石垣好きの城歩き

縄張りマニアの城巡り

縄張りマニアが城の見どころを解説します

唐津城(佐賀県唐津市) 寺沢広高が築いた城と虹の松原

海に浮かぶ軍艦を彷彿とさせる唐津城。関ヶ原の戦いで東軍についた寺沢広高により築城されました。現在、城の東側に広がる「虹の松原」も、広高が防風林として植林したのが始まりと伝えられています。

続日本100名城

2024年12月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

寺沢広高が築いた唐津の礎

1595年(文禄4年)、豊臣秀吉の家臣・寺沢広高は、改易となった波多氏に代わり唐津へ入封しました。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その軍功により天草4万石を加増されます。しかし、後世から見れば、この天草領有こそが寺沢家の運命を大きく左右することとなりました。

広高は1602年(慶長7年)から7年の歳月をかけ、松浦川河口の満島山に本丸を、その南西に広がる砂丘上に二の丸・三の丸を築城しました。東西に広がる松原を翼に見立て、城は「舞鶴城」とも呼ばれました。

 

キリシタン弾圧が招いた寺沢家の断絶

1633年(寛永10年)、父・広高の死去に伴い、次男の寺沢堅高が唐津藩第2代藩主となりました。堅高が先代に引き続き天草地方でキリシタンへの厳しい弾圧を行った結果、天草四郎を中心とした「島原・天草の乱」が勃発します。乱の鎮圧後、堅高は一揆を招いた責任を問われて天草の領地を没収され、1647年(正保4年)に自害しました。世継ぎがいなかったため、これにより寺沢家は断絶しました。

 

寺沢家断絶後の唐津藩

寺沢家の断絶後、1649年(慶安2年)に大久保忠職が明石から入封しましたが、その後も城主は頻繁に入れ替わりました。歴代藩主はいずれも幕府の要職を務める譜代大名であり、天保の改革で知られる水野忠邦も、唐津藩水野家の第4代藩主でした。
1817年(文化14年)には小笠原長昌が入封し、その後は小笠原氏が4代続いて統治を行い、明治維新を迎えました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

JR唐津駅から徒歩20分ほど。博多駅からは福岡市地下鉄・JR筑肥線経由で、約80分で到着します。佐賀の唐津と聞くと遠いイメージがあるかもしれませんが、意外にもアクセスは良好でした。

 

 

縄張図

唐津城の縄張り

正保城絵図より

 

国土地理院撮影の空中写真(2022年撮影)を加工

唐津城は、松浦川河口の満島山(みつしまやま)に本丸を置き、その麓に二の丸、さらに堀で隔てられた外側に三の丸を配置する縄張りで築かれました。現在、二の丸は高校の敷地となり、三の丸も市街地へと姿を変えていますが、往時の縄張りの名残を今も色濃く留めています。
なお、築城当時に天守は建造されませんでした。現在そびえ立つ天守は、1966年(昭和41年)に観光施設として建てられた模擬天守となります。

 

富岡城との類似点

寺沢広高により、唐津城と同時期に天草領でも富岡城が築かれました。特筆すべきは、両城ともに従来の拠点を捨てて、砂州で本土とつながる「陸繋島(りくけいとう)」に新城を築いた点です。水運や防御性を重視した、広高独自の縄張り思想が反映されている可能性がうかがえます。

 

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城歩き

三の丸の遺構

先に述べたように、三の丸は市街地化が進んでいますが、当時の堀と石垣が一部に残っています。

 

三の丸辰巳櫓

唐津城 三の丸辰巳櫓

三の丸の東南隅には、辰巳櫓が建てられています。明治維新後に解体されましたが、1992年(平成4年)に復元されました。

 

三の丸石垣

唐津城 三の丸石垣

辰巳櫓の北側に続く川沿いには、三の丸の石垣が残っています。築城当時の東側は現在のような川ではなく、湾になっていました。埋め立てが進んだ今もなお、石垣がかつての面影を物語っています。

 

肥後掘

唐津城 肥後堀

三の丸と外曲輪を隔てる肥後掘は、一時期埋め立てられていましたが、1989年(平成元年)に復元されました。

 

二の丸の遺構

二の丸は堀によって、三の丸と隔てられていました。現在もその堀と石垣が残されており、往時の姿を思い起こすことができます。

 

時の太鼓

時の太鼓

旧二の門の入口付近には「時鐘(ときがね)」が復元されています。現在はからくり時計となっており、午前7時から午後7時までの正時になると、武士の人形が太鼓を打ち鳴らして時を告げます。

旧二の門入口

唐津城 二の丸堀

唐津城 二の丸堀

旧二の門の入口は、現在は交差点になっています。門そのものは残っていませんが、そこからは川のように幅の広い堀と、二の丸の石垣を眺めることができました。

 

二の丸屋敷跡

唐津城 二の丸屋敷跡

唐津城 二の丸屋敷跡

二の丸屋敷跡は、現在、早稲田佐賀中学校・高等学校の敷地となっています。
正直なところ「なぜここに早稲田が?」と疑問に思いました。調べてみると、創立者の大隈重信が佐賀出身なことや、第2代総長が唐津出身であったことなど、さまざまな背景が重なっていたようです。

 

本丸登城口

唐津城 本丸登城口

唐津城の本丸は、もともと満島山に築かれたこともあり、石段を登って向かう必要があります。

総締門跡

唐津城 総締門跡

唐津城 総締門跡

石段を左へ大きく曲がると、さらにクランク状の石段が続いています。かつては、この途中に「総締門」が設けられていました。この辺りには、敵の侵入を阻むための堅固な石垣が今も良好に残されています。

本丸中段

唐津城 本丸中段

唐津城の本丸は、上段と中段が石垣によって仕切られており、石段を登り切るとまずは中段へと出ます。

天守台石垣

唐津城 天守台石垣

唐津城の石垣は、長い年月を経てはらみや緩みが生じていたため、2008年(平成20年)から大規模な修復工事が行われました。現在は天守台の石垣も積み直され、見事な姿を取り戻しています。

また、修復工事の際に天守台の下から、現在よりも古い時代の石垣が発見されました。旧石垣の盛土からは、豊臣秀吉とも縁の深い金箔瓦も出土しており、唐津城が通説よりも早い時期に築城された可能性を示唆しています。

 

櫓門

唐津城 櫓門

櫓門をくぐり、いよいよ本丸上段へと向かいます。この辺りの石垣もきれいに修復されていますね。

 

天守

唐津城 天守

唐津城は築城当時、天守を持たない城であったとされています。現在見える天守は、1966年(昭和41)年に、文化観光施設として建てられた模擬天守です。

模擬天守のモデルとなったのは、肥前名護屋城だと語られています。個人的には、天守や続櫓の織りなす雰囲気が、どことなく会津若松城にも似ているような気がしました。

 

東唐津

天守最上階からの眺めは最高です(風は少し強いですが!)。
唐津城の東側、舞鶴橋が架かる対岸のエリアが東唐津です。江戸時代には「満島(みつしま)」と呼ばれ、唐津藩の港として栄えていました。

 

本丸・二の丸の北東部

本丸や二の丸の東北部を歩くと、唐津城が「海城」であることを改めて実感させてくれます。

 

唐津城

唐津城

唐津城

東唐津との間に架かる舞鶴橋から眺めた唐津城です。波打ち際に築かれた石垣は、海からの侵入を阻むための堅固な守りを形成しています。

 

本丸腰曲輪櫓

唐津城 本丸腰曲輪櫓

本丸の北側一段下には腰曲輪が配され、海沿いには堅固な石垣が巡らされています。

本丸腰曲輪

唐津城 本丸腰曲輪

現在、本丸の腰曲輪にはぐるりと遊歩道が整備されており、海に沿って散策を楽しむことができます。

 

本丸腰曲輪遊歩道

唐津城 本丸腰曲輪石垣

唐津城 本丸腰曲輪櫓台

唐津城 本丸腰曲輪石垣

荒々しい波打ち際に築かれた石垣は、かつて海側から迫る敵の攻撃に備えて設けられたものでした。

 

本丸腰曲輪石垣

唐津城 本丸腰曲輪石垣

唐津城 本丸腰曲輪石垣

本丸腰曲輪の石垣には「折れ」が多用されており、防御力とともに構造的な強度も高められています。その佇まいからは、かつて島であった指月山に築かれた、毛利家の萩城との相似点を感じずにはいられません。

 

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二の丸北石垣

唐津城 二の丸北石垣

唐津城 二の丸北石垣

二の丸の北側には、約300メートルにわたって石垣が直線に続いています。かつては海からの敵を防ぐ堅固な城壁でしたが、現在は散歩道として整備されています。見落としやすいので、城好きな方はぜひどうぞ。

 

感想

当時の遺構が色濃く残る、見応えのある名城でした。実は私自身、模擬天守はそれほど好みではないのですが、唐津城の天守は青空に実によく映えていました。訪れる際は、ぜひ本丸の腰曲輪や二の丸北側の遊歩道も歩いてみてください。

肥前名護屋城(佐賀県唐津市) 秀吉の野望を物語る名護屋城

豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた、肥前名護屋城。秀吉没後に廃城となりましたが、その広大な遺構は、今もなお彼の壮大な野望を物語っています。

日本100名城

2024年12月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

秀吉の朝鮮出兵拠点:名護屋城と巨大軍事都市の誕生

1591年(天正19年)、豊臣秀吉は朝鮮出兵にあたり、朝鮮半島に近く、壱岐・対馬を経由して渡海しやすい名護屋の地に大城郭を築きました。城の周囲には全国の大名たちの陣屋が立ち並び、名護屋浦を臨む半島一帯は巨大な軍事都市の様相を呈しました。

 

秀吉の死去と名護屋城の終焉

1598年(慶長3年)8月に秀吉が死去すると、朝鮮半島へ出兵していた日本軍は撤退を開始しました。これに伴い、出兵拠点であった名護屋城もその役割を終え、廃城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★

JR唐津駅から「大手口バスセンター」へは徒歩10分。そこからバスに乗り換え、54分ほどで「名護屋城博物館入口」に到着します。また、「西唐津駅前」からバスを利用する場合は、所要時間49分です。

 

 

縄張図

名護屋城は、玄界灘に突き出た波戸岬の付け根に築かれました。本丸の北西部には5重の天守がそびえ、その北西に二の丸と弾正丸、南東には三の丸が配置されました。

現在、石垣には人為的に破却された跡が残ります。これは、朝鮮との国交回復に向けた外交的アピールであったとする説や、島原の乱を経て、一揆勢による再利用を防ぐための措置であったとする説などが唱えられています。

 

城歩き

大手口から本丸へ

まずは大手口から入り、東出丸と三の丸を経由して本丸へ向かいました。これは名護屋城を訪れる観光客のほとんどが通る鉄板ルートです。

 

大手口

名護屋城 大手口

登城早々、目の前に現れた壮大な石垣に圧倒されました。一時的な拠点である「陣城」でありながら、これほどの規模で築城してしまうあたりに、豊臣秀吉の権力の大きさを感じます。

 

大手道

名護屋城 大手道

三の丸の石垣に沿って、真っ直ぐに伸びる大手道。緩やかな坂道となっており、一歩進むごとに城の大きさを実感させてくれます。

 

破壊された石垣

名護屋城 大手口石垣

名護屋城 大手道石垣

大手口付近の石垣は隅部が徹底的に壊されており、登城道沿いの石垣も上部が失われていました。石垣が完全な形で残っていないのは残念ですが、これこそが「破却」の生々しい証拠だと思うと、興味深く感じられました。

 

東出丸

名護屋城 東出丸

名護屋城 東出丸

名護屋城 東出丸櫓台

三の丸の東側には、東出丸が設けられていました。かつては防衛の要であった場所ですが、現在は一面に芝生が張られていました。

 

三の丸入口

名護屋城 三の丸入口

三の丸東入口には、櫓門が設けられていました。ここの石垣もしっかり崩されていました。

 

三の丸

名護屋城 三の丸

名護屋城 三の丸井戸

三の丸は本丸の東側に位置しており、規模は東西75メートル、南北110メートルに及びます。また、中央部には井戸が設けられていました。

 

本丸大手口

名護屋城 本丸大手口

名護屋城 本丸大手口

本丸大手口は虎口を形成しており、L字状に折れ曲がる石段が敷設されていました。

 

本丸

名護屋城 本丸

名護屋城 本丸

本丸に到着しました。中心部には、「名護屋城址」と刻まれた石碑が立っています。

 

本丸の縄張り

本丸の規模は東西100メートル、南北120メートルに及び、北西隅には天守が築かれていました。現在は遺構の整備が進み、穏やかな芝生広場となっています。

天守台

名護屋城 天守台

名護屋城 天守台

かつて名護屋城には、5層7階建ての天守が築かれていました。その豪壮な天守も、江戸時代に入ってまもなく破却され、天守台の石垣までもが崩されました。

 

天守台からの眺め

天守台からは玄界灘に浮かぶ加唐島や松島を一望でき、遠くには壱岐の島影をうっすらと望めます。朝鮮出兵の際には、この海を埋め尽くすように軍船が出帆していったことでしょう。

 

崩された本丸石垣

名護屋城 本丸石垣

名護屋城 本丸石垣

天守台だけではなく、本丸の石垣もしっかり崩されていました。

 

多門櫓跡

名護屋城 本丸多門櫓跡

本丸の西側には、かつて多聞櫓が建てられていました。注目すべきは、当初の石垣を埋め込む形で本丸が拡張されていることです。同様の拡張は南側でも行われていました。
名護屋城は九州の諸大名による突貫工事で築かれたため、工事の過程で修正を迫られたのかもしれません。

 

本丸旧石垣

名護屋城 本丸旧石垣

本丸の南側では、地面を一部掘り下げて、拡張される前の旧石垣を露出展示しています。

 

三の丸から二の丸方面へ

三の丸から馬場経由で二の丸方面へと向かいました。


三の丸南東隅櫓台

名護屋城 三の丸南東隅櫓台

三の丸の南東隅には、櫓台が残っています。ここには登り口となる石段が2箇所ありますが、これは築城の途中で設計変更が行われた名残だと考えられています。

 

三の丸櫓台

名護屋城 三の丸櫓台

名護屋城 三の丸櫓台

三の丸から馬場へと続く出口には、城内最大の規模を誇る櫓台が残っています。この櫓台と本丸の石垣の間に、当時は門が構えられていました。

馬場

名護屋城 馬場

本丸の南側には、二の丸から三の丸へと続く約100メートルの通路が設けられていました。当時は乗馬訓練を行う「馬場」として機能していたと伝えられています。

 

馬場櫓台

名護屋城 馬場櫓台

名護屋城 馬場櫓台石段

馬場の途中には、通路側へ張り出すように櫓台が築かれています。東西2箇所に石段が設けられており、隣接する本丸石垣との間には、かつて門が構えられていたと考えられています。

 

弾正丸石垣

名護屋城 弾正丸石垣

馬場の櫓台上からは、西側に位置する弾正丸を一望できます。岩盤の上に築かれた高石垣には、思わず圧倒されました。

 

二の丸

名護屋城 二の丸

二の丸は、本丸の西側に位置する、東西約80メートル、南北約110メートルの長方形をした曲輪です。現在は一面に芝生が敷き詰められた、広々とした広場になっています。

 

本丸南西隅石垣

名護屋城 本丸南西隅石垣

二の丸から本丸南西隅を見上げると、荒々しい石垣が目に飛び込んできます。この石垣は、江戸時代の破城によって人為的に崩された後、自然崩壊が進んだものです。その崩落した石垣の中からは、寛永通宝が見つかりました。

 

弾正丸

名護屋城 弾正丸

二の丸の南側には、一段高く築かれた曲輪が隣接しています。ここは秀吉の義弟であり、五奉行の筆頭でもあった浅野弾正長政の屋敷が置かれていたことから、「弾正丸」と呼ばれています。

 

馬場下石垣

名護屋城 馬場下石垣

弾正丸から、先ほど歩いた馬場の石垣を眺めました。破壊された石垣のラインが、まるでW字が連続しているかのように見えました。

 

搦手口

名護屋城 搦手口

名護屋城 搦手口

名護屋城 搦手口

一般的に搦手口は裏口にあたるため、多くの城郭では大手口に比べて簡素な造りになりがちです。しかし、名護屋城の搦手口はそれとは対照的に、通路を屈折させた構造を持ち、堅固な石垣によって厳重な防御が固められていました。

この搦手側の鉄壁の守りに加え、隣接する弾正丸や二の丸に屋敷や長屋が立ち並んでいたことを考えると、「こちらこそが実は大手だったのではないか」と考えたくなります。

 

二の丸西側石垣と合坂

名護屋城 二の丸西側石垣

名護屋城 合坂

弾正丸から遊撃丸へと向かう途中、二の丸の西側に沿って長さ110メートルにわたる石垣が築かれています。この石垣には、兵が上下へ素早く移動できるよう、「合坂」と呼ばれるV字型の石段が設けられていました。

 

遊撃丸 南側石垣

名護屋城 遊撃丸南側石垣

二の丸の北側は、遊撃丸の南面石垣と接しています。ここでも打ち壊された石垣のラインが連なり、独特のW字型を描き出しています。
興味深いのは、この遊撃丸も先ほどの弾正丸も、主要な曲輪である二の丸より高い位置に配されていることです。周囲の曲輪の方が高いという縄張りには、どこか不思議な感覚を覚えます。

 

遊撃丸

名護屋城 遊撃丸

名護屋城 遊撃丸

遊撃丸は、二の丸の北側に配された曲輪です。その名は、1593年(文禄2年)に明国の講和使節である遊撃将軍・沈惟敬がここに滞在したことに由来しています。

 

天守台と遊撃丸

名護屋城 本丸天守台

名護屋城 遊撃丸

遊撃丸の入口は一箇所に限られており、周囲は高い石垣によって完全に囲まれています。また、本丸天守台の直下に位置しているため、天守からはその動向を容易に監視できたものと推測されます。

 

感想

破却された城だと聞いていたので、正直それほど期待はしていませんでした。しかし、いざ訪れてみると、そこには壮大な遺構が広がっていました。徹底して破却された石垣の痕跡が、見る者に栄枯盛衰を語りかけてきます。

イカで有名な呼子も近くにありますので、ぜひセットで訪れてみてください。

津和野城(島根県鹿足郡津和野町) 坂崎直盛による執念の石垣

津和野・霊亀山に築かれた津和野城。「千姫事件」の張本人である坂崎直盛によって山頂に連なるように築かれた石垣群は、見る者を圧倒します。

日本100名城

2024年9月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

吉見氏の築いた中世山城

13世紀末、鎌倉幕府の命令で石見に入った吉見頼行は三本松城を築きました。これが津和野城の始まりです。吉見氏は戦国時代に大内氏の勢力に属していましたが、第11代当主の吉見正頼の時代に毛利氏の家臣となりました。

関ヶ原の合戦で西軍の毛利氏に従った吉見氏は、その結果として石見を離れることとなりました。

 

坂崎直盛の入封と千姫事件

1601年(慶長6年)、関ヶ原の合戦で功を挙げた坂崎直盛が3万石で入封し、津和野藩が成立しました。直盛は、津和野城の大改築や城下町の整備などに力を注ぎ、現在残る石垣はこのとき築かれたものです。

1615年(元和元年)の大坂夏の陣において、直盛は、落城する大坂城から、徳川家康の孫であり豊臣秀頼の妻であった千姫を家康のもとに送り届ける功績をあげました。

しかし、翌1616年(元和2年)、直盛は本多忠刻に嫁ぐことになった千姫を奪取しようと企てた疑いをかけられ、幕府に屋敷を包囲され自害しました。これにより坂崎家は断絶しました。

 

亀井家の統治(明治維新まで)

坂崎家の断絶を受け、1617年(元和3年)に亀井政矩が因幡鹿野から4万3千石で入封しました。以後、明治維新まで11代にわたって亀井家の居城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★

JR山口線の津和野駅から、リフト乗り口まで徒歩30分弱。新山口駅からの本数が少ないのが難点です。

 

 

縄張図

津和野城が築かれた霊亀山は南北に長く伸び、本丸と北出丸(織部丸)が二つの峰を形成していました。この城に天守と石垣を築いたのは坂崎直盛ですが、彼は大手口を西山麓から東山麓へと変更する大改築も行いました。

 

城歩き

観光リフト

城の東側にある観光リフトで、山上へと上りました。津和野城を見学するには、このリフトに乗るか、山道を上るしかありません。

 

中国自然歩道

リフトの降り場は津和野城の北側にあるため、そこから城に向かって緩い坂道を上っていきました。ちょっとしたハイキング気分です。

 

堀切跡

津和野城 堀切跡

途中、尾根筋を断ち切るように掘られた堀切の跡を見ることができました。これは津和野城が中世山城だった名残です。

 

出丸入口

本丸へと続く道の途中に、出丸への分岐がありました。虎口の石垣は最近整備されたようで、新しく感じられました。

 

出丸

津和野城 出丸

津和野城 出丸

津和野城 出丸

山の地形に合わせて曲輪が設けられており、その北端には二重櫓が建てられていました。

 

城下の眺め

遠くから汽笛の音が聞こえたので、城下を見下ろすと、ちょうどSL山口号が入ってくるところでした。

 

出丸から本丸への道

出丸から本丸へと向かう道は、下りになっています。これによって、出丸が高い位置に築かれていることを実感できました。

 

大手道

出丸からの下りが終わり、本丸への上りに切り替わる谷の部分に、城下へ続く大手道がありました。この道は、急な下り坂で草も生い茂っており、かなり厳しい山道に見えました。

 

本丸への道

本丸へと続く道が工事中で通行禁止となっていたため、仮設の道を利用しました。残念ではありますが、これもまた旅の醍醐味でしょう(強がり)。

 

西側曲輪

津和野城 西側曲輪

津和野城 西側曲輪

津和野城 西側曲輪

仮設の道は、西側曲輪に繋がっていました。当時の西側曲輪には、台所が置かれていたそうです。

 

天守台

津和野城 天守台

三の丸の西側から南側へ向かうと、天守台の石垣が目に飛び込んできました。

津和野城の天守は、城下を眺めることができる本丸ではなく、各曲輪に侵入する敵を攻撃可能な城の中心部に建てられました。あくまで実戦にこだわった坂崎直盛の心意気が感じられる縄張りと言えるでしょう。

 

大手虎口

津和野城

現在工事中で通行禁止となっているこの場所が、本来の大手虎口となります。

 

西櫓門跡

津和野城 西櫓門跡

津和野城 西櫓門跡

西門の脇には西門櫓が建てられており、坂崎直盛が改築する前は、こちらが大手側でした。

南側曲輪へ

津和野城

津和野城

西櫓門跡から三の丸へ向かう途中で、素晴らしい石垣の側面を見ることができました。

 

三の丸

津和野城 三の丸

津和野城 三の丸

津和野城 南櫓門跡

三の丸の南端には南門があり、当時はそこから中荒城へと続いていました。現在は、ここから鷲原八幡神社に抜けることができます。

人質櫓台石垣

津和野城 人質櫓台石垣

津和野城 人質櫓台石垣

振り返って本丸方面を眺めると、堂々とした人質櫓台が目に飛び込んできました。これは津和野城で最も見栄えの良い石垣です。

天守台と西側曲輪

津和野城 天守台

津和野城 西側曲輪

この天守台には、かつて三重天守が存在しましたが、1686年(貞享3年)の落雷により焼失しました。

 

三十間台(本丸)への石段

津和野城 三十間台

天守台から、三十間台(本丸)へ直接上れる石段もありましたが、今回は太鼓丸経由で向かいました。

 

太鼓丸への石段

津和野城 太鼓丸への石段

大手口から太鼓丸経由で三十間台に至るこのルートが、津和野城の正式な登城ルートでした。見るからに守りが堅固な造りです。

 

太鼓丸

津和野城 太鼓丸

本丸より一段低い位置にあるこの曲輪は、時報の太鼓が鳴らされていたことから、太鼓丸と呼ばれていました。

 

内鉄門跡

津和野城 内鉄門跡

津和野城 内鉄門跡

本丸への入口には、内鉄門と呼ばれる櫓門が設けられていました。その名の通り、扉や柱に鉄板を張った重厚な造りの門でした。

 

三十間台

津和野城 三十間台

津和野城 三十間台

津和野城で本丸にあたるのが、三十間台と呼ばれる曲輪です。 この三十間台の城下町側である東面には、長さ三十間の多聞櫓が建てられていました。

 

三十間台からの眺め

絶景ですね。津和野という街が川沿いの盆地に広がっていることが、よくわかる絶景でした。

人質櫓台

津和野城 人質櫓台

三十間台から人質櫓台へ降りる石段がないため、当時は直接櫓に入っていたと推測されます。人質も逃げ場がないですね。

 

津和野藩の藩庁は、城山の北東側山麓に置かれていました。現在も、当時の建物が2棟残されています。

 

馬場先櫓

津和野城 馬場先櫓

馬場先櫓の名称は、その南西に馬場があったことに由来します。この櫓は、幕末に描かれた「津和野百景図」でも、津和野藩庁の表門の左側に描かれているのが確認できます。

 

御物見櫓

津和野城 御物見櫓

御物見櫓という名称は、藩主が祇園祭の催しをこの櫓の2階から見ていたことに由来します。もとは津和野高校の正面にありましたが、道路整備に伴い現在の位置へ移築されました。

 

感想

三十間台からの眺めは格別でした。 また、山頂に築かれた石垣からは、「よくぞここまで」と感嘆する坂崎直盛の執念が強く伝わってきます。津和野といえば城下町が有名ですが、ぜひ一度、山城にも登ってその魅力を体験していただきたいです。

浜田城(島根県浜田市) 第二次長州征伐で戦場になった城

長州藩を抑えるために築かれた浜田城。第二次長州征伐では、大村益次郎率いる長州軍の猛攻に遭い、浜田藩主の手によって焼失しました。

続日本100名城

2024年9月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

毛利氏領地から天領へ

戦国時代の石見国(いわみのくに)は毛利氏の領地でしたが、関ヶ原の合戦後、石見は天領となりました。

古田重治・重恒

元和5年(1619年)、松坂藩から古田重治が5万4千石で浜田に入封し、浜田藩が誕生しました。重治は翌年から浜田城を築城しましたが、これは元和元年(1615年)の一国一城令以降では、数少ない築城例の一つです。

元和9年(1623年)に叔父の重治から家督を譲られた元和9年(1623年)に叔父の重治から家督を譲られた重恒が、第2代藩主となりました。しかし、重恒には跡継ぎがなく、古田騒動と呼ばれるお家騒動が起こり、彼の死後に古田家は断絶しました。

松平(松井)周防守家

慶安2年(1649年)、松平(松井)周防守家の松平康映が宍粟から入封しました。康映が浜田へ転封されたのは、長州藩を監視するという重要な役割を担っていたためです。

宝暦9年(1759年)、第5代藩主・松平康福の古河への転封に伴い、本多忠敞が入封しましたが、10年後の明和6年(1769年)に康福が再び浜田へ戻りました。

第3代藩主・康任の時代、天保7年(1836年)に密貿易が発覚し、第4代藩主・康爵は同年に陸奥棚倉へ転封となりました。

越智松平家と第二次長州征伐

天保7年(1836年)、上野国館林より越智松平家の松平斉厚が6万1000石で入封しました。

第4代藩主・武聰の時代、慶応2年(1866年)7月、第二次長州征伐により大村益次郎率いる長州軍が進攻し、浜田藩と津和野藩の境界付近である石州口で激突しました。この戦闘で幕府軍は大敗を喫し、浜田藩士らは自ら浜田城に火を放ち、藩主以下は浜田藩の飛び地である鶴田へ逃亡しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★

山陰本線のJR浜田駅から、殿町バス停まで約10分。殿町バス停から、浜田城下の浜田護国神社まで徒歩4分。浜田駅から城までのバスはそこそこあるけど、浜田駅までの本数が少ないのが難点です。

 

 

縄張図

浜田が城地として選ばれた大きな理由として、天然の良港を持ち、港町として栄えていたことが挙げられます。浜田城は松原湾を見下ろす亀山に築かれました。

 

浜田城の北側は松原湾に面し、南から西にかけては浜田川が流れ、東側には堀が設けられていました。現在、堀は残っていませんが、丘陵に本丸、二の丸、三の丸の石垣が残っています。

 

城歩き

裏門跡から中ノ門跡を通って、本丸へと向かいました。多くの方は、護国神社を経由して進むルートになるでしょう。

 

裏門跡

浜田城 裏門跡

裏門は浜田城の搦手にあたり、現在は石垣の上に民家が建っています。石垣は裏門の左側のみに築かれ、山裾にあたる右側には塀だけが設けられていました。

 

中ノ門跡への通路

裏門跡から中ノ門跡へは、民家の間の細い通路を通っていきます。案内板などはないため、迷わないように注意が必要です。

 

中ノ門石垣

浜田城 中ノ門石垣

唐突に現れた中ノ門の巨大な石垣。民家からこれほど近い石垣は、延岡城で出くわして以来です。

 

中ノ門跡

浜田城 中ノ門跡

中ノ門は登城口に設けられた櫓門で、浜田城の中で最大の大きさを誇りました。

 

登城道

中ノ門跡からの登城道はきれいに整備されていました。誰もいないのが少し寂しいですが、静かに散策できました。

 

焔硝蔵跡

階段を上った右手には、煙硝蔵があった曲輪へと続く道がありました。煙硝蔵は延焼を防ぐため、曲輪の中央に建てられ、そのほかには建物がありませんでした。

第二次長州征伐の際、浜田藩はこの煙硝蔵に火を放って撤退しました。

 

井戸

曲輪の下には、井戸がありました。

 

濱田護國神社

登城道に戻った左手には、濱田護國神社の本殿がありました。

 

浜田城復元図

護國神社正面左手からの浜田城復元図。浜田市は浜田城の姿をCGで復元しており、youtubeで公開しています。

 

旧浜田県庁表門

旧浜田県庁表門

旧浜田県庁表門

階段の登り口には、旧浜田県庁の表門が建っています。元々この場所に門はありませんでしたが、この門は1967年(昭和42年)に旧浜田県庁から移築されたものです。

 

登城道

浜田城

浜田城

浜田城

登城道は、右に曲がった後、大きく左に曲がっています。二の丸の守備兵が敵を攻撃できるようになっていました。

 

出丸への階段

浜田城 出丸入口

浜田城

 

出丸の石垣のイメージ

階段を真っ直ぐ進むと、二の門を通らずに本丸へ向かうことができます。この階段は出丸の石垣を撤去して、明治時代に整備されました。

 

出丸

浜田城 出丸

浜田城 出丸

本丸の西側には、出丸が配置されていました。出丸の奥には出丸木戸があり、そこから本丸の周囲を巡る道へ出ることができました。

 

二の門跡

浜田城 二の門跡

浜田城 二の門跡

浜田城 二の門跡

二の門は櫓門造りで、この門をくぐると方形の枡形がありました。江戸時代の城によく見られる、表門が高麗門、奥門が櫓門という枡形とは異なり、少し珍しい形式でした。

 

一の門跡

浜田城 一の門跡

本丸の入口には、一の門が設けられていました。

 

本丸

浜田城 本丸

現在の本丸に建物は残っておらず、原っぱのような状態でした。中央には何かの台座が残っていましたが、近世のものと思われます。

 

三重櫓跡

浜田城 三重櫓跡

浜田城 三重櫓復元図

本丸の北西隅には、天守代わりの三重櫓が建っていました。浜田藩主が自ら城を焼いた際も、三重櫓は残っていたようですが、その後撤去されました。

 

松原湾

松浦湾

本丸の周囲は樹木が生い茂っており、景観はあまり良くないものの、木々の隙間から松浦湾とわずかに外ノ浦を眺めることができました。
江戸時代の外ノ浦は、北前船の風待ち港として大いに賑わいました。この場所は、2018年(平成30年)に日本遺産として追加認定されています。

 

浜田城資料館

浜田城資料館

浜田城の麓には浜田城資料館があります。ここでは、浜田城や外ノ浦に関する展示が行われています。

建物自体も、東宮殿下(後の大正天皇)の山陰行啓の際に、浜田での宿泊施設として建てられたものです。入場は無料ですので、ぜひ立ち寄ってみてください。

感想

近世城郭としてはやや小ぶりですが、苔むした石垣が残る素晴らしい城でした。城内もしっかり整備されており、要所には説明板があるのも良かったです。後は本丸からの眺めが改善されれば、もっと人気が出るでしょうね。

 

萩城(山口県萩市) 毛利家36万9千石の居城

関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が築いた萩城。現在は堀と石垣が残るのみですが、山麓に平城、山頂に詰城、三方を海に囲まれた複合的な城でした。

日本100名城

2024年9月登城

満足度:★★★★★

 

 

歴史

関ヶ原の合戦で敗北した毛利輝元は、中国地方六ヶ国から防長二ヶ国へと領地を減らされました。輝元は居城の第一候補として「防府」、第二候補として「山口」を挙げましたが、幕府の意向により「萩」に決まります。

そこで新たな居城として築かれたのが萩城です。1604年(慶長9年)に毛利輝元が入城して以降、萩は長州藩の本拠地となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★

山陰本線のJR東萩駅から、萩循環まぁーるバス(西回り)に乗って「萩城跡・指月公園入口・北門屋敷入口」バス停下車。

ただ、実際に萩を観光する場合、萩・明倫センターが拠点となることが多いでしょう。しかし、萩・明倫センターから萩城まではバスがないため、徒歩で30分ほどかかります。

 

 

縄張図

萩城は、指月山の山麓部に本丸、二の丸、三の丸が並べて配置され、山頂には詰城として本丸、二の丸が設けられました。当時、指月山は干潮時にしか歩いて渡れない島でしたが、そのデルタ地帯を埋め立てて萩城は築かれたのです。

 

 

城歩き

二の丸と本丸

二の丸南門跡

萩城 二の丸南門跡

萩城 二の丸南門跡

南門跡から二の丸へ入城しました。現在、堀は埋められているようですね。内部は枡形になっており、当時は奥に立派な櫓門が建てられていました。

 

毛利輝元公像

枡形内には、毛利輝元公像が建てられています。毛利輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めましたが、敗北により毛利家が萩へ移る原因を作りました。

 

南門跡

萩城 南門跡

南門は、本丸へ続く最も重要な門で、枡形の外門と城内最大の櫓門で構成されていました。現在は、その枡形内に料金所が設けられています。

天守台

萩城 天守台

本丸内へ入城する前に、まず目に入るのは南西隅にある天守台です。かつては五重の天守が建っていましたが、明治維新後に破却されました。ちなみに、この萩城天守をモデルとして、大分の中津城の復興天守が建てられています。

 

本丸内

萩城 本丸内

南門枡形を通って本丸に入ると、正面に志都岐山(しづきやま)神社の鳥居が見えます。本丸内に案内図が見当たらなかったので、ひとまず天守台へ向かいました。

雁木

萩城 雁木

本丸南には、石垣の上に登るための雁木(がんぎ)が残っていました。

 

天守台

萩城 天守台

萩城 天守台

萩城 天守台

天守台の上には、天守の礎石が残っていました。萩城天守は、明治の廃城令の際に率先して取り壊されました。

 

天守台からの眺め

建物が残っていないのは残念ですが、堀と石垣がしっかり残っているのが印象的でした。

 

詰丸

指月山

指月山

元は陸繋島だった指月山。ここには萩城の詰丸が置かれていました。平時は海上を監視する拠点として、戦時は最後の砦として、重要な役割を担っていました。

 

登山口

城内の奥(公衆トイレの左手)に、指月山への登山口がひっそりとありました。看板によると、山頂まで730メートルとのことです。

 

登山道

登山道はきれいに整備されていましたが、意外なほど急勾配でした。原生林が茂っているため風通しが悪く、残暑の暑さも相まって、汗が止まりませんでした。最近では9月でも35度近い日も珍しくなくなりましたね。

 

案内板

道中には、残り距離が書かれた立て看板もありました。

 

詰丸入口

萩城 詰丸入口

途中で休憩を挟みながらも、ようやく詰丸の入口に到着しました。所要時間は25分弱でした。

 

詰丸枡形

萩城 詰丸枡形

萩城 詰丸枡形

詰丸入口は枡形になっており、当時は櫓門が設けられていました。それにしても、土塀への落書きは残念な気持ちになりますね。

 

詰丸縄張図

さすがは毛利家ですね。詰丸といえど、本丸と二の丸で構成されており、7基もの櫓(櫓門を含む)が建てられていました。

 

詰丸二の丸

萩城 詰丸二の丸

詰丸の二の丸には、番所と宿所が建てられていました。

 

用水槽跡

飲料水確保のための用水槽跡を見ることができました。詰丸の本気度が伺えます。

 

矢穴の残った石

矢穴が残された石が転がっていました。萩城の石垣には、指月山から産出される石材が利用されたのです。

 

詰丸本丸

萩城 詰丸

萩城 詰丸

一段高い本丸には、藩主が登山した際に利用した茶屋が建てられていました。

 

矢穴の残った巨石

萩城 詰丸

萩城 詰丸

本丸には矢穴が残る巨石がいくつもあり、圧倒されました。

 

埋門跡

萩城 詰丸埋門跡

本丸の東側には、いざというときの逃げ道である埋門跡を見ることができました。

 

山頂からの眺め

木々の隙間から、菊ヶ浜を一望することができました。

海岸沿いの石垣

萩城の東側には、菊ヶ浜側からの攻撃に備えるため、海沿いに石垣が築かれていました。

 

潮入門跡

萩城 潮入門跡

萩城 潮入門跡

潮入門は、城内から海岸へ出るための門でした。現在は砂浜に続いていますが、当時は船着場があったのかもしれません。

 

石垣と土塀

萩城

潮入門跡から南へは、弧を描くように石垣と土塀が伸びています。石垣好きにとって、萩城の隠れ絶景スポットです。

 

海岸沿いの石垣

萩城

潮入門跡から北には、海岸沿いに石垣が伸びています。石垣の下には大きな石がごろごろと転がっており、かつては南側も同じような光景だったのかもしれません。

 

荒川櫓台

萩城 荒川矢倉跡

足元に注意しながら北へ進むと、石垣から突き出した荒川櫓台にたどり着きました。この先には、満願寺櫓台や三摩地院櫓台もありますが、足元の状態が悪いので、これ以上進むのを断念しました。

 

感想

毛利家36.9万石の居城だけあって、とても広大な城でした。天守台はもちろんのこと、詰城や海岸沿いの石垣も見応えがありました。

ただ、これほど素晴らしい城であることは間違いないのですが、城内マップや案内板がないため、普通に観光すると見逃してしまう場所も多そうです。

萩市は城下町の整備に力を入れていますが、萩城も同じように整備されれば、さらに人気が高まるでしょう。