石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

小倉城(福岡県北九州市) 前衛的だった南蛮造の天守

南蛮造の天守が特徴的だった小倉城徳川幕府の九州支配の牙城であり、幕末には長州藩との戦いの拠点にもなりました。現在は城の大半は市街地となり、本丸の堀と石垣がわずかに残されています。

日本100名城

2022年5月登城

満足度:★★★★

 

歴史

古くから小倉は交通の要衝であり、戦国時代には毛利氏により小倉城が築かれました。その後、大友氏との係争地となり、大友方の高橋鑑種が小倉城主になりました。

豊臣秀吉による九州平定後、1587年に秀吉家臣の毛利勝信が小倉に入り、小倉城を改修しました。しかし、1600年の関が原の合戦で西軍についたため、肥後に追放されました。

関が原の合戦で功績を上げた細川忠興豊前一国の太守となり、一旦中津城に入った後、小倉を居城に定めました。1602年から本格的に築城を開始し、総構えも含めて完成させました。このとき南蛮造と呼ばれた天守も建てられました。

その後、細川家は肥後に転封し、代わりに明石から小笠原忠真が15万石で入国しました。以後、小笠原家が小倉城主となりました。

幕末の1865年に幕府から長州征討の命が下り、小倉・肥後藩を中心とする九州諸藩と長州藩との戦争が始まりました。戦いは高杉晋作が指揮する長州藩が優位に進めますが、肥後藩の活躍により盛り返します。しかし、総督であった唐津藩主・小笠原長行への反感から肥後藩らが撤退、長行も逃亡したため、残された小倉藩は窮地に陥ります。追い詰められた小倉藩は城に火を放ち後退しました。このとき既に天守はありませんでしたが、小倉城は炎上しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR小倉駅から徒歩15分。JR西小倉駅からなら徒歩10分。小倉は九州の入口であり、新幹線も停まるので訪問しやすい城だと思います。

 

 

縄張図

豊前40万石の細川忠興が築いただけあって、柴川の河口を活かした広大な海城です。特に総構の塁線に折れを多用し、中心部が三角形なのが特徴です。上のGoogleマップと比べると、現在本丸のごく一部しか残っていないことが分かります。

 

城歩き

小倉駅からぶらぶら城に向かったのですが、高層ビルが多いので天守が見えませんね。Googleマップがなかったら迷子になりそう。

 

常盤橋

常盤橋

常盤橋は小倉城の東曲輪と西曲輪に架かる大橋で、各種街道の起点になっていました。西広場は長崎街道の起点になっており、8代将軍・吉宗が呼び寄せた象も長崎から通ったとか。

 

虎ノ門から天守まで

北東にある虎の門から鉄門を通って、天守へ。その後、北西の多門口門から八坂神社経由で城外に出ます。

 

虎の門

虎の門跡

虎の門跡

虎といっても“タイガー”ではなくて、天守からみて寅(東北東)にあることからこの名が付きました。

虎の門の石垣

小倉城 虎の門石垣

小倉城 虎の門石垣

虎の門は大手門、西ノ口門と並ぶ正門のため、やたら大きな石が用いられています。ただ、石垣自体の高さはそれほどでもないのが不思議。


天守

小倉城 天守

いきなりメインディッシュ登場!

小倉城天守は「南蛮造り」「唐造り」と呼ばれ、4階と5階の間に屋根の庇がなく、しかも5階が張り出した特異な形を取っています。細川忠興ご自慢の天守でしたが、独特の美的センスですな。

この天守は1837年(天保8年)の大火で焼失しました。時を隔てた1959年(昭和34年)に再建されましたが、とんでもない姿になってしまいました。それについては後で話します。

 

歴史の道

南北に走る歴史の道を通って大手門へ向かいます。途中には、2019年にオープンした「しろテラス」という観光スポットがあります。


大手門跡

小倉城 大手門跡

小倉城 大手門跡

築城時は西ノ口門が大手でしたが、小笠原家になりこちらに変えられました。内枡形になっており、奥には櫓門が設けられていました。

 

槻門跡

小倉城 槻門跡

大手門の枡形を出て、左方にあるのが槻門跡です。当時は藩主、家老、住職、英彦山座主のみが通行を許された格式の高い門でした。なんだか石垣が妙に新しい気がします。

槻門石垣

小倉城 槻門石垣

1段目のみが当時のもので、上部の石垣は平成に再建されました。結構改築されているようです。

井戸

小倉城 井戸

槻門門跡を通らずに西に向かうと、わざわざ石垣を凹ませてたところに井戸がありました。細川忠興の前の居城であった田辺城でも同様の井戸が見つかっています。

 

松ノ丸

小倉城 松ノ丸

本丸御殿南には松ノ丸がありました。現在残る2本の白い柱は、1885年(明治18年)に置かれた歩兵第12旅団本部の門柱です。

鉄門跡

小倉城 鉄門跡

先程の槻門は身分が高い方専用でしたが、こちらは一般武士の通行門でした。ここから本丸に入りますが、一旦通り過ぎて先に西ノ口門に向かいます。

 

西ノ口門跡

小倉城 西ノ口門跡

小倉城 西ノ口門跡

西ノ口門は搦手になりますが、細川忠興小倉城を築城した際はこちらが大手でした。また、忠興が築いた左側の石垣に、右側が継ぎ足されているのが分かります。

 

再び鉄門跡

小倉城 鉄門跡

元々の鉄門は向かって左半分だけで、右半分は復元されたものになります。つまり本当の幅は2分の1ということですね。。

 

旧第十二師団司令部正門跡

旧第十二師団司令部正門跡

日清戦争後の軍備拡張のため、1898年(明治31年)に旧第十二師団が結成され、その司令部が本丸跡に建てられました。このレンガ造りの門柱は当時のものだそうです。

 

佐々木小次郎宮本武蔵

佐々木小次郎宮本武蔵による決闘が行われた巌流島は、小倉藩領だったんですね。小次郎は小倉藩の剣術師範だったともいわれています。

 

天守

小倉城天守

本丸からの天守。古絵図を見ると、本丸と天守の間には石垣があったみたい。

2019年(平成21年)に天守の内装と展示がリニューアルされ、エンターテイメント感が強くなりました。同じくリニューアルされた平戸城もそうでしたね。結構マニアックな解説もあって楽しめました。

 

復興天守と模型

小倉城 天守

小倉城天守模型

再建された天守と模型を見比べると、明らかに外観が違いますね。実は破風の無い城は天守らしくないという意見があったため、再建時にくっつけちゃったみたいです。これはもったいなかった。

 

着見櫓

小倉城 着見櫓

本丸北西にある着見櫓(再建)には、糠蔵という漬物店が営業していました(2022年6月で閉店)。城主の小笠原忠真が糠漬けを好んだことから、ぬか炊き・ぬか漬けが小倉名物となっています。

 

多門口門跡

小倉城 多門口門跡

本丸と北の丸の間には枡形を設け、多門口門が建てられていました。

 

八坂神社

小倉祇園八坂神社

北の丸跡に建てられた八坂神社。小倉祇園太鼓で有名ですね。

八坂神社は、1617年に藩主・細川忠興祇園社として、城下の鋳物師町に創建しました。その後、1934年(昭和9年)に城内に移され、現在に至っています。

 

北から眺めた天守

小倉城 天守

破風を付けたくなるのも分かるけど、もしオリジナルの姿で復元されてたら、100名城だったかもしれませんね。

 

感想

戦国大名細川忠興の趣味が感じられる城でした。本当に残念なのは、再建天守に破風を付けてしまったことです。折角の南蛮造が台無しです。でも、リニューアルされた天守内の展示内容は面白かったですよ。