海に浮かぶ軍艦を彷彿とさせる唐津城。関ヶ原の戦いで東軍についた寺沢広高により築城されました。現在、城の東側に広がる「虹の松原」も、広高が防風林として植林したのが始まりと伝えられています。
続日本100名城
2024年12月登城
満足度:★★★★★
歴史
寺沢広高が築いた唐津の礎
1595年(文禄4年)、豊臣秀吉の家臣・寺沢広高は、改易となった波多氏に代わり唐津へ入封しました。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その軍功により天草4万石を加増されます。しかし、後世から見れば、この天草領有こそが寺沢家の運命を大きく左右することとなりました。
広高は1602年(慶長7年)から7年の歳月をかけ、松浦川河口の満島山に本丸を、その南西に広がる砂丘上に二の丸・三の丸を築城しました。東西に広がる松原を翼に見立て、城は「舞鶴城」とも呼ばれました。
キリシタン弾圧が招いた寺沢家の断絶
1633年(寛永10年)、父・広高の死去に伴い、次男の寺沢堅高が唐津藩第2代藩主となりました。堅高が先代に引き続き天草地方でキリシタンへの厳しい弾圧を行った結果、天草四郎を中心とした「島原・天草の乱」が勃発します。乱の鎮圧後、堅高は一揆を招いた責任を問われて天草の領地を没収され、1647年(正保4年)に自害しました。世継ぎがいなかったため、これにより寺沢家は断絶しました。
寺沢家断絶後の唐津藩
寺沢家の断絶後、1649年(慶安2年)に大久保忠職が明石から入封しましたが、その後も城主は頻繁に入れ替わりました。歴代藩主はいずれも幕府の要職を務める譜代大名であり、天保の改革で知られる水野忠邦も、唐津藩水野家の第4代藩主でした。
1817年(文化14年)には小笠原長昌が入封し、その後は小笠原氏が4代続いて統治を行い、明治維新を迎えました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR唐津駅から徒歩20分ほど。博多駅からは福岡市地下鉄・JR筑肥線経由で、約80分で到着します。佐賀の唐津と聞くと遠いイメージがあるかもしれませんが、意外にもアクセスは良好でした。
縄張図
唐津城の縄張り
正保城絵図より

国土地理院撮影の空中写真(2022年撮影)を加工

唐津城は、松浦川河口の満島山(みつしまやま)に本丸を置き、その麓に二の丸、さらに堀で隔てられた外側に三の丸を配置する縄張りで築かれました。現在、二の丸は高校の敷地となり、三の丸も市街地へと姿を変えていますが、往時の縄張りの名残を今も色濃く留めています。
なお、築城当時に天守は建造されませんでした。現在そびえ立つ天守は、1966年(昭和41年)に観光施設として建てられた模擬天守となります。
富岡城との類似点
寺沢広高により、唐津城と同時期に天草領でも富岡城が築かれました。特筆すべきは、両城ともに従来の拠点を捨てて、砂州で本土とつながる「陸繋島(りくけいとう)」に新城を築いた点です。水運や防御性を重視した、広高独自の縄張り思想が反映されている可能性がうかがえます。
城歩き
三の丸の遺構

先に述べたように、三の丸は市街地化が進んでいますが、当時の堀と石垣が一部に残っています。
三の丸辰巳櫓

三の丸の東南隅には、辰巳櫓が建てられています。明治維新後に解体されましたが、1992年(平成4年)に復元されました。
三の丸石垣

辰巳櫓の北側に続く川沿いには、三の丸の石垣が残っています。築城当時の東側は現在のような川ではなく、湾になっていました。埋め立てが進んだ今もなお、石垣がかつての面影を物語っています。
肥後掘

三の丸と外曲輪を隔てる肥後掘は、一時期埋め立てられていましたが、1989年(平成元年)に復元されました。
二の丸の遺構

二の丸は堀によって、三の丸と隔てられていました。現在もその堀と石垣が残されており、往時の姿を思い起こすことができます。
時の太鼓

旧二の門の入口付近には「時鐘(ときがね)」が復元されています。現在はからくり時計となっており、午前7時から午後7時までの正時になると、武士の人形が太鼓を打ち鳴らして時を告げます。
旧二の門入口



旧二の門の入口は、現在は交差点になっています。門そのものは残っていませんが、そこからは川のように幅の広い堀と、二の丸の石垣を眺めることができました。
二の丸屋敷跡


二の丸屋敷跡は、現在、早稲田佐賀中学校・高等学校の敷地となっています。
正直なところ「なぜここに早稲田が?」と疑問に思いました。調べてみると、創立者の大隈重信が佐賀出身なことや、第2代総長が唐津出身であったことなど、さまざまな背景が重なっていたようです。
本丸登城口

唐津城の本丸は、もともと満島山に築かれたこともあり、石段を登って向かう必要があります。
総締門跡


石段を左へ大きく曲がると、さらにクランク状の石段が続いています。かつては、この途中に「総締門」が設けられていました。この辺りには、敵の侵入を阻むための堅固な石垣が今も良好に残されています。
本丸中段

唐津城の本丸は、上段と中段が石垣によって仕切られており、石段を登り切るとまずは中段へと出ます。
天守台石垣

唐津城の石垣は、長い年月を経てはらみや緩みが生じていたため、2008年(平成20年)から大規模な修復工事が行われました。現在は天守台の石垣も積み直され、見事な姿を取り戻しています。
また、修復工事の際に天守台の下から、現在よりも古い時代の石垣が発見されました。旧石垣の盛土からは、豊臣秀吉とも縁の深い金箔瓦も出土しており、唐津城が通説よりも早い時期に築城された可能性を示唆しています。
櫓門

櫓門をくぐり、いよいよ本丸上段へと向かいます。この辺りの石垣もきれいに修復されていますね。
天守

唐津城は築城当時、天守を持たない城であったとされています。現在見える天守は、1966年(昭和41)年に、文化観光施設として建てられた模擬天守です。
模擬天守のモデルとなったのは、肥前名護屋城だと語られています。個人的には、天守や続櫓の織りなす雰囲気が、どことなく会津若松城にも似ているような気がしました。
東唐津

天守最上階からの眺めは最高です(風は少し強いですが!)。
唐津城の東側、舞鶴橋が架かる対岸のエリアが東唐津です。江戸時代には「満島(みつしま)」と呼ばれ、唐津藩の港として栄えていました。
本丸・二の丸の北東部

本丸や二の丸の東北部を歩くと、唐津城が「海城」であることを改めて実感させてくれます。
唐津城


東唐津との間に架かる舞鶴橋から眺めた唐津城です。波打ち際に築かれた石垣は、海からの侵入を阻むための堅固な守りを形成しています。
本丸腰曲輪櫓

本丸の北側一段下には腰曲輪が配され、海沿いには堅固な石垣が巡らされています。
本丸腰曲輪

現在、本丸の腰曲輪にはぐるりと遊歩道が整備されており、海に沿って散策を楽しむことができます。
本丸腰曲輪遊歩道



荒々しい波打ち際に築かれた石垣は、かつて海側から迫る敵の攻撃に備えて設けられたものでした。
本丸腰曲輪石垣


本丸腰曲輪の石垣には「折れ」が多用されており、防御力とともに構造的な強度も高められています。その佇まいからは、かつて島であった指月山に築かれた、毛利家の萩城との相似点を感じずにはいられません。
二の丸北石垣



二の丸の北側には、約300メートルにわたって石垣が直線に続いています。かつては海からの敵を防ぐ堅固な城壁でしたが、現在は散歩道として整備されています。見落としやすいので、城好きな方はぜひどうぞ。
感想
当時の遺構が色濃く残る、見応えのある名城でした。実は私自身、模擬天守はそれほど好みではないのですが、唐津城の天守は青空に実によく映えていました。訪れる際は、ぜひ本丸の腰曲輪や二の丸北側の遊歩道も歩いてみてください。

名護屋城は、玄界灘に突き出た波戸岬の付け根に築かれました。本丸の北西部には5重の天守がそびえ、その北西に二の丸と弾正丸、南東には三の丸が配置されました。

















































































































































































