豊臣五大老のひとり、宇喜多秀家によって築かれた岡山城。安土城天守にも似た三層六階の黒色の天守が非常に格好いいです。日本三名園として知られる後楽園は岡山藩4代藩主の池田綱政によって築かれました。
2021年2月登城
満足度:★★★★★
歴史
現在の本丸の西に在った石山城が岡山城の前身であり、戦国大名・宇喜多直家が金光宗高から奪い、本拠地として整備しました。直家を引き継いだ秀家は豊臣秀吉の寵愛を受け、57万石余を領する大大名となりました。57万国に相応しい新規築城と城下町整備を進め、本丸を東の岡山に新たに築き、近世岡山城の原型を造りました。
関が原の合戦で西軍の副将についた秀家は八丈島に流刑となり、奇しくも西軍を裏切った小早川秀秋が代わって入城しました。秀秋は「二十日堀」という外堀を作り、西に城域を拡張しましたが、入城後1年数ヶ月で急死しました。
小早川家に次いで岡山城に入ったのは、姫路城を築いた池田輝政の次男・忠継でした。以降、幕末に至るまでの260年間、池田家が藩を治めました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR岡山駅から本丸入口まで徒歩20分。路面電車なら、岡山駅前から城下または県庁通りで下車後、徒歩6,7分。 運賃が100円と安いのでお薦めです。
城の縄張り
正保城絵図から抜粋
典型的な後堅固の縄張りで、旭川を城の本丸背後を流れるように改修し、天然の外堀として活用しています。 明治維新後、二の丸や三の丸は市街地となりましたが、本丸のみ烏城公園として整備されています。
城歩き
岡山城案内図
大手門跡から不明門を通って、天守を目指しました。烏城公園としては、本丸のみが整備されていますが、本段・中の段・下の段と曲輪が別れており、それぞれ堅固な守りとなっているのが分かります。
内下馬橋と大手門跡
内下馬橋を渡って大手門跡に入ります。大手門跡は枡形になっており、手前には内下馬門、奥には櫓門が構えておりました。
大手門石垣
岡山藩主の池田家は大大名だけあって、枡形内にはこれ見よがしに巨石が用いられています。
中の段西側の石垣
大手門を過ぎると中の段西側の石垣が目に入ります。一見普通の高石垣ですが、実はこの石垣がなかなか興味深いのです。小早川秀秋、初代藩主・池田忠継、2代目藩主・池田忠雄の3世代の石垣が並んでいます。
大納戸櫓台の石垣
手前の大納戸櫓台の石垣は、小早川秀秋が築き、池田忠継が改修したものです。豪快な野面積みの高石垣で、技術の高さが窺えます。
中の段南西の石垣
凹部の石垣も同じく、小早川秀秋が築き、池田忠継が改修したものです。この石垣の12メートル奥には、宇喜多秀家時代の石垣が埋もれています。はらみが発生したため、1999年(平成11年)から2001年(平成13年)にかけて改修されました。
中の段西の石垣
先の石垣とは明らかに積み方が違いますね。2代目藩主・池田忠雄が築いた打込み接ぎの石垣で、曲輪が拡張されたのがよく分かります。
不明門下の石垣
下の段からは石段を上って中の段に入ります。正面右側には宇喜多秀家が築いた高石垣が残っています。野面積みの豪快な石垣です。
鉄門跡
石段を上った先には、木部の全体を鉄板で覆った櫓門がありました。石段は左に直角に曲がっており、右側面を守備側に晒す堅固な縄張でした。
中の段
中の段には表書院が広がっており、藩政の中心でもありました。今は地表に屋敷跡が記されてるのみですが、スケールの大きさが感じられます。
中の段縄張
本丸の中の段は、宇喜多秀時代(水色破線)から、小早川秀秋時代(赤色破線)、池田忠雄時代(現行縄張)と随時拡張されました。緑◯と黒◯では、埋もれた宇喜多秀家の石垣を見ることが出来ます。
宇喜多秀家の石垣(緑◯部分)
階段を下ると、宇喜多秀家の築いた石垣を垣間見ることが出来ます。築城時は南北に石垣が伸びていましたが、南側(写真手前側)は改修の際に石を抜かれています。
宇喜多秀家の石垣(黒◯部分)
こちらの石垣も宇喜多秀家の築いたものですが、角が鋭角になっています。門前の道をきっちり南北に切り通したためですが、珍しいですよね。
月見櫓
中の段北西隅には、月見櫓が残っています。城外からは2階、城内からは3階になっており、最下層は土蔵になっています。面白いのは、城内側の最上階は手すりのある縁側になっていました。現在は板が張ってあるのが残念です。
不明門(再建)
本段には、不明門を通って入ります。正門なのに不明門(あかずのもん)なのは、本段には藩主の御殿があるため、限られた人しか通ることを許されず、常に閉まっていたから。ちなみに、現在は利用料を払えば、櫓内を会場にすることも出来るようです。
宇喜多秀家によって建てられた天守は、3重6階の望楼型で、壁には黒漆塗りの板がはめ込まれていました。寵愛を受けた秀吉の大坂城を彷彿とさせます。国宝にも指定されていましたが、太平洋戦争の空襲で焼失し、戦後に再建されました。
六十一雁木上門(再建)
本段には、不明門以外にも2つの門がありました。一つは六十一雁木上門と呼ばれ、旭川の水の手に通じています。
天守横の通路
天守横には、中の段にある廊下門に通じる道があり、かつては門が設けられていました。隠し通路みたいですね。
岡山城案内図(廊下門から水の手側)
廊下門を通って、旭川沿いの水の手側を廻ってみました。
廊下門(再建)
廊下門は、本丸北側から中の段への入口に設けられた搦手門です。2階櫓部は、本段御殿と中の段の表書院を結ぶ、藩主の通路して使われていました。だから廊下門と呼ばれていました。
岡山の丘に沿って石垣を築いたため、天守台が不等辺五角形になっています。上部の石垣が赤く変色しているのは、岡山大空襲で天守が焼失した影響です。
六十一雁木上門
先程本段からみた六十一雁木上門です。当時は階段下に櫓門が架けられており、万全の構えでありました。
本段石垣
搦手にも関わらず、豪快に積まれた石垣が素晴らしい。この辺りの石垣は宇喜多秀家時代のものかな。
再び月見櫓まで戻り、月見橋を渡って後楽園方面に渡ります。当時はこの場所に橋は架かっておらず、旭川が堀の役目を果たしていました。
本丸東の防御を高めるため、宇喜多秀家は北に蛇行していた旭川の流れを城郭の北から東側に変更しました。ものすごい力技です。
二の丸石垣
現在烏城公園として整備されているのは本丸のみで、二の丸や三の丸は市街地になっています。ただ、街の所々に石垣が残っています。
西の丸西手櫓
二の丸(西の丸) に残る西手櫓。月見櫓と並んで、現存している貴重な建物です。街中にひっそりと佇んでいました。
感想
整備されているのは本丸のみですが、なにより漆黒の天守が格好良いです。他にも見どころが沢山あるのですが、アピールしきれていないのが勿体ない気がします。現存の月見櫓なんか、通年公開して欲しいです。
豊臣五大老だった宇喜多秀家、その宇喜多を関ケ原の合戦で裏切った小早川秀秋、家康の娘婿の池田輝政の次男忠継と、歴代藩主の因縁もドラマティックでです。