松阪牛で有名な松阪にある松坂城。戦国武将の蒲生氏郷によって築かれたその城は、野面積みが主体の豪壮な石垣が特徴です。天守等の建物はありませんが、石垣好きはぜひ訪問してみてください。
2019年6月登城
満足度:★★★★★
歴史
1584年に豊臣秀吉から南伊勢を賜った蒲生氏郷は松ヶ島城に入りますが、海岸寄りで手狭なことから、四五百森(よいほのもり)に新しく築城を開始しました。
1588年に氏郷は完成した城に移り、城下の地名を「松坂」と改めました。城下町を整備するとともに、伊勢大湊や旧領地の日野から有力な商人を誘致したことから、のちに豪商の町と云われる松阪の礎を築きました。三井家発祥の地でもあります。
1590年に氏郷は会津に転封し、代わりに服部一忠が入封するも豊臣秀次事件に連座して切腹、1595年に古田重勝が入封しました。
1619年に古田家は石見に転封し、以後紀州藩領となり、城代が置かれました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR・近鉄松阪駅から徒歩15分。のんびり歩いて行ける距離です。駅前にはタクシーもあるので、大人数だと便利です。
城歩き
松坂城縄張り
天守を置く本丸上段、一段下に本丸下段ときたい丸があり、南西に二の丸と隠居丸が築かれています。更に丘陵を囲むように三の丸と土塁や堀が築かれていましたが、現在はほとんど残っていません。それは少し残念。
表門跡
大手筋が当たる表門入口は枡形になっており、この高石垣に圧倒されますね。
二の丸方面
表門を抜けると本丸下段の石垣に突き当たり、左に曲がると二の丸に出ます。
本丸下段方面
右に曲がると本丸下段への道となります。写真正面に見えるのは松阪市歴史民俗資料館です。
きたい丸石垣
野面積みのきたい丸高石垣。こっち方面を進んでも本丸には入れません。きたい丸の由来は、3人目城主の古田重勝の息子の幼名「稀代丸」から。
助左衛門御門(表二の門)跡
本丸下段ときたい丸への入り口の助左衛門御門跡。右に鐘ノ櫓、左に遠見櫓が睨みを利かす堅固な構えです。
本丸上段
本丸下段から上段への石段です。奥にも上段へのルートがあり、わざわざここに入口を築いた理由が分かりません。本丸上下を行き来する藩主専用だったのかも。
本丸上段と天守台
天守台以外は平坦な本丸。実は兵部屋敷跡がありましたが、戦後昭和に配水池が設けられたため、屋敷の遺構は消滅しました(配水池は平成に撤去)。
北西と南東に敵見櫓と金の間櫓があり、かつては多門櫓でぐるっと繋がっていました。金の間櫓にはなんと金箔を貼った黄金の間があったそうで...、すごい。
天守台上
かつては3重天守と付櫓が建っていましたが、1644年台風で倒壊し、その後再建されませんでした。現在はきたい丸への石段がありますが、当時は天守台への直接の階段は無かったようです。
きたい丸からの本丸石垣
松坂城の石垣は野面積みが特徴ですが、江戸時代に修復された箇所も多く、この隅部の算木積み箇所は明らかに新しいですね。
NHKの城の石垣保全の特集をたまたま見た際、松阪市が松坂城のすべての石垣について状態を調べて管理していると知り、大変だなと感じたことを思い出しました。
きたい丸石垣
隅櫓跡からの眺めです。石垣には無粋な(?)柵等はありませんので、際から下を眺めることが出来ます。高所恐怖症の方は注意!
中御門(裏二の門)跡
本丸から中御門跡を通って裏門へと下ります。本丸を守る門だけあって、堅固な枡形が築かれています。
裏門跡
裏門も枡形になっており、天守までに枡形が4度も続くという搦手とは思えない厳重さです。松坂城はつくづく戦のための城だったんですね。
感想
野面積みの石垣がとにかく凄かったです。石垣の保存修理工事を15年かけて実施するなど、市の努力には頭が下がります。次は隠居丸にある本居宣長旧宅もぜひ見学したいです。