徴は、東北では珍しい石垣造りであることです。本丸・二の丸は総石垣造りで、三の丸や主要部でも石垣が用いられました。ただ現在は本丸と三の丸北東部の石垣を除き、ほとんど残っていないようです。

 

城歩き

清水門跡

ホームからの白河小峰城

ホームからの白河小峰城

白河駅は城内に建てられているので、ホームから北側に三重櫓を望むことができます。駅の出口は南側なので、城へはグルっと回り込む必要があります。

 

太鼓門跡

白河小峰城 太鼓門跡

二の丸南入口には枡形が設けられ、太鼓門と呼ばれる櫓門が建てられていました。残念ながら、現在遺構は残っていません。

 

二の丸跡

白河小峰城 二の丸跡

現在は芝生公園になっていますが、1987年(昭和62年)に撤去されるまで市営球場がありました。プロ野球の公式戦も行われたとか。

 

清水門跡

白河小峰城 清水門跡

本丸南入口には、正門として清水門が建てられていました。縄張り的に不思議なのですが、枡形は設けられていません。清水門を復元する計画があるようで楽しみです。

清水門両脇の石垣

白河小峰城 本丸石垣

白河小峰城 本丸石垣

先程、かつて市営球場があったと書きましたが、当時は内堀が埋め立てられ、驚いたことにこの石垣がバックスクリーン代わりだったとのことです。

 

半同心円状に積まれた石垣

白河小峰城 本丸南面石垣

白河小峰城 半同心円状の石垣

清水門正面の石垣の積み方が面白いんです。半分に切ったバームクーヘンのように半同心円状に石垣が積まれています。まるでゴッホの「星月夜」で描かれた雲のようで、目と頭がクラクラします。
2011年(平成23年)に発生した東日本大震災でこの石垣も崩落しましたが、2015年(平成17年)に見事修復されました。

 

前御門経由で三重櫓まで

本丸への入口は、前御門と桜之門の二門がありました。まずは正門の前御門を目指します。

竹之丸

白河小峰城

白河小峰城 竹の丸

本丸の東に位置する竹の丸。北東に平櫓、南東には二重櫓がありました。

 

三重櫓と前御門

白河小峰城 三重櫓と前御門

小峰城の写真と言ったら、三重櫓と前御門が一緒の写ったこのアングルが有名ではないでしょうか。

 

前御門

白河小峰城 前御門

前御門は本丸の正門にあたり、1994年(平成6年)に木造復元されました。小峰城には「白河城御櫓絵図」という城内建物を網羅した絵図が残っているので、当時と同じ姿での復元が可能となっています。

 

本丸御殿跡

白河小峰城 本丸御殿跡

前御門を抜けると本丸です。面白いと思ったのは、本丸の北側と西側にのみ土手のような土塁が周っていることです。三重櫓は土塁の上、平坦地には本丸御殿が建てられていました。

三重櫓

白河小峰城 三重櫓

幕府への配慮から天守とは呼ばれていませんでしたが、この三重櫓は間違いなく天守クラスです。残念ながら戊辰戦争で焼失しましたが、1991年(平成3年)に木造復元されました。

 

三重櫓内部

白河小峰城 三重櫓内部

白河小峰城 三重櫓内部

白河小峰城 三重櫓内部

三重櫓は建絵図が存在したおかげで、木造で復元されています。全国各地の城建物の木造復元の先駆けですね。構造的には、3階部分が1,2階と比べて著しく狭いのが印象的です。縄張り的には、前御門に押し寄せる敵に横矢をかけるのは難しそう。
ここで一旦清水門まで戻って、別ルートで本丸に向かってみます。

 

桜之門跡経由で本丸土塁まで

 

本丸桜之門への通路

白河小峰城

清水門跡まで戻り、西に入って直ぐの本丸南側にある桜之門を目指します。

 

桜之門跡

白河小峰城 桜之門跡

白河小峰城 桜之門跡

白河小峰城 桜之門跡

桜之門は裏門にあたり、本丸御殿の庭に通じています。通路を石垣で固めた埋門で、当時は石垣上に櫓が渡っていました。

 

三重櫓と前御門

白河小峰城 三重櫓と前御門

当時は本丸御殿が建っていたので、前御門は見えなかったでしょうね。

富士見櫓跡

白河小峰城 本丸土塁

白河小峰城 本丸土塁

白河小峰城 富士見櫓跡

桜之門跡を出て左側に本丸土塁への登り口があります。流石に福島から富士山を見るのは厳しいと思いますが、富士見櫓とはこれ如何?

 

雪見櫓跡

白河小峰城 雪見櫓跡

白河小峰城

雪見櫓という名称が珍しいですね。本丸北側に土塁が築かれているのは、風雪を防ぐ意味があったのかもしれません。

 

本丸帯曲輪から三の丸まで

小峰城は本丸下に帯曲輪が廻っています。ただ、帯曲輪と言うには広さが十分にあり、本丸が二段になっていると考えた方が正確かもしれません。

帯曲輪門跡

白河小峰城 帯曲輪門跡

白河小峰城 帯曲輪門跡

白河小峰城 帯曲輪門跡

帯曲輪から本丸へ攻め込んでくる敵を迎え撃つ帯曲輪門。櫓台のような石垣もあり、これでもかと石垣が迫ってきます。

 

本丸西側帯曲輪

白河小峰城 本丸帯曲輪

白河小峰城の本丸下には帯曲輪が配置されています。1960年(昭和35年)にバラ園が開園し、長らく親しまれていましたが、東日本震災後に閉園されました。

本丸西側石垣

白河小峰城 本丸石垣

白河小峰城 本丸石垣

東日本震災後で大きな被害が出ましたが、2018年(平成30年)に修復完了しました。何となく積み直し箇所が分かりますね。

本丸北側帯曲輪

白河小峰城 本丸帯曲輪

本丸北側にも帯曲輪が配置されています。手前の雪見櫓台も地震で被害を受けましたが、無事修復されております。

 

水懸口

白河小峰城 水懸口

帯曲輪北西の隅に、堀へと下りる水懸口がひっそりとありました。通常使用される門ではなく、ごみ処理時に使用されたと考えられています。

 

本丸北側石垣

白河小峰城 本丸北側石垣

白河小峰城 本丸北側石垣

本丸北側石垣も地震で被害を受けました。築城前、本丸の中央南北部分は谷だったため、旧地形の影響が大きかったようです。

 

三重櫓北面

白河小峰城 三重櫓北面

白河小峰城 三重櫓台北面石垣

三重櫓台の北面石垣は、丹羽長重が白河に入封するより前に築かれたものと考えられています。確かに石の大きさが不規則で、横目が通っていません。

 

矢之門跡

白河小峰城 矢之門跡

白河小峰城 矢之門跡

帯曲輪の北東入口には矢之門が設けられていました。2階櫓と櫓門が連結した造りは小峰城でこの門だけでした。

 

三の丸

白河小峰城

矢之門跡を通り抜けると、まるで寂れた公園のような三の丸東部に出ます。

 

三の丸石垣

白河小峰城 三の丸石垣

白河小峰城 三の丸石垣

三の丸から東に抜ける通路がありましたが、立入禁止になっていました。この道路は古絵図に描かれていませんので、近世に石垣を壊して造ったものだと思われます。

搦手門跡から会津門跡まで

搦手門跡から堀沿いをぐるりと歩いて会津門跡へと戻ります。

搦手門跡

白河小峰城 搦手門跡

白河小峰城 搦手門跡

三の丸北には枡形が設けられており、かつては搦手門(尾廻門)がありました。この付近は廃城の雰囲気が漂っていますね。

 

三重櫓

白河小峰城

白河小峰城

北側の堀越しに望む三重櫓。堀幅は50メートル近くあり、高石垣上に築かれた三重櫓はまるで天守です。この城はここからの眺めが一番良いです。

本丸・帯曲輪石垣

白河小峰城

白河小峰城小峰城の北西側から眺めると、本丸と帯曲輪の石垣がまるで石の要塞です。こちら側に来る観光者は少ないと思いますが、石垣好きはぜひ見てください。

会津門跡

白河小峰城 会津門跡

かつてここには、北西の会津町から三の丸に入る門がありました。奥に見えるのは小峰定歴史館です。小峰定歴史館は2019年(平成31年)にリニューアル開館しました。VRシアターのナレーターは噺家春風亭昇太師匠です。(最近よく見るな~)


旧太鼓櫓と蛇尾の石垣

移築されていますが、小峰城には櫓が一つだけ現存しています。城山公園から少し離れていますが、折角なので訪問してみました。

 

旧太鼓櫓

白河小峰城 旧太鼓櫓

清水門跡から歩いて6分ほど、福島地方裁判所の裏側に旧太鼓櫓はありました。元は二の丸にあった太鼓門西側の櫓であり、廃城後に民間に払い下げられたため、外観は改築されています。紆余曲折の上、2022年(令和4年)に現在の地へと移築修復されました。

 

蛇尾の石垣

白河小峰城 蛇尾の石垣

白河小峰城 蛇尾の石垣

これは圧巻です。城の東側に築かれた蛇尾の石垣。長さは200メートル近くあり、まるで万里の長城です。外郭にこのような石垣が築かれるのは異例です。

 

国土地理院撮影の空中写真に加筆

奥州から攻め込んでくる外様大名に対して、牽制と防御の意味合いが強かったと思われます。皮肉なことに、戊辰戦争では奥州列藩が攻め込まれる側でしたが・・・

 

氷室?

白河小峰城 蛇尾の石垣

蛇尾の石垣下の土塁の一部に岩穴が空いています。通りすがりの地元の方が言うには、昔は冬に積もった雪を保管するのに使われていたとのことですが、真偽は不明です。

 

感想

東北では珍しい石垣造りの城ですが、その壮大さに驚きました。三重櫓と前御門に続いて、今度は清水門が復元されると言うことで楽しみです。石垣好き的には、半同心円状に積まれた石垣と蛇尾の石垣が刺さりました。見どころ満載の名城ですよ。