石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

大和郡山城(奈良県大和郡山市) 逆さ地蔵の埋まる天守台

大和の要として築かれた大和郡山城。石垣には多くの石仏や五輪塔が転用されており、中でも逆さ地蔵が有名です。今年3月に極楽橋が再建され、城内を廻るのも便利になりました。

日本100名城

2021年3月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

1580年の織田信長の大和一国破城により、郡山城以外の城は破却され、大和守護筒井順慶郡山城に移りました。これが近世城郭としての始まりです。

1585年、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が大和・和泉・紀伊の太守として入城し、100万石にふさわしい城として大改修が行われました。しかし、1591年に秀長が亡くなり、養子の秀保も1595年に亡くなりました。その後、五奉行の一人増田長盛が22万3千石で入城し、外堀の普請を行い、ほぼ現在の形になりました。

長盛は関ケ原の合戦後に高野山に追放され、郡山城徳川家康により筒井定慶に与えられました。元の鞘に戻ったわけですが、1615年の大阪夏の陣で豊臣方に攻められ、定慶は城から撤収しました。郡山城は火をかけられ、戦後に定慶も自刃しました。

夏の陣の後、譜代大名水野勝成が入城し、荒れ果てた郡山城を改修しました。勝成の福山転封後は松平忠明が摂津大坂から入城し、伏見城から鉄門等を移す等、復興に務めました。

1639年の忠明の姫路転封後、姫路から本多政勝が入城し、郡山城下は大いに栄えます。しかし、政勝死後にお家騒動が勃発し、結果的に明石から松平信之が入封します。後日信弘は老中に任じられ、古河に加増転封となり、宇都宮から本多忠平が入城します。本多家は5代続きますが、無嗣断絶となりました。1724年に柳沢吉里が甲府から15万石で入城し、明治維新まで続きました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

近鉄郡山駅から徒歩7分。JR郡山駅からだと徒歩15分。奈良観光のついでにいかがでしょう?

 

城歩き

大和郡山城の縄張りは、本丸の周囲に、二の丸、毘沙門郭、新宅郭、麒麟郭を配した輪郭式であり、総堀で城下町も囲い込んだ広大な城郭でした。現在は本丸を中心に石垣や堀がよく残っています。

 

鉄門跡

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踏切を渡って迎えてくれるのは鉄門跡。鉄門は伏見城から移築された由緒正しい門でしたが、明治の払い下げで行方不明になっています。正面右側のみ石垣が残っており、高校生が自転車で通学していました。


本丸石垣

大和郡山城 本丸石垣

鉄門跡を過ぎて少し歩くと、本丸南東隅に出ます。西だと二の丸、北だと陣甫曲輪へと進むことになります。

二の丸方面

西に進むと最短で本丸に辿り着けますが、もちろん遠回りしてみます。時間のない方はこちらをどうぞ。

陣甫曲輪方面

大和郡山城 陣甫曲輪

細長い陣甫曲輪を通って、追手門に向かいます。道路の東側には民家が建ち並んでいますね。

 

追手東隅櫓

大和郡山城 追手東隅櫓

1987年(昭和62年)、常盤曲輪の南東隅に追手東隅櫓が復元されています。なぜここの櫓をと疑問に思いましたが、近鉄電車から見える場所に復元したかったのかもしれません。

 

追手門と追手向櫓

大和郡山城 追手門・追手向櫓

大和郡山城 追手門

追手門は梅林門とも呼ばれ、常盤曲輪から本丸に向かうのが正式ルートだったのが分かります。追手門は1983年(昭和58年)、追手向櫓は1987年(昭和62年)に復元されました。ただ、建物内に入れないのが少し残念。

 

本丸方面

大和郡山城 本丸

大和郡山城

追手門跡を通ると毘沙門郭に出ると、堀の向こうに本丸や天守台を臨むことができます。ただ、そこに辿り着くには、毘沙門郭を南へと進む必要があります。目の前なのにもどかしい、でもそれがいい。

 

極楽橋

大和郡山城 極楽橋

大和郡山城 極楽橋

2021年3月に再建された極楽橋。明治初期に撤去されたため、長く本丸への正式ルートが無い状態でしたが、ようやく復元されました。柳沢家の家臣の子孫の方が3億円が寄贈したとのことで、床板と手すりにヒノキ材が使われており、新しい木のいい香りが漂っていました。

 

旧本丸への入口

極楽橋の再建前は、毘沙門郭の端から本丸に入りました。これは後世造られた道であり、しかも全然目立たないので、本丸に行くのに立ち往生する人が多数発生しました(私だけ?)

 

柳澤神社

本丸に建つ柳澤神社。祭神は五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保です(時代劇でよく黒幕として描かれていますね・・・)。

 

天守

大和郡山城 天守台

天守台は明治以降にしばしば改変されており、現在の天守台は2017年(平成29年)に展望エリアとして整備されました。実は整備前天守台の階段も、明治以降に付け足されたものでした。ではどうやって天守台に上ったのでしょうか?

 

付櫓入口跡

2013年(平成26年)の発掘調査にて、付櫓地階の石垣と礎石が発見されました。天守台には、付櫓台南面から付櫓に入り、付櫓の階段を上って入ることが証明された訳です。現在も入口の痕跡を見ることができます。

 

天守台からの眺め

展望台からは城内を見渡すことが出来ます。以前西側には高校があったのに、いつの間にか空き地になっていますね。


逆さ地蔵

大和郡山城 逆さ地蔵

大和郡山城 逆さ地蔵

郡山城の石垣には様々な転用石が使われていますが、一番有名なのがこの逆さ地蔵。仏身の大きさは約90センチで、大永3年(1523年)7月18日の刻印があるとのことです。

竹橋門跡

大和郡山城 竹林門跡

竹林橋は搦手に架かる木橋でしたが、現在は土橋になっています。

二の丸

かつての二の丸、松蔭郭跡には郡山高校が建っています。高校沿いの道には、中仕切門跡、松蔭門跡がありました。


南御門跡

松陰郭への南入口にあたる南御門跡。門の西に広がる鷺池堀は、最幅70メートルを超える大濠です。


永慶寺山門

永慶寺山門

城主柳澤家の菩提寺である永慶寺。その山門は南御門を移したもので、郡山城唯一の現存建築物です。

 

感想

大和の要として築かれただけあって、残された石垣や堀に大城郭の面影が見えました。本丸が整備され、極楽橋も再建されたのもポイント高し。奈良に来た際には、気軽に立ち寄ってくださいね。