石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

糸数城(沖縄県南城市) 2022年10月 登城

南部地区で一番の城壁が残っている糸数城。万里の長城のようで迫力満点です。城内も広く、見どころいっぱいのグスクでした。

満足度:★★★★★ 

 

歴史

築城の年代は不明ながら、三山鼎立時代に玉城城にいた玉城按司が三男を糸数按司に任じて築かせたと伝えられています。また伝承によると、糸数按司の配下には猛将・比嘉ウチョウがいたが、彼がグスク増築のための部材を買いに城を離れている隙に、敵対する上間按司に急襲されて落城したといいます。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

那覇からのバスは2通りあります。糸数アブチラガマから南に向かうとすぐにある、左の別れ道を進んだ先にあります。

那覇バスターミナルから、「51番 百名線」に40分弱乗車し「糸数入口」下車。バス停から徒歩20分弱。

那覇バスターミナルから、「40番 大里線/309番 大里結の街線」に45分乗車し「世利田」下車。バス停から徒歩16分。

私は玉城城からグスクロードを歩いて向かいました。

 

 

途上の道

グスクロード

玉城城からグスクロードを西に進みます。途中のグスクロード公園(なんじー公園)に自販機やトイレがありました。

 

糸数城への道

25分ほど歩くと右側に駐車場があり、左側に脇道がありました。案内板等は無く、この先に城があるのか不安になってきます。

 

蔵屋敷

道の左側に広がる蔵屋敷跡。糸数城の東には蔵屋敷が広がっていましたが、明治時代に天然痘が流行した際、現在の城跡西に移転しました。石積みが残っているようですが、草ぼうぼうでよく分かりませんね。

 

佐南グムイ

道の右側には、佐南グムイという標柱が立っています。かつてここには溜池があっりました。奥に見える建物は、気象レーダー観測所です。

 

糸数配水池

配水池が見えれば、城跡はもうすぐ。配水池があるということは、この場所が高所にある証拠ですね。

 

根石グスク

配水池の近くには根石グスクの標柱がありました。糸数城が建てられる前は、根石グスクがこの地の中心でした。

 

城壁

糸数城

今まで城らしき遺構は何もありませんでしたが、道の先に城壁が垣間見えます。

 

北のアザナ

糸数城 北のアザナ

北のアザナ(物見台)に出ました。何もない草原を歩き、唐突に現れた城壁の迫力に驚きました。本当に感動しました。

 

城歩き

北のアザナ

糸数城 北のアザナ

北のアザナ(物見台)のこの迫力。北東部にあるこのアザナは崖の上に築かれており、城内で一番の高所にあります。

 

東側城壁

糸数城 城壁

糸数城は丘陵に築かれていますが、玉城城方面には高低差がありません。その弱点を補うため、東側に高い城壁を築いています。

正門

糸数城 正門

城壁の中頃に正門が設けられていました。東側からの入口はここだけです。城内に入る前に南側の城壁の先を見てみます。

 

南のアザナ

糸数城 南のアザナ

城壁の南側にはアザナが連続して設けられています。手前が訳ありのアザナ、奥が南のアザナです。

 

正門寄りのアザナ

糸数城

正門寄りのアザナは、当初は城の正門でした。元は甕城(おうじょう)と呼ばれる方形の小堡であり、後にアザナへ改築されています。また、城壁が2段になっており、下段の犬走り状の石垣は根元が崩れるのを防ぐために積まれています。

 

南のアザナ

糸数城 南のアザナ

アザナとは物見台のことですが、中国の「馬面(ばめん)」、朝鮮半島の「雉(ち)」によく似ており、この城のルーツが垣間見えます。

 

正門

糸数城 正門

再び正門に戻ってきました。正門部分のみ切石が積まれており、明らかに後から築かれています。

城壁(南側)

糸数城

南のアザナや旧正門跡を内からも見たかったのですが、正門を入って左側(南側)は立入禁止になっていました。昔はアザナにも登れたらしいのですが残念。

城壁(北側)

糸数城

糸数城

正門を入って右側(北側)には、北のアザナへの城壁が延々と続いています。実は北のアザナ部分は後から増築されており、この城壁もその時に築かれました。

 

糸数按司の墓

糸数城

糸数城

林の中の道を進むと、糸数按司の墓に出ました。ちなみにこの墓は当時のものではなく、1966年(昭和41年)に建てられています。

城内(北東側)

糸数城

糸数城

林を抜けると平場が広がっており、北東側に城壁が築かれています。ただ、城壁の中央部分は崩されており、車道が造られていました。糸数城に来られる方の大半が、ここから入城することになります。

 

北のアザナ

糸数城 北のアザナ

糸数城 北のアザナ

城壁の外側から見上げる北のアザナは迫力満点。北のアザナは後から増築されていますが、北側の防御を考えると必然だと思います。猛将・比嘉ウチョウが石材調達のため国頭に赴いたとの伝承がありますが、この北のアザナ部分の増築のことを指しているのかもしれません。

 

糸数城の碑

城内には糸数城の碑が建てられていました。次は城内の南側に行ってみます。

 

糸数城之嶽

糸数城 糸数城之嶽

城内には石灯籠付きの御嶽がありました。他にも御嶽らしき跡があり、廃城後も聖域とされてきたことが分かります。

 

謎の穴

プレハブ小屋の後ろに石積みがあったので、恐る恐る入ってみたところ謎の穴がありました。井戸?抜け穴?

 

城跡からの眺め

南端から海が眺められます。こうやって見ると、糸数城が高地に築かれていることが実感できます。

 

感想

何と言っても、中国の城のような城壁が素晴らしかったです。特にアザナは迫力満点で、上れないのが残念でした。日本100名城には選ばれていませんが、隠れた名城だと思います。

玉城城(沖縄県南城市) 2022年10月 登城

玉城村(現南城市)の小高い丘にある玉城城。何と言っても岩をくり抜いて造られた太陽の門が写真映えします。城からの眺めも素晴らしかったです。

満足度:★★★ 

 

歴史

築城の年代や城主は不明ながら、琉球開闢(かいびゃく)の神「アマミキヨ」が築いたとの伝承が残っており、英祖王統の第4代目・玉城王が居城したとも伝えられています。

琉球王国時代には、国王の命を受けた役人が国家安康と五穀豊穣のため毎年祈願しており、国王も参詣したと伝えられています。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

最寄りのバス停は「玉城」または「喜良原」になり、いずれもバス停から25分ほど歩く必要があります。

那覇バスターミナルから、「50番51番 百名線」に55分乗車し「玉城」下車。バス停から徒歩20分。

那覇バスターミナルから、「40番 大里線/309番 大里結の街線」に45分乗車し「喜良原」下車。バス停から徒歩26分。

私は知念城からのはしごだったので、「知念」バス停からNバス 「A1 知念・佐敷一周線(右回り)」に乗車し、「仲村渠」で下車。グスクロードを17分ほど歩きました。

 

 

城への道

仲村渠(なかんだかり)バス停

知念城から向かうので、最寄りのバス停は仲村渠(なかんだかり)になります。沖縄には仲村渠という苗字の方がいらっしゃいますが、多くは中村に変わっている方も多いのだとか。

 

坂道

バス停から200メートルほど坂道を上ります。路の左側に「ミントングスク」がありましたが、城というより御嶽らしく、民家の私有地内にあるのでスルーしました。

 

グスクロード入口

南城市には城が点在しており、東の垣花城から西の糸数城を結ぶ約4キロの道路をグスクロードと呼んでいます。

 

グスクロード

グスクロードって城好きなら憧れるじゃないですか。でも特に何も無く、こんな道が延々と続きます。現実は厳しい。

 

玉城青少年の家

玉城青少年の家までくれば、玉城城はもうすぐ。先の山上に城壁を望むことができます。

 

玉城城

やっと到着しました。休憩所やトイレはありませんが、城の入口近くに駐車場があり、ちらほら人を見かけました。

 

城歩き

縄張り図

玉城城は、山頂の主郭、斜面にある二の曲輪、麓の三の曲輪で構成されています。現在は主郭にのみ城壁が残り、二の曲輪と三の曲輪の城壁は米軍基地建設の骨材用に持ち去られてしまったとのことです。残念。

 

主郭方面

玉城城

岩をくり抜いた太陽の門がはっきり見えますね。主郭が丘に築かれているのがよく分かります。

 

三の曲輪

玉城城 三の曲輪

一見するとただの広場ですね。現在は入口近くが駐車場になっています。

 

通路

玉城城

玉城城

奥に設けられた仮通路を進むと、主郭への登り口に着きました。当時はここから石畳を上っていましたが、滑りやすく危険なのと、遺構保護のため、近年木製の階段が設けられています。勝連城と同じですね。

拝所

拝所

階段を上っている途中に配所がありました。

主郭の城壁

玉城城

見上げると城壁がそびえたっています。石積みや石自体がきれいすぎる気もしますので、近年修復されたのかもしれません。登り口に面する東側には立派な城壁を築いていますが、その他は急斜面に囲まれていますので、低い石垣のみ築かれています。

 

階段

木で造られた階段は大きく左に旋回しており、その先には・・・

 

太陽の門

玉城城 太陽の門

玉城城といえば、岩をくり抜いて造られた太陽の門。防御力という点では最高レベルでしょう。夏の夏至には城内から朝日が昇るところを見ることができます。


階段からの遠景

階段の途中が踊り場になっていて、ここからの眺めが最高です。遠くの海、自分が歩いてきたグスクロード、芝のきれいなゴルフ場。主郭は木が茂っているため。実はここからの眺めの方が良いんですよ。

二の曲輪

玉城城 二の曲輪

主郭からの斜面が二の曲輪であり、城壁のような石がわずかに残っています。ただ、平常時にここで暮らせるようには思えません。


天つぎあまつぎの御嶽

天つぎあまつぎの御嶽

門を潜った正面にあるのは、「琉球国由来記」に記載された「アガル御イベ、ツレル御イベ」を祀った「天つぎあまつぎの御嶽」です。

 

基壇

玉城城 基壇

天つぎあまつぎの御嶽の右側には、石積みの基壇が残っています。当時は主殿が建てられていたのでしょうね。

 

城壁

玉城城 城壁

玉城城 城壁

城壁は野面積みですね。積まれた石も小振りです。

 

主郭内

主郭内は然程広くなく、平地が少なかったです。普段は祭祀場で、籠城時のみ使用といったところでしょうか。

 

城歩き

玉城城の見どころは何と言っても太陽の門。青空をバックに映えていました。主郭には御嶽もあって、厳かな雰囲気も感じられました。

知念城(沖縄県南城市) 2022年10月 登城

知念城は沖縄南部にあるグスクで、古城(こーぐすく)と新城(みーぐすく)で構成されています。新城の正門がアーチ門になっており、小規模ながらも沖縄の城らしさを楽しめました。

満足度:★★★★ 

 

歴史

城の始まりについては不明ですが、知念按司代々の居城だったと伝えられています。

城は古城と新城で構成されており、古城の方は、沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に「ちゑねんもりぐすく」と謡われました。新城の方は、第二尚氏3代目尚真王の異母兄弟である内間大親が15世紀後半から16世紀前半に築いたと伝えられています。

城内には神殿が建てられ、近世には番所として行政の中心となりましたが、集落が丘陵下に移ったため、1903年明治36年)に廃城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

最寄りのバス停は「知念」になります。Googleマップで「知念城」を検索すると、最寄りのバス停に「久美山」が表示されますので注意ください。

那覇からのバスのルートは何種類かありますが、いずれも南城市内線バス(Nバス)に乗り換える必要があり、約80分かかります。

  • 那覇バスターミナルから、「338番 斎場御嶽線」または「37番 那覇新開線」に乗車し「馬天」下車。Nバス 「A1 知念・佐敷一周線(右回り)」に乗り換え「知念」下車。バス停から徒歩12分。
  • 那覇バスターミナルから、「309番 大里~結の街線」に乗車し「下親慶原」下車。Nバス 「A2 知念・佐敷一周線(左回り)」に乗り換え「知念」下車。バス停から徒歩12分。

 

 

城への道

知念バス停

知念バス停からスタートです。久美山から知念大川(ちねんうっかー)経由で目指すルートもありますが、途中から山道になるので止めときました。

 

ウフミチガー

ウフミチガー

バス停近くの坂道を上っていきますが、道沿いにウフミチガー(井泉)がありました。昔の生活用水ですね。

 

知念のシーサー

知念のシーサー

かなり風化しているシーサーですが、集落入口に置かれており、魔除けやサンゲーシ(山返し)の役目を果たしています。

 

養鶏所?

途中の養鶏所では、餌をもらえると思った鶏が次から次に集まってきて、申し訳なかったです。

 

駐車場と知念城入口

ヒイヒイ坂を上っていると、途中に駐車場と知念城への入口がありました。集落から見ると丘陵にありますが、知念城自体は中腹にあるようです。

 

城への下り道

一転して坂を下っていきます。道上に葉が落ちているので、転倒には注意。

 

知念城入口

100メートルほど進むと、奥に城が見えてきました。私の他に人はおらず、静かな雰囲気。

 

ノロ屋敷跡

ノロ屋敷跡

ノロ屋敷跡

城の手前にはノロ屋敷跡がありました。今はただ石組みを残すのみ。

 

城歩き

正門

知念城

いきなり出迎えてくれるのは、新城の正門と石垣です。左の木々の茂っている場所が古城とのことですが、ただの森にしか見えません。

 

城壁

知念城 城壁

正門から西に向かって城壁が伸びています。

 

裏門

知念城 裏門

城壁の途中にもアーチ門がありました。正門から30メートルほど離れています。

城壁の切れ目

知念城 城壁切れ目

裏門の先には城壁の切れ目があり、城内への道路が通っています。いや逆だ、道路を通すために城壁を崩したんですね。もったいない。

正門

知念城 正門

改めて正門に戻ってきました。琉球の城でアーチ門を初めて導入したのは座喜味城と言われていますので、この石垣は新しいものですね。また、かなり崩落していた箇所があり、近年積み直されました。

 

正門とヒンプン(目隠し壁)

門を潜った先には城壁があり、これは虎口かと思いましたが、城内を見通せなくするためのヒンプン(目隠し壁)ですね。防御というより、魔除けの意味合いが強そうです。

 

裏門の裏

知念城

裏門にもヒンプン(目隠し壁)が築かれていました。

 

焚字炉

知念城 焚字炉

裏門近くにあった焚字炉。特に説明文はありませんが、不要になった紙を焼くための炉のことです。今で言うところの焼却炉か。

 

ヒヌカン(火の神様)

こんなところに掘立小屋なんか建ててと思ったら、ヒヌカン(火の神様)が祀られていました。早合点してすみません。

曲輪内

新城(ミーグスク)は南北40メートル、東西50メートルの単郭で、奥の方が一段高くなっています。曲輪内には草がぼうぼう生えていて、ズボンの裾にくっついて参りました。

 

御嶽?

御嶽らしき遺構もありますが、正直良くわかりません。

 

西側城壁と友利御嶽

知念城

曲輪の西側は崖になっていて、背は低いですが石垣が築かれています。南西隅に友利御嶽 (トモリウタキ) があるはずですが、草ぼうぼうでよく分かりませんでした。残念。

 

南側城壁

曲輪の南側にも城壁が築かれており、海を望むことができます。沖縄の城は海に臨む丘陵に築かれることが多いのですが、船を監視する意味合いもあったかもしれません。

 

古城(こーぐすく)

正門横の小山が古城(こーぐすく)とのこと。奥に石積みが見えますが、立ち入れるような雰囲気ではありません。斜面も急で、知念按司が日常生活を送れるようには見えず、詰城だったのかもしれません。

 

感想

やはりアーチ門はいいですね。他には観光客がおらず、静かな古城を堪能できました。願わくは、もう少し草が刈ってあれば助かります。裾のくっつき虫を取るのが大変でした。

高島城(長野県下諏訪市) 2022年8月 登城

「諏訪の浮城」とも呼ばれた高島城。現在は内陸部にありますが、諏訪湖畔に築かれた水城でした。杮葺(こけらぶき)の渋い天守が特徴です。

日本100名城

満足度:★★★

 

歴史

1582年に諏訪の領主になった諏訪頼忠は金子城を築き、1590年に武蔵国へ転封するまでの拠点としました。後に高島城が築かれたときに金子城の石材が再利用されたと伝えられています。

豊臣秀吉の家臣の日根野高吉は小田原攻めの功績により、1590年に信濃高島に入封しました。高吉は金子城を廃し、新たに諏訪湖畔に城を築きました。こうして1598年に完成した城が高島城です。

1600年に高吉が死去し、子の吉明が跡を継ぎますが翌年下野国へ転封となり、諏訪頼水が旧領復帰を果たして戻ってきました。以降、諏訪家が10代続き、明治維新を迎えました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR新宿駅から特急あずさに70分乗車し、上諏訪駅下車。上諏訪駅から徒歩15分。上諏訪駅のホームには足湯があって、電車の待ち時間に楽しむことが出来ます。

 

縄張図

高島城は諏訪湖の湖畔に築かれ、北から順に、三の丸、二の丸、本丸が置かれていました。ただ、城の南北で高低差があるわけでもなく、横から直接本丸を攻められたらどうするんだろって、思ってしまう縄張りです。

諏訪家からしたら、9年振りに領地へ戻ってみれば、自分の居城は無くなっていて、全く知らない城があったという悲劇ですよね。

 

城歩き

上諏訪駅から南に向かって、高島城本丸を目指して歩きます。二の丸、三の丸の遺構はほとんど残っていませんが、当時の名残を見つけることが出来ました。

 

並木通り

当時は水田と蓮池の間に大手へ向かう一本道がありました。現在、水田と蓮池は陸地になっていますが、当時の道は並木通りとして残っており、直角に近いカーブが2ヶ所ありますね。

 

三の丸跡

衣之渡川を渡ると三の丸に入ります。城の遺構は残っていませんが、信州一味噌の本社があり、丸高蔵がありました。豆知識ですが、清酒「真澄」で有名な宮坂醸造が始めた味噌事業が、現在の信州一味噌なんですね。

 

二の丸入口

丸高蔵からの道を真っ直ぐ南に進み、中門川を渡ると二の丸に入ります。橋の手前に珍しい遺構がありました。

 

三の丸湯跡

高島城 三の丸湯跡

なんと、かつてここには藩主専用の浴室と汲み湯場が設けられていました。その後、城内居住の藩士も利用可となり、1926年(大正15年)には市民にも開放され、1996年(平成8年)まで営業していたそうです。これは入りたかったな。

 

二の丸南

中門川を渡って真っ直ぐ道を進むと、本丸北の堀に突き当たりました。ちなみに現在の二の丸は普通の住宅街でした。

 

天守

高島城 天守

本丸北西隅に建つ天守。道中に城らしさが皆無だったので、唐突に現れた印象。

 

木橋と北東角櫓

高島城 冠木橋と角櫓

本丸北東には冠木橋と北東角櫓が見えました。本丸には冠木橋を渡って入ります。

 

天守と冠木橋

高島城 天守と冠木橋

高島城で一番撮られるアングルです。天守の東側の堀(湖)は干拓されているので、この角度でしか天守と堀を一緒に写せません。

 

冠木門

高島城 冠木門

冠木門を通って本丸に入ります。櫓門で復元されていますが、当時は楼門あるいは高麗門だったとのことです。

本丸内

本丸内は公園になっており、庭園が造られています。天守に直接向かう前にぐるっと回ってみましょう。

 

御川渡門跡

高島城 御川渡門跡

本丸西にある御川渡門跡。かつては湖に面しており、ここから舟に乗ることが出来ました。現在は三の丸御殿の裏門が移築されています。

 

土戸門跡

高島城 土戸門跡

高島城 土戸門跡

本丸南には土戸門があり、城の勝手口でした。正門である冠木門を通行できる資格のない者は全て土戸門から入城したそうです。

 

三の丸温泉

土戸門跡を出たところには温泉がありましたよ。蛇口をひねるとお湯が出てきました。アチチ。

 

天守

高島城 天守

再び本丸に戻って、北西隅の天守へ上ります。石段を上ると天守入口に着きますが、この石段は天守復興時に造られたようです。当時はどうやって上っていたのやら。

 

天守

天守もあったようですが、かなり改変されているようでよく分かりませんでした。

 

西からの天守

高島城 天守

かつて湖面だった西側から天守を見上げてみました。高島城の天守の特徴は、屋根が瓦ではなく、杮葺(こけらぶき)だったことです。地盤が弱いので重い瓦を使えなかったからとも言われていますが、お金がなかったからだと個人的には思います。

 

天守再建前の天守

天守再建前の昭和に撮られた天守台。天守台だけぽつんと残っていますね。

 

天守からの諏訪湖

天守最上階から諏訪湖を眺めてみました。現在は湖岸から1キロほど離れていますが、当時は城下に湖面が広がっていました。確かに真っ平らでした。この湖を干拓した人間の力ってすごいですね。

 

感想

水城としての遺構はほとんど残っていませんが、天守台の石垣が見事でした。城内に温泉を引き込むなんて、住みやすそうな城ですね。三の丸に平成8年まで残っていた温泉銭湯に入りたかったな。それだけが残念です。

松本城(長野県松本市) 2022年8月 登城

漆黒の5重天守が残る松本城。現存する日本最古の天守とも言われおり、アルプスの山々をバックに佇む姿は本当に美しいです。

日本100名城

満足度:★★★★★

 

歴史

1582年に織田信長が武田氏を滅ぼすと、小笠原貞慶松本城の前身である深志城を奪還して信濃に入ります。貞慶は城と城下の整備に手を付けますが、徳川家康の関東移封に伴い松本を離れました。

1590年 に豊臣秀吉の部下である石川数正小笠原貞慶に代わって松本城に入ります。数正と子の康長は松本城を大改修し、近代城郭へと整備します。今も残る天守は康長によって建てられました。

1613年に石川康長は改易され、代わりに小笠原秀政が戻ってくるも、子の忠真の時代に明石へと転封します。その後、戸田家、松平家、堀田家、水野家と目まぐるしく藩主が変わりますが、1726年に志摩鳥羽から松平光慈が入り、幕末まで戸田松平家が松本を治めました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

東京からJR中央本線篠ノ井線を特急あずさ利用で2時間30分。松本駅から徒歩20分。信州にある城の中ではかなり行きやすいです。ただ、東京や名古屋以外からは信州まで行くのが少々遠いのです。

 

 

縄張図

本丸の南側を二の丸がコの字型に囲み、それを三の丸が更に囲む輪郭式の縄張りでした。幅広い水堀に囲まれ、特に南側は女鳥羽川も流れる盤石の構えですが、北側は城外から本丸への距離が近く、やや手薄にも見えます。

近世城郭らしからぬ馬出しが数多く築かれているのは、前身の深志城が武田氏の支配下だった名残でしょうか。

 

城歩き

城の南側の大手門跡から本丸に向かいました。

 

大手門跡と縄手通り商店街

松本城 大手門跡

縄手通り商店街

三の丸の総堀は埋め立てられており、枡形の石垣も残っていませんが、道のクランク状の折れに当時の名残が少し見られます。また、女鳥羽川と堀に挟まれた細い道(縄手)が縄手通り商店街として残っています。

 

大名町通りと二の丸入口

大手門跡から本丸に向かう通りは「大名町通り」と呼ばれ、当時は上級藩士の屋敷町でした。現在は「大名町通り」からそのまま二の丸に入れますが、当時は堀と土塁が巡らせてあり、二の丸南側に入口はありませんでした。

 

二の丸南東

松本城 二の丸南東

松本城 二の丸南東

本来の入口だった太鼓門から二の丸に入るため、東側に回り込んでみました。二の丸南東に市立博物館がありますが、大名通り沿いに移転のため休館中でした。

太鼓門枡形

松本城 太鼓門枡形二の門

松本城 太鼓門枡形一の門

松本城には、大手門、太鼓門、鉄門の3箇所に枡形がありました。太鼓門の名の由来は、枡形北側⑥に太鼓楼が置かれていたことに拠ります。1999年(平成11年)に復興再建されました。

 

玄蕃石

松本城 玄蕃石

門脇には巨石「玄蕃石」が据え付けられています。松本城を築いた石川康長自らこの巨石を運ばせ、不平を訴える者の首を刎ね、槍で掲げたとの言い伝えが残っています。松本城を築いたときの領民の辛苦が想像できます。

 

二の丸

松本城 二の丸

松本城 二の丸

太鼓門を抜けて、内堀に沿って本丸への入口である鉄門に向かいます。松本城は平城なので、本当に移動が楽ですね。

 

鉄門

松本城 鉄門

松本城 鉄門

鉄門は本丸に入る重要な門でした。1960年(昭和35年)に一の門(櫓門)、1990年(平成2年)に二の門、土塀が復興再建されました。鉄門から先が有料エリアとなります。

 

本丸

松本城 本丸

かつて御殿のあった本丸に今は芝生が広がっています。天守は本丸西に建てられています。青い空、天守の黒、芝生の緑。

 

天守

松本城 天守

天守の北側は渡櫓で乾小天守と繫がり、南側は巽付櫓が連なっています。更に巽付櫓には月見櫓が連なっている複合建築です。

天守、渡櫓、乾小天守石川数正、康長親子時代に築かれたとされ、それが確かならば日本最古の現存天守となります。ただ、乾小天守が先に造られたという説もあり、真相は藪のままです。

 

天守1階

松本城 天守内部

松本城 天守 武者走り

松本城 天守 石落とし

松本城 天守 狭間

天守は内部6階建てで、1階には武者走り、石落とし、狭間が設けられており、かなり実践的な造りとなっています。

 

天守3階

松本城 天守3階

天守3階は2階の屋根裏に設けられているため、窓が無く暗いのが特徴です。隠し階かな。

 

天守4階

松本城 天守4階

4階は3階から打って変わって、柱が少なく、天井が高く、四方から光が入っています。有事の際の城主の座所と考えられています。

 

天守6階(最上階)

松本城 天守 桔木構造

最上階に到着したものの、廻縁がありません。当初は廻縁と高欄を巡らす予定でしたが、寒さと降雪対策のため、室内に取り込んだと考えられています。

また、屋根裏から材木が放射線状に外側に向かって配置され、テコの原理で軒先を支えています。桔木(はねぎ)という建築技法です。

 

十六夜

二十六夜神

二十六夜神

屋根裏をよくみると、「二十六夜神」を祀ってあるのが分かります。戸田家が高崎から松本に入封した際に、月待ち信仰のひとつ「二十六夜神」信仰を持ち込んだと持ち込んだと考えられています。

 

月見櫓

松本城 辰巳付櫓

松本城 月見櫓

松本城 月見櫓

見学ルートは、大天守から辰巳附櫓、月見櫓を見学した後に外に出ることになります。辰巳附櫓と月見櫓は平和な江戸時代初期に築造されたため、石落とし等の戦いのための備えはありません。特に月見櫓は開放的で、柱と薄い板戸だけの建物です。

 

鉄門から二の丸南西部へ

鉄門から二の丸に出て、南から西へと歩きます。上記地図の緑色は本来堀だった土地で、松本市が南・西外堀復元事業を行っています。用地の7割を取得済みとのことですが、土壌から自然由来の鉛などが検出され、なかなか大変なようです。

天守・辰巳付櫓・月見櫓

松本城 天守

松本城 天守

松本城 天守

松本城 天守

二の丸を西に移動しながら天守を撮りましたが、本当に絵になりますね。撮る角度によって小天守や付櫓の映り方も変わるので、様々な表情を見せてくれます。

 

感想

松本城天守は素晴らしいの一言です。観光客もがとても多くて、お城ブームのを実感します。南・西外堀が復元されるのを楽しみに待っています。