石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

城好きサラリーマンが公共交通機関でお城を巡ります

安慶名城(沖縄県うるま市) 2020年12月 登城

森の中にひっそり佇む安慶名城。実際に訪問してビックリ、高石垣がめぐるワイルドな城跡でした。世界遺産群には選ばれてはいませんが、沖縄では珍しい輪郭式の縄張りと云われており、城マニアは訪問して損はしませんよ。

満足度:★★★★★ 

 

歴史

正確な築城年代は分かっていませんが、14世紀に安慶名大川按司によって築かれたと伝えられています。15世紀中旬に現在見られる石垣が築かれました。

安慶名大川按司は順調に勢力を伸ばしますが、1526年に中央集権を推進する第二尚氏・3代尚真王によって攻められます。その結果、安慶名城は落城し、安慶名大川按司も滅亡しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

那覇バスターミナルから、沖縄バス77番 名護東線に乗車70分、「旧安慶名」で降りて徒歩7分。または、琉球バス23番 具志川線か沖縄バス27番 屋慶名線に75分乗車、「安慶名」で降りて徒歩12分。那覇から安慶名までの乗車時間は長いですが、バス停から城入口までは平坦なので、比較的楽に着きます。

勝連城とハシゴすることも比較的容易で、「西原」停留所から、沖縄バス27番 屋慶名線に乗車35分し、「安慶名」で降ります。

 

城歩き

登城口

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バス停からは安慶名中央公園を目指します。公園には芝生が広がっており、その左奥に登城口がありました。右奥には石段が見えますが、闘牛場への道なので間違わないように。

 

登城口

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登城口には安慶名城跡の碑が建てられていました。右の説明文は文字がかすれてよく読めませんでした。手前のの看板の「ハブに注意」の文字にドキドキします。

 

石段

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登城口からは石段を上っていきますが、山奥の神社のような厳かな雰囲気がありました。ごつごつとした琉球石灰岩には無数の気孔が空いており、ここが沖縄だと実感させてくれます。

 

城壁への脇道

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途中で右への脇道があるので入っていきます。

 

外郭の城壁

安慶名城

なんと外郭の城壁上に出ました。安慶名城は、内郭を外郭が囲む輪郭式の縄張りと云われています。ただ実際は地形に合わせて石垣を築いたため、結果的に石垣が二重になったような気がします。

 

外郭の城壁

安慶名城

外郭の城壁上を歩くことも可能です。野面積みの石垣は脆そうに見えますが、コンクリートで補強してあるようです。でもかなりスリル満点。

 

内郭石垣

安慶名城

安慶名城

この石垣の存在感。岩盤上に築かれた野面積みの石垣の高さは10メートル近くありそうです。これは絶対よじ登れません。

 

石垣の狭間

安慶名城

よく見ると石垣にポコっと空いたところがありました。 これは狭間なのか、落石で歯抜けになったのか?

 

上り石段

安慶名城

さて、再び石段に戻って上を目指すと、先にベンチがちらりと見えます。あそこが中間地点なのか?

 

安慶名按司

安慶名城

石段横には切石を組んだ遺構がありました。その時はなんだか分かりませんでしたが、後で調べたところ安慶名按司の墓とのことでした。

 

入口???

 

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石段の突き当りを右にぐるっと曲がると、巨岩の裂け目があります。ただ、ブロックのような石垣も見え、人の手が加わっていることは確かです。

 

城門跡

安慶名城 城門

なんとこの裂け目が城門跡でした。主郭へ入るには、この岩盤の裂け目を利用した城門を潜るしかありません。すごい、凄すぎる。


城門の裏側

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城門というよりも、まるで秘密基地の入口みたい。ここを埋めちゃえば、こちら側から攻め込まれることはないでしょう。ただし、逃げ道も無くなりますが・・・

 

主郭左側

安慶名城

城門から入ってすぐに巨岩があり、主郭は大きく左右に分かれています。まずは左側に進んでみます。石のベンチの微妙な異物感。

 

内郭城壁

安慶名城

野面積みで築かれた内壁城壁。柵などないのでスリル満点。コンクリートで補強されているようでした。
 

内外郭の城壁

安慶名城

先に歩いた外郭城壁。そこから更に積み上げた内郭城壁。両壁合わせて10メートル以上の高さがあり、先の城門と組み合うとまさに金城鉄壁。王府軍に攻められた際は力攻めには屈せず、水を断たれて落城したというのも納得です。確かに城内には井戸はありませんでした。

 

郭内部

安慶名城

安慶名城

郭内部はそれほど広くなく、せいぜい数十名が籠城するのでやっとかな。また、南西側の城壁にも上ってみましたが、かなり樹木が茂っていて、輪郭式の縄張りを確認できませんでした。

 

謎の狭間

安慶名城

安慶名城 狭間

郭の北西隅の城壁には、謎の狭間が空いていました。1メートル以上の厚みの城壁に狭い狭間を設けても、狙撃の役に立つような気がしません。南東にも一箇所狭間がありましたが、どういう目的だったんでしょう?

 

謎の石碑

郭中心部にごつごつとした岩の上に石碑が祀られていました。比較的新しくみえる石碑には、尚家の家紋と「具志久美登繁座那志(ぐしくみとうはんざなし)・中が世うみない母親)」いう文字が彫られていました。

 

主郭右側

城門出口まで戻って、主郭の右側に向かいます。こちらの方が左側より面積は狭いです。

 

拝所


拝所らしき遺構があり、石碑には「安慶名宇志仁大主」と文字が彫られていました。

 

内郭城壁

安慶名城岩盤を上手に利用して、石垣を築いているのが分かるかと思います。

 

外郭城壁

安慶名城

先ほど歩いた外郭城壁を見下ろしてみます。安慶名城は輪郭式縄張りと云われていますが、内郭と外郭の間のスペースが狭く、出入口も無いため、人が入れるようには思えません。

 

安慶名城

安慶名城

闘牛場方面から、安慶名城を眺めてみました。現在闘牛は多目的ドームで開催され、手前の円形の闘牛場はあまり使われていないようです。

 

感想

野面積みの高石垣が素晴らしい城でした。岩盤の裂け目を利用した城門跡も興味深く、続100名城に選ばれてもおかしくないレベルです。ただ、城跡は整備はされてはいるのですが、他には誰にも遭いませんでした。もったいないので、もっとアピールして欲しいです。

勝連城(沖縄県うるま市) 2020年12月 登城

反逆の阿麻和利(あまわり)の居城だった勝連城。勝連半島の2つの丘に北城と南城が築かれる大規模な城でした。現在は北城が復元され、丘の上に姿はまるでギリシャ神殿のようです。

日本100名城

満足度:★★★★ 

 

歴史

13~14世紀頃に築城されたと考えられていますが、正直よくわかっていません。歴史の舞台に出てくるのは阿麻和利の居城になってからです。15世紀に突如現れた阿麻和利は勝連城主・茂知附按司を倒しました。勝連城主となった阿麻和利は力をつけ、6代尚泰久王の娘・百度踏揚(ももとふみあがり)を娶るまでになりました。

阿麻和利は、中城城主・護佐丸が反乱を企てていると尚泰久王に讒言し、1458年に護佐丸を討ちました(護佐丸の乱)。勢いに乗った阿麻和利は王都首里を攻めましたが、百度踏揚の密告もあり破れ、勝連城にて討たれました(阿麻和利の乱)。

こうして護佐丸と阿麻和利という有力按司が滅び、琉球王朝の地盤が強化されました。一般に忠臣・護佐丸、逆臣・阿麻和利と伝えられてきましたが、当時3者は互いに緊張した関係にあり、個人的には尚泰久王の策略だったという説に賛成です。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

那覇バスターミナルから、沖縄バス52番 与勝線に1時間30~40乗車、「勝連城跡前」下車すぐ。または、沖縄バス27番 屋慶名線、80番 与那城線に2時間乗車、「西原」で下車して徒歩10分。バスの乗車時間は長いのですが、下車後が楽なのが救いです。

 

城歩き

勝連城図

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勝連城は勝連半島の2つの丘に北城と南城が築かれ、その間の平地も城壁で囲む大規模なものでした。間の平地である四の曲輪には西原御門と南風原御門が築かれていました。現在は北城側が復元整理されています。

 

勝連城遠景

勝連城

現在は芝生が張られていますが、城外北東に当時は湿地が広がっており、水堀としての役割も持っていました。

四の郭の石垣 

万里の長城のように伸びる石垣。四の郭の北東には平地を守るように石垣が築かれており、搦手として西原御門が設けられていました。

 

ガー(泉)

四の郭内には複数のガー(泉)がありました。飲水は生活に不可欠なものですから、日常的に城内に住む人々が多数いたんでしょうね。

 

勝連城全景

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まさに丘の上の渦巻の城。古代遺跡のような荘厳さすら感じられます。ただ、城壁のほとんどは、本土への返還後に順次復元されたものになります。

四の郭からの上り

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三の郭へは左に大きくカーブしながら上っていきます。攻め手の兵が右利きの場合、盾で防御できる左側ではなく、防御の弱い右側を守備側に晒すことになります。よく考えられてる縄張りです。

四脚門跡

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三の郭入口には四脚門が建てられていました。現在の石垣は復元ですが、壁に4箇所のくぼみが設けられていますね。

三の郭

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三の郭には芝生が広がっています。築城時も御殿等の建物は無かったようです。

 

すり鉢状遺構

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郭内にミステリーサークルのような跡が2箇所あります。発掘調査では、すり鉢状の遺構が見つかり、粘土とこぶし大の石が貼り付けてあったとのこと。普通の考えると飲水のための水溜めですが、さてその目的は?

 

二の郭基壇

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二の郭と三の郭の境には、高さ2メートルの石垣が一直線に築かれていました。二の郭には正殿の基壇部があり、三の郭にはその前庭部がありました。

 

二の郭

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二の郭は政治や祭礼の中心であり、正殿が建てられていました。城内に屋根瓦片が多数出土していることから、正殿が瓦葺きであったと考えられます。沖縄で瓦が使用されている城は少なく(浦添城・首里城)、勝連城主が財力を持っていたことが窺えます。

 

謎の石積み

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正殿跡には謎の石積みが4箇所見つかっています。かまど説や照明用の炉説などが唱えられていますが、今となっては永遠の謎ですね。


ウミチムン(火の神)

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二の郭にはウミチムン(火の神)が祀られていました。ヒヌカンとも呼ばれ、原初はかまどの神様だったようです。

二の郭からの上り

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二の郭からは再び大きくカーブしながら上っていきます。現在は右側に階段が造られていますが、当時は石畳のみでした。

一の郭への石段

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この石段が勝連城の最終防御ラインです。上に行くに従って幅が狭くなっており、攻め手が渋滞するように工夫されています。
 

一の郭

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発掘調査から建物があったと考えられていますが、詳細は不明です。


玉ノミウヂ御嶽

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霊石をご神体とする御嶽です。霊石の上部を平坦にして、建物の基礎に使用されたと考えられています。ちょっと罰当たりな気もしますが・・・

 

中城方面

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かなり風が強いけど、一の郭からの見晴らしは抜群です。湾を挟んで中城城主の護佐丸と互いに牽制し合ったのでしょう。もし阿麻和利が天下を取っていたら、首里ではなく、ここが沖縄の中心地だったかもしれませんね。

 

感想

渦を巻いたような城壁が格好良く、城跡からの見晴らしも抜群でした。一時は逆臣とされた阿麻和利ですが、現在では再評価も進んでいます。阿麻和利の無念とともに、ぜひ訪問してみてください。

中城城(沖縄県中頭郡) 2020年12月 登城

悲運の忠臣、護佐丸の居城だった中城城。幕末に来航したペリー調査隊も称賛し、その姿をスケッチに残しました。沖縄有数の規模の城郭であり、戦争の被害も少ないことからオススメの城郭です。

日本100名城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

2019年の一の郭北西の城壁修理の際に内側から新たな石垣が見つかったことから、14世紀中頃に築かれたと推定されています。

先中城按司 (さちなかぐすくあじ)の居城であり、数代にわたり、南の郭・西の郭・一の郭・二の郭を築きました。

1440年に座喜味城から移ってきた護佐丸は北の郭と三の郭を増築し、現在残る中城城の原型が完成しました。1458年に勝連城主・阿麻和利の急襲を受け、護佐丸は滅ぼされ、その阿麻和利も王府軍に攻められ滅びます。(護佐丸・阿麻和利の乱)

その後の中城城は王府の直轄となり、江戸時代には中城間切番所が置かれました。1853年には黒船・ペリー提督が琉球に来航した際には、ペリー調査隊が中城城にも訪れました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

公共交通機関派泣かせの城です。最寄りにバス停が無く、どのように行ったらいいのか頭を悩ませました。結論から言うと、どのバス停からも城まで30分以上坂道を上ることになります。

 

国道329号方面からのルート

ネットでよく見かけるのは、海沿いの国道329号方面からのルートです。那覇バスターミナルから、東陽バス30番 泡瀬東線で「添石」「久場」停留所まで約60分。バス停から中城城入口まで、坂道を上って35分弱かかります。「添石」から県道146号線を通るルートの方が多少上りが緩やかです。

「添石」「久場」の間にある「泊」停留所からも中城城を目指すことも出来ます。グーグルマップでは途中で道が無くなっていますが(略図の赤破線のところ)、実際には道がありました。ただ、かなり荒れているのでお勧めしかねます。こちらのルートだと徒歩30分弱。

 

県道81号方面からのルート

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勝連城とはしごする場合は、県道81号方面からのルートが便利です。那覇バスターミナルから、沖縄バス52番 与勝線で「喜舎場」「仲順」停留所まで55分。勝連城跡前からなら35分。バス停から坂道を上り、途中ゴルフ場を横目に30分かかります。

 

城への道

最短距離と思われる「泊」停留所から中城城を目指しましたが、ルート選択を少し失敗しました。

 

泊の大クワディサー

泊の大クワディサー

泊バス停から国道329号を少し歩いたところにある大クワディサー(モモタマナ)。

 

坂道

沖縄の城は小高い丘にあることが多く、バス停は平地にあることが多い。つまり、必然的に上りになるということですな。ただひたすら上るのみ。

 

坂道

途中から傾斜がきつくなっていきます。30度はあるんじゃないの。泊からのルートは最短距離の分だけ上りがキツイです。

 

幻の道

ゼハゼハ言いながら辿り着いたのが、グーグルマップには載っていない道です。入口から既に荒れ果てており、不安でいっぱい。

 

道か?

途中からまさかの草むら&水溜りゾーンに突入。12月でこの様子では、他の季節は立ち入れないでしょう。短い距離ですが、はぶに警戒しながら進みました。

 

あと少し

階段を上って、県道146号線に合流します。中城城までもうひと頑張り。

 

中城城料金所

ようやく着きました。結局、泊停留所から30分弱かかりました。坂が急だったせいもありますが、途中の草むらで時間を取られました。国道329号方面からだったら、「添石」バス停から県道146号線を上るルートがお勧めかな。

 

城歩き

縄張図

三の郭・二の郭・一の郭・南の郭が一直線に並び、北西側を北の郭と西の郭が防御する縄張りになっています。三の郭と北の郭は護佐丸が増築したと伝えられています。

 

中城城遠景

中城城

まるで古代遺跡のような雰囲気。手前に広場が広がっていますが、城とは関係なく、戦後に遊園地があったとのこと。今からでは想像出来ませんね。

 

三の郭城壁

中城城

護佐丸が増築した三の郭は、城壁が相方積みという当時最新の技法で築かれており、新城(ミーグスク)とも呼ばれています。門があるわけでもないので、中央部分をわざわざ凹ませる意味は無いように思えますが・・・

 

裏門

中城城 三の郭アーチ門

中城城 三の郭アーチ門

護佐丸の代名詞であるアーチ門。当時はこちらが搦手でした。弓型の2枚の石板で屋根が造られています。門の前には石段を作り、敵が攻め難くしています。

 

北の郭とウフガー(大井戸)

北の郭はウフガー(大井戸)を城内に取り込むために、護佐丸が増築しました。井戸を確保するということは、居住や籠城を強く意識したからに他なりません。井戸は現在も静かに水をたたえていました。

 

三の郭入口と二の郭城壁

石段の右側には二の郭が迫り出しており、横矢がかけられるようになっています。二の郭の城壁隅部には「隅頭石」と呼ばれる尖りがありますが、昭和に修復された際に取り付けられたようです。

 

旧裏門と二の郭への石段

三の郭から二の郭には直接行けないため、一度北の郭に下りてから、西の郭経由で石段を上ります。途中に通る門跡は、護佐丸が北の郭を増築する前の裏門にあたります。

 

二の郭の御イベ

二の郭は先中城按司によって築かれており、城主の家族や女中が住んでいたと考えられています。郭内には「シライ冨ノ御イベ」と呼ばれる拝所もあり、この郭が初期から在ったことが分かります。

 

二の郭城壁

中城城

うねるような曲線を描く城壁。城壁上には胸壁が設けられ、敵の攻撃から身を守れるようになっています。それにしても絶景ですね。

 

三の郭内

中城城 三の郭

二の郭城壁上から三の郭を見下ろしてみました。護佐丸が勝連側に三の郭をわざわざ増築したのは、勝連按司を仮想敵としたからでしょう。出入口が一箇所しかなく、逃げ道のない(連携が悪い)郭なのは、後から増築したからでしょう。

 

一の郭アーチ門

中城城 一の郭城壁

中城城 一の郭アーチ門

一の郭にはアーチ門をくぐって入ります。一の郭を築いたのは先中城按司なので、このアーチ門は護佐丸が改修したと考えられています。座喜味城といい、どんだけアーチ門が好きやねん。

 

一の郭内

一の郭は城内で最も広い郭であり、正殿が建てられ政務が執り行われていました。江戸時代には中城間切番所が置かれ、第二次世界大戦で焼失するまで村役場として存続したというのが驚きです。また、グスクの守り神を祀った中森ノ御イベ(着替御嶽)もありました。

 

一の郭アーチ門

中城城

アーチ門を通って、南の郭に入ります。このアーチ門も護佐丸が改修したと考えられています。

 

南の郭

南の郭は今までの郭とは雰囲気が異なります。ゴツゴツとした岩が露出し、木や花が生い茂っています。石垣も積み方も野面積みで、この郭が中城城で一番最初に築かれたと考えられています。

 

拝所

雨乞いの御嶽、小城ノ御イ(久高遥拝所)、御當蔵火神(首里遥拝所)。南の郭が城中で最も神聖な場所とされていたのが分かります。

 

城壁の狭間 

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南の郭には沖縄の城には珍しい狭間が設けられています。監視用なのか、射撃用なのかは不明ですが、先中城按司の築城術も護佐丸に負けず優れていることが分かります。

 

西の郭への下り

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南の郭から西の郭には坂を下りて向かいます。坂の正面には一の郭の石垣が出丸のようにそびえ立っています。

 

西の郭

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西の郭は細長く、兵が訓練した場所と考えられています。大手門を破った敵はこの郭に突入することから、戦時の重要地点でした。

 

一の郭の石垣

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西の郭から見上げる一の郭の石垣。石垣は二段に積まれており、なんと10メートル以上の高さがあります。現在修復工事が行われていますが、大発見がありました。

 

14世紀中頃の城壁発見!

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2016年から一の郭の石垣を補修のため解体した際に、下段城壁の内側から、なんと14世紀中頃の城壁が現れました。図らずもペリー調査隊のスケッチが正しいことが証明されました。いかにも古そうな野面積みの下段城壁は明治以降に積まれたものだってさ。

 

14世紀中頃の城壁(隅部分)

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城壁保護のため元の状態に戻されていますが、隅部分のみ見学できるように露出してあります。意外なことに石垣の積み方は技術を要する布積みで築かれています。また、ここが隅部ということは、上段城壁を築く際に一の郭を拡張したんでしょうね。

正門

中城城 正門

正門は櫓門であり、門前は枡形になっています。正面左の城壁は前に迫り出しており、一箇所狭間が設けられています。かなり堅固な縄張りです。

中城高原ホテル跡と現在

中城高原ホテル

初めて中城城を訪問した時、正門の先に見える廃墟がとても気になりました。廃墟の正体は中城高原ホテルで、1972年の開業からすぐに廃業が決まり、以後48年に渡り廃墟として存在しました。2019年に取り壊しが決まり、今回の訪問時には更地になっていました。一つの歴史が終わりました。

 

感想

巧みな縄張りに壮大な石垣、間違いなく沖縄を代表する城跡です。この城が阿麻和利に攻め落とされたのが信じられません。阿麻和利が首里王府軍の旗を掲げていたことから、王への忠誠心の厚い護佐丸は抵抗しなかったと伝えられていますが・・・

その真偽はともかく、城好きなら訪問して絶対後悔しませんよ。お薦めです。

座喜味城(沖縄県読谷村) 2020年12月 登城

悲劇の功臣・護佐丸が築いた座喜味城。沖縄では珍しい戦闘特化型の城郭です。青空に白亜のアーチ門が美しく映え、沖縄世界遺産にも選ばれています。

日本100名城

満足度:★★★★

 

歴史

1416年に読谷山按司護佐丸は中山・尚巴志今帰仁城攻めに参戦し、北山滅亡後に北山守護職につきました。同時に、尚巴志は護佐丸に築城を命じ、1420年に完成したのが座喜味城です。築城にあたっては、4キロ離れた元居城・山田グスクから石材を運んだとも伝えられています。

約20年間、護佐丸はこの地を治めましたが、勢力を伸ばす勝連按司の牽制のため、1440年に中城に移り、座喜味城は廃城となりました。

その後、太平洋戦争中は日本軍の高射砲陣地、戦後は米軍のミサイルのレーダー基地が置かれ、その際に城郭の一部が破壊されました。沖縄返還後に発掘調査と復元が行われ、2000年に世界文化遺産に登録されました。

 

交通アクセス

行きやすさ:

那覇バスターミナルから、沖縄バス29番 読谷線(喜名)に乗って、「座喜味」下車。乗車時間75分、バス停から城入口まで徒歩10分。 ただ、本数が1日5,6本しかないので、往復とも乗るのは困難です。

沖縄バス28番 読谷線(楚辺)だと「座喜味」は通らないので、「高志保入口」で下車、徒歩20分。こちらは1時間に1~3本はあるので、バスの本数的には便利です。

 

城への道

座喜味バス停

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最寄りのバス停は「座喜味」ですが、バスの本数が少ないのが難点です。歩く距離は伸びますが、「高志保入口」のバス停も使わざるを得ないですね。

 

坂道

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500メートルほど坂道を上っていきます。以前来た時は車で来たので気づきませんでしたが、こうやって歩くと山城ですね。

石敢當

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沖縄らしいね。石敢當とシーサーは実際よく見かけます。

 

世界遺産の碑

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琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、2000年に世界文化遺産に登録されました。

 

城入口

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ここまでバス停から10分。いい運動になりました。ここから100メートル歩けば座喜味城に到着します。沿道には、沖縄では珍しい松の木が植えてありました。

 

城歩き

縄張図

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城内はさほど広くなく、一の郭の南側に二の郭が取り付くシンプルな縄張りです。ただ、城壁が連続的に張り出されており、防御を強く意識している(横矢をかける)のが見て取れます。

二の郭の石垣とアーチ門

座喜味城 二の郭

丘の上に唐突に現れる座喜味城。うねるような曲線の城壁とアーチ門が沖縄に来たことを感じさせてくれます。

 

二の郭城壁

向かって右側の城壁が迫り出しており、門へ攻め込む敵に横矢をかけられる縄張りとなっています。

 

二の郭アーチ門

座喜味城 二の郭アーチ門

座喜味城 二の郭アーチ門
座喜味城のアーチ門は、2枚の天板の中央に楔岩が打ち込まれているのが特徴です。二の郭アーチ門は現存のものであり、沖縄最古のアーチ門と言われています。このような形が突如登場しているのが不思議です。護佐丸は貿易を盛んに行っており、その影響でしょうか?

 

一の郭の石垣とアーチ門

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二の郭内はさほど広くなく、一の郭の石垣とアーチ門すぐ見えます。今度は向かって左側の城壁が張り出しており、横矢をかけられるようになっています。

 

二の郭左手奥

二の郭の左手奥へも道があるので進んでみましょう。先は見通せませんが、緩やかな下りになっています。

 

二の郭の奥

なんと行き止まりでした。これは巧妙な罠であり、この道を進んだ敵は袋小路に追い込まれ全滅あるのみ。技巧的な縄張りです。

 

一の郭アーチ門

座喜味城 一の郭アーチ門

再び戻って、アーチ門から一の郭に入ります。こちらの門は復元されており、階段は日本軍が埋めてスロープに、門は米軍のレーダー基地設置の際に取り壊されました。そのためか、上半分が布積み、下半分が野面積みと石垣の積み方が違いますね。

 

二の郭

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一の郭の東には建物跡があり、瓦が出土しないことから板葺きの建物だったと推定されています。城内に木が生えておらず、芝生が貼られているので、明るい公園のような印象を受けます。

 

城壁への階段

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階段を使って城壁に上ることが出来ます。登り口に柵があるのは、強風時(台風)に鍵をかけて立入禁止にするため。実際この日も風が強かったです。

 

城壁

座喜味城 城壁

城壁の上は歩くことができ、守備側は効率よく兵を移動させることが出来ます。現在は残っていませんが、城壁上には兵が身を守る胸壁もありました。

一の郭内部

座喜味城 一の郭内

座喜味城には生活に不可欠な井戸や御嶽が無いことから、護佐丸は通常はこの城に住んでいなかったと考えられます。戦闘に特化した非常用の砦であり、聖域としても祀られることの多い他のグスクとは毛色が違うように感じられます。

 

古写真(沖縄県公文書館所蔵)と現在

1957年に撮影された写真と現在の姿を並べてみました。当時はめっちゃ荒れていますね。常日頃、城を整備をしてくれている方々に感謝!

 

感想

本当に日本離れした西洋の遺跡のような城跡でした。城内もきちんと整備されていて、とても見学しやすかったです。最大の問題は交通アクセスの不便さかな。帰りのバスは渋滞に巻き込まれて2時間かかりました。ぎゃふん。

 

熊本城(熊本県熊本市) 2021年7月 登城

加藤清正が築いた堅城・熊本城。しかし、2016年4月の熊本地震により甚大な被害を受け、全復旧までには2037年までかかるとされています。2021年に復旧した大小天守の一般公開が始まりましたので、登城してきました。

日本100名城

満足度:★★★★★

  

歴史

1588年に肥後半国に入封した加藤清正は、茶臼山に新たに築城を開始しました。直後の朝鮮出兵により工事は中断しましたが、1607年に熊本城は完成しました。大小天守以外にも6基の5階櫓が建ち、石垣の曲線は「扇の勾配」と称されました。まさに築城の名手・清正の集大成でした。

1611年の清正没後に兄二人が夭逝し、3男の忠広が11歳の若さで相続しました。しかし、お家騒動がおこるなど、その治世は安定したものではありませんでした。ついに1632年に3代将軍・徳川家光によって改易されました。

同1632年に肥前小倉から細川忠利が肥後54万石で入封し、以後細川家の居城となり明治維新を迎えました。

熊本城がその堅城ぶりを発揮したのは1877年(明治10年)の西南戦争でした。西郷隆盛率いる1万3千名に対し、熊本鎮台は農民兵中心の3千3百名。司令官・谷干城は熊本城に籠城することを決断します。熊本城は西郷軍の度重なる強襲にも耐え、52日後に西郷軍は包囲を解き退却しました。まさに歴史を変えた籠城戦でした。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR熊本駅から市電で「熊本城」「市役所前電停」まで約10分。熊本の繁華街にあり、まさに熊本の中心にあります。

 

城歩き

2016年4月の熊本地震により、天守重要文化財13棟が損壊しましたが、2021年に大小天守が復旧し、一般公開が再開されました。ただ、コロナ禍の影響で、公開は何度か中止になっていますが、タイミングよく7月に登城しました。

 

清正公像清正公像

豊臣秀吉の部下として活躍した加藤清正は、1588年に肥後半国を与えられました。河川の治水や干拓にも着手し、現在の熊本の繁栄の基を築きました。清正公(セイショコ)さんとして、今日も熊本市民に親しまれています。

 

 

馬具櫓(復元)

熊本城 馬具櫓

熊本城 馬具櫓

地震で被害を受けた馬具櫓を横目に行幸橋を渡ります。土台の石垣が崩れており、馬具櫓にもひびが入っています。

 

桜の馬場 城彩苑

城彩苑にある熊本城ミュージアムわくわく座にて、コロナアンケートを記入し、前売り入城券を購入しました。開城時間の18分前に着きましたが、既に行列が出来ていました。

 

復興見学ルート

今なお損壊している箇所が多数あるため、高さ約6mの特別見学通路が設けられており、その通路を通って天守に向かいます。

 

法華坂への階段

開城時間少し前に列が動き出しました。まずは法華坂への階段を上ります。

 

未申櫓(復元)

熊本城 未申櫓

奉行丸の南西に位置する未申櫓。奉行丸は本丸西に築かれた出丸であり、江戸時代には奉行所が置かれていました。

 

法華坂

熊本城 法華坂

石垣の保護が痛々しいですね。ちなみに法華坂には重箱婆という妖怪が出るという伝承がありました。

 

特別見学通路

特別見学通路は全長350メートルの見学ルートです。被災した城の復旧過程を間近に見ることが出来る空中歩道です。なんと、2020年度グッドデザイン賞受賞なり。

 

数寄屋丸二階御広間(復元)熊本城 数寄屋丸二階御広間

数寄屋丸二階御広間は、内部一階に土間、二階には書院造の座敷があり、能や茶会の場所として使われていました。地震で中央部の石垣が崩れ、建物もひびが入り歪んでいます。

 

天守

熊本城 天守

2021年に復旧された大天守。南から眺めた天守は意外にスッキリしています。

 

二様の石垣

熊本城 二様の石垣

傾斜の緩やかな古い石垣(右側)に傾斜の急な新しい石垣(左側)が継ぎ足されています。近年では、古い石垣は加藤清正が、新しい石垣は息子の忠広が築いたと推定されています。

二様の石垣の積み方

よく見ると、それぞれの石垣の積み方に違いがあります。右側の石垣隅は正方形に近い角石を用いた重箱積みで、石の形も様々です。左側の石垣隅は長方形の石を交互に組んだ算木積みで形の整った石が用いられています。

 

連続外桝形

熊本城 連続外桝形

竹の丸から飯田丸は連続枡形で繋がっています。ブロックみたいな石垣が圧巻なのですが、地震で石垣が崩れてしまっています。再びここを通れる日はいつになるやら。

 

本丸入口

本丸御殿の下を潜って、天守に向かいます。当時、この通路は無かったと思います。

 

闇り(くらがり)通路

熊本城 闇り通路

本丸御殿は2つの石垣を跨るように建てられているため、御殿下には地下通路が通っています。残念なことに立入禁止でしたが、この先に本来の入口である闇り御門がありました。

 

天守(復元)

熊本城 大小天守

熊本城 大小天守

1877年(明治10年)、西南戦争の直前に原因不明の火災により大小天守は消失しました。1960年(昭和35年)に外観復元されましたが、2016年(平成28年)の熊本地震で被災しました。そして2021年(令和3年)に復旧したわけです。

復旧にあたっては制震ダンパーが設置され、地震に対する対策が採られています。また、新しく葺き替えられた瓦が白く輝き、黒のイメージの強い熊本城の雰囲気が少し明るくなりました。

 

天守の忍び返し

小天守の忍び返し

鋭い刃が下に向いた忍び返し。熊本城の特徴は執拗なまでの実戦性です。加藤清正の経験がそうさせたのでしょうか。

天守からの眺め

熊本城

天守最上階から西方面を眺めたところ。地震にも倒壊しなかった宇土櫓。特別見学通路も見えますね。

 

古写真

天守内で展示されていた焼失前の大小天守の古写真。かなり荒廃しています。明治維新後に解体が予定されていましたが、直前になって中止。しかし、西南戦争前に謎の焼失。数奇な運命を辿っています

 

他にも興味深い展示がされており、勉強になりました。

・入城した細川忠利は城の大きさに驚いたものの、地震時に高い石垣や天守・櫓に囲まれた本丸には危なくて居られないと書状を出していた。実際、城下の花畑屋敷に移ってしまった。

西南戦争の際に薩摩軍から水攻めを受けた。しかし、周囲は水没したものの城は水没することなく、かえって守備側の助けになった。

・熊本城はしばしば地震による被害を受けており、1889年(明治22年)の熊本地震でも被災した。熊本城に駐在していた第6師団は陸軍省に復旧を訴え、自らの手によって石垣を修復した。

 

 

大小天守

熊本城 大小天守

熊本城 天守台

西側から見た大小天守。小天守は大天守完成後に増築されているため、天守大部分の石垣の勾配や積み方が異なります。

 

宇土

熊本城 宇土櫓

宇土櫓は小西行長宇土天守が移築されたとの伝承がありましたが、現在では加藤清正が築いたと考えられています。西南戦争でも焼失しなかった貴重な現存櫓ですが、今回の地震では内部が変形してしまいました。今後解体修理される予定です。

 

元太鼓櫓跡

この場所には再建された元太鼓櫓が建っていましたが、震災後の2018年(平成30年)に倒壊しました。

 

大小天守宇土

熊本城

熊本城

上の写真は今回(2021年7月)、下の写真は2018年6月の姿です。大小天守が復旧したのが分かります。宇土櫓が小天守より大きく見えますね。

 

戌亥櫓(復元)

熊本城 戌亥櫓

熊本城 戌亥櫓

櫓の北東隅が奇跡の一本石垣で支えられた戌亥櫓。上の写真(2021年7月)と下の写真(2018年6月)を比べても、戌亥櫓に変化はありません。バックの小天守は復旧していますが・・・、頑張れ。

 

長塀

熊本城 長塀

2021年1月に復旧が完了した長塀。長さは252.7メートルもあり、芝生の緑との対比がきれいですね。

感想

大小天守が復旧したのは本当に喜ばしいです。今回の特別公開でも多くの観光客が訪れており、人気のほどが窺えます。ただ、改めて地震の被害の大きさも実感しました。崩れた石垣に解体された櫓や門。少しずつでも復旧されることを応援してます。