日本初の西洋式城郭であった五稜郭。正しくは亀田御役所土塁といい、5つの角がある星形の城郭でした。箱館戦争の舞台になり、旧幕府軍の最後の戦いとなりました。
満足度:★★★★★
2020年10月登城
歴史
1853年のペリー来航により、幕府は下田と箱館の2港を開港し、函館山の麓に奉行所を開きました。ただ、同所は箱館湾内から近く、函館山からも丸見えのことから、内陸への移転を決定しました。移転にあたり蘭学者の武田斐三郎成章は西洋式「亀田御役所土塁」を設計し、1857年から工事が始めました。予算不足や厳しい寒さに苦しみながらも1864年に完成し、「箱館御役所」として蝦夷地を統治することになります。
1868年1月から始まった戊辰戦争において旧幕府軍は敗色濃厚となり、10月に榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊は蝦夷地に逃走し、箱館を占拠しました。続いて11月には松前藩の福山城も制圧し、12月には蝦夷地領有の宣言を出しました。
しかし翌年4月から新政府軍の反撃が始まり、5月には箱館総攻撃が行われました。市街地奪還に出撃した土方歳三は戦死し、海上でも箱館港内を制圧した新政府軍は五稜郭への艦砲射撃を開始しました。5月15日には弁天岬台場が落ち、5月18日に榎本武揚以下が降伏し、箱館戦争は終結しました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
五稜郭自体はアクセスしやすい場所にあるのですが、本州の人間としては北海道に行くまでが一苦労です。
・市営電車「五稜郭公園前」下車、半月堡入口まで徒歩約11分。JR五稜郭駅からだと30分近く歩くのでご注意。
・函館空港からだと、函館バス(7系統 とびっこ)で「五稜郭公園入口」バス停まで、五稜郭回りだと32分、亀田支所回りだと40分。
城歩き
一の橋から半月堡経由で箱館奉行所まで
縄張図
改めて星型の特徴的な縄張りですね。まずは半月堡から城内に入って、箱館奉行所を目指しました。ほとんどの観光客がこのルートを通りますね。
一の橋
一の橋を渡って半月堡に入ります。半月堡は当初5ヶ所設けられる予定でしたが、資金難から、ここ1ヶ所にのみしかありません。貧乏が悪いんや。
半月堡
半月堡は日本の城で言うところの「馬出」ですね。塁壁が二重になっており、外側に設けられた低い土塁は底塁と呼ばれています。
刎ね出し
石垣上部には「刎ね出し」とよばれる出っ張りがあります。「刎ね出し」があった方がよじ登りやすいという意見もありますが、熊本の人吉城にもありました。
半月堡登り口
半月堡には上れるようなので、当然上ってみました。他の土塁に関しても、上り下り可能で自由度が高かったです。
半月堡先端
先端からは堀が見渡せます。馬出としては十分な機能を持っているように感じました。
入口脇土塁
半月堡から下りて、再び城内に向かいます。二の橋の両脇には堀越しに稜堡が設けられており、侵入者は狙い撃ちされます。
箱館奉行所入口
ここから先は本郭になります。なんだかいきなり江戸時代の雰囲気ですね。門の両脇には土塁が設けられていました。
本塁の石垣
本郭への入口3ヶ所のみ、本塁が石垣で築かれています。ここの石垣は特に気合が入っており、函館山から切り出された安山岩が用いられています。
藤棚と門場所跡
藤棚のトンネルを通って城内に入ります。トンネルの左側には門番所跡がありました。西洋式城郭にも、番所があったんですね。
見隠塁
通路の正面には見隠塁と呼ばれる石垣があり、郭内を侵入者から見通せないようにしています。いやに立派に築かれており、白壁でも設けたほうが良かったような気もします。
稜堡登り口
稜堡にも上ってみました。五稜郭には名の通り稜堡が5つあるわけですが、全ての稜堡に上ることが出来ました。
稜堡上部
芝生の緑のおかげか、城跡という雰囲気はあまりしません。パッと見た感じ普通の公園みたい。
半月堡側面
先程通ってきた半月堡を横から見たところ。構造がよく分かりますね。
武田斐三郎顕彰碑
稜堡から下りて奉行所を目指す途中、武田斐三郎の顕彰碑がありました。斐三郎は伊予大洲藩出身の俊才で、五稜郭と弁天岬台場を設計しました。みんなが撫でるので、顔がテカってらっしゃる。
箱館奉行所
箱館奉行所(復元)
五稜郭の中心にどんと構える箱館奉行所。見ての通りの和式建築で、蝦夷地統治を担う役所でした。箱館戦争の際には奉行所の太鼓櫓が砲撃の標的となってしまいました。戦後に解体されましたが、2010年(平成22年)に当時の1/3の規模で復元されました。
大広間と奥の一の間
奉行所で一番格式の高い部屋です。儀式で使用されていた部屋とのことですが、とにかく広い!
中庭
中心部には採光と雨水処理を目的とした中庭がありました。
御役所調役
奉行所の一番広い部屋(畳45畳!)で、執務室にあたりました。当時はちょんまげの武士がここで事務仕事をしていたと想像すると不思議な感じ。
箱館奉行所から裏門橋まで
縄張図
箱館奉行所からは、北西の稜堡に上った後に裏門橋に向かいました。
裏門見隠塁
裏門側にも目隠塁がありました。こちら側は人が少ないですね。
大砲を運んだ坂
北西の稜堡には、土塁の上に大砲を運ぶための坂がありました。箱館戦争の際、旧幕府軍によって急いで築かれました。
裏門入口の本塁
裏門側の本塁は資金難のため、半月堡側よりも低くて刎ね出しがありません。石垣もお粗末な感じ。
裏門橋
裏門側の簡素な石垣。こちら側の石垣には、亀田川等の河原石が使われました。
五稜郭の考察
日本初の西洋式城郭であった五稜郭ですが、城単体としての防御力はさほど高くないように感じられました。実際に箱館戦争では旧幕府軍の拠点になりましたが、籠城戦にまでは至りませんでした。
貧乏が悪いんや!
①箱館柳野御陣営之図
②五稜郭初度設計図
③函館五稜郭の図
上から順に、①理想⇒②現実⇒③妥協と言ったことでしょうか。稜堡式城郭は、稜堡を二重三重に縦深的に配置して防御力を高めますが、五稜郭には半月堡1基が設けられただけでした。また、堀幅はあるものの土塁や石垣が低く、縄張りに死角はないかもしれませんが、力攻めでも普通に突破されそうです。
ベトナムの稜堡式城郭
当時ヨーロッパでは、稜堡式城郭から多角形要塞へと移りつつありましたが、フランスでは稜堡式城郭が築かれていました(1870年の普仏戦争でプロイセンに敗れましたが)。箱館戦争で五稜郭が無力されたのは、大砲の射程距離の差(向こうから届くのに、こちらからは届かない)が最大の要因であったと思います。ただ、武器が互角だったとしても、簡素化された縄張りと低い石垣のため、長くは持ちこたえられなかったでしょう。
そもそも目的が違う?
箱館山からの夜景
函館を防御するのが目的なら、函館山に城郭を築くのが一番です。実際に1898年(明治31年)から、津軽海峡防衛のための要塞が築かれました。
五稜郭が築かれた理由は、「亀田御役所土塁」の名の通り、箱館奉行所を守るためでした。また、箱館奉行所が亀田の地に移転した理由は、外国人からの遮蔽と外国船の監視でした。つまり、何ヶ月も籠城出来るような要塞は元々必要ではありませんでした。
では、なぜわざわざ西洋式で築いたのか。日本人でも最新の稜堡式城郭(実際は最新では無いですが)が築けることを外国人に見せたかったんじゃないかな。日本人の見栄と意地。
感想
日本初の西洋式稜堡城郭を堪能できました。芝生の緑が平和な雰囲気を感じさせてくれるのか、知らなければ公園としか思えません。城として十分に機能としたとは言い難いのですが、当時の日本人の必死さが伝わってきました。もし完璧に完成していたら、歴史が変わったかもしれませんね。