赤穂といえば、何はなくとも忠臣蔵。討ち入った大石内蔵助は赤穂藩の家老職を務めていました。その本拠地の赤穂城は、一国一城令後に築かれた、軍学に基づく技巧的な城でした。
2020年6月登城
満足度:★★★★★
歴史
1645年に常陸笠間から浅野長直が赤穂に入封し、その3年後から新たに築城が開始されました。縄張りは甲州流軍学者・近藤正純が担当し、1661年に完成しました。浅野家は3代続きますが、3代目長矩の殿中刃傷事件により断絶しました。
1701年に浅野家の後に寺社奉行の永井直敬が入封しましたが、1706年に信濃飯山に転封しました。一時リリーフですね。
1706年に森和長直が備中西江原から入封し、12代続いて明治に廃藩になりました。森家の方が圧倒的長くいたのですが、どうしても浅野家のイメージが強いですね。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
城歩き
城に向かう途中、所々で赤穂藩上水道の記念碑を見かけました。赤穂城と城下町は河口の砂州に造られたため、井戸からは塩分を含んだ水しか湧きませんでした。飲水の確保に上水道は必要不可欠な設備でした。
大手門隅櫓(復元)
まず出迎えてくれる三の丸隅櫓。やや縦長でシュッとした櫓です。
三の丸大手門
大手門は、1955年(昭和30年)に復元されました。門手前左の石垣は折れ、枡形内が広い厳重な構えでした。
近藤源八宅跡長屋門
近藤源八は千石番頭であり、父正純が甲州軍学に基づいて、城の縄張りを担当しました。現在残っているのは長屋部分のみであり、当時は36メートル近くの長大な長屋門でした。
大石邸長屋門
浅野家筆頭家老・大石内蔵助が住んだ長屋門です。内部は赤穂大石神社の敷地になっています。
赤穂大石神社
赤穂大石神社は1912年(大正元年)に四十七義士命を祀る神社として建てられました。大願成就のご利益にあやかろうと、城よりも人が多かったです(笑)
二の丸北隅櫓台
赤穂城は明治以降に田畑・宅地化したため、1982年(昭和57年)から断続的に復元整備が進められています。石垣が新しく、原っぱが広がっているのはこのためです。
二の丸門跡
かつて二の丸入口の門があった場所です。赤穂には軍学者の山鹿素行が滞在したこともあり、この周辺の縄張りを一部変更したと伝わっています。現在は跡形もなくて残念。
縄張図
赤穂城の特徴はこの縄張り。塁線をいたるところで屈折させ、特に本丸と二の丸は西洋の城の縄張りのようです。また、築城時は二の丸の南半分と三の丸の西は海に面しており、干潮時は泥洲となっていました。今回は北から南に通り抜けてみました。
大石頼母助屋敷門(再建)
大石内蔵助の大叔父にあたる大石良重の屋敷門です。2009年(平成21年)に再建されました、
二の丸庭園
屋敷門をくぐると、庭園が広がっていました。1998年(平成10年)から発掘調査・修復が行われ、2016年から部分公開されました。この池の水にも上水道が利用されていました。(現在はどうだろう?)
本丸門(復元)
本丸枡形の高麗門と櫓門。1992年(平成4年)から4年かけて復元されました。残念ながら、この日は櫓門の内部公開がありませんでした。
天守台
天守は建てられませんでしたが、天守台は造られました。高さは9メートルもあり、5重の天守を載せることも可能な大きさです。天守が建てられなかった理由については、資金面や幕府への配慮と推測されています。個人的には、最初から建てるつもりはなく、様式美と云うか、ポーズだったと思います。
本丸御殿跡
本丸の大半は御殿で占められていました。本丸には1981年(昭和56年)まで赤穂高校が建っており、遺構は残っていませんでしたが、その後永井家時代の間取り図が見つかり、1989年(平成元年)に御殿の間取り復元が行われました。
本丸庭園
本丸内にも庭園が造られていました。発掘調査で遺構が検出され、現在は修復整備されています。本丸と二の丸の両方に庭園を持つ、優雅な城だったんですね。
厩口門(再建)
廃城後に失われましたが、2001年(平成13年)に門と橋だけではなく、石垣と白壁も一緒に再建されました。
本丸石垣
本丸の櫓台が突き出ており、城壁には折れも見受けられます。死角を無くし、横矢をかける縄張りになっています。
刎橋門跡
本丸御殿の裏手にあった刎橋門跡です。開閉式の刎橋(はねはし)が架けられていました。勝手口ですね。
水手門跡
二の丸の南側は海(干潟)に面していたので、船が出入り出来るように窪んだ縄張りになっていました。塩で有名な赤穂だけあって、海城だったと実感します。
感想
複雑な縄張りが印象に残りました。ただ、堀の幅や石垣の高さが控えめで、飲み水を上水道に頼っているのも実戦では致命的だと思いました。本丸・二の丸の庭園といい、平和な江戸時代の象徴的な城かな。
城内の整備が進められているので、これからの変化も楽しみです。