戊辰戦争の激戦地となった二本松。少年隊の悲劇が知られています。二本松城は中世山城から近代城郭に移行した城であり、近年発掘調査が行われ整備が進んでいます。
2023年5月登城
満足度:★★★★★
歴史
二本松城跡の歴史は、南北朝時代に奥州管領・畠山満泰が白旗ケ峯に城を設けたのが始まりと云われています。以後、畠山家の居城となりますが、1586年に伊達政宗により滅ぼされ、城代が置かれました。
1590年の豊臣秀吉による奥州仕置により、二本松城は会津藩主である蒲生氏郷の支城となります。氏郷の他界後、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明と目まぐるしく支配が変わります。
1643に白河から丹羽光重が10万700石で入封し、現在残る城へと改築しました。以後、明治維新まで丹羽家の居城となります。
二本松城が戦いの舞台になったのは戊辰戦争でした。主力部隊が白河の戦いに出向いていたところ、隣の三春藩の奥羽列藩同盟からの離反もあり、新政府軍に攻め込まれます。主力不在の二本松藩は為すすべもなく、城に籠もる重臣らは自刃し落城しました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
東北本線 JR二本松駅から麓の箕輪門まで徒歩20分少し。バスが無く、丘を越える必要があるので、意外ときつかったです。
縄張図
城下町図
二本松の城下町は、三方が丘陵で囲まれたUの字(馬蹄型)をしており、その底部分に城が構えられています。江戸時代に丹羽光重が入城した際には、城下町が手狭になったため、丘陵の南側にも町が広げられました。どうりで駅から城に行くまでに坂を上り下りする必要がある訳です。
縄張図
二本松城は白旗ヶ峰山頂に本丸、麓に三の丸が設けられています。中世山城と近世城郭が混在した造りになっています。また、東北の城では珍しく、本丸や麓には石垣が築かれています。
城歩き
先に述べた通り、二本松の城下町は丘陵の南にも拡張されたため、奥州道中に面した久保丁口に大手門(通称:坂下門)が設けられました。予算の問題から9代藩主の丹羽長富の代に築かれたので、現在残されている石垣は新しい工法の亀甲積みです。
峠部分(?)
大手門跡から坂を上って下ります。城に着くまでに疲れそう。遠く白旗ヶ峰の山頂に本丸石垣を望むことが出来ました。
戒石銘
白旗ヶ峰の麓には旧二本松藩の戒石銘がありました。5代藩主の丹羽高寛が藩士としての戒めを刻ませたものです。
三の丸石垣
三の丸の高石垣は加藤家時代に築かれました。ただ、石積みがきれいすぎる箇所もあるので、近年一部積み直されたのかもしれません。また、築城当時から堀はありませんでした。
少年隊像
戊辰戦争にて急遽招集された少年隊62名も戦いに参加し、隊長と副隊長を除く14名が戦死しました。
虎口
入口は虎口になっており、右奥には箕輪門が設けられています。右手前には二重櫓がありますが、そもそも二本松城に櫓は一つも建てられていませんでした。近世大名の城で櫓がなかったのは逆に珍しいです。
箕輪門(復興)
箕輪村の樫の木を使用したので、箕輪門と名付けられたと伝えられています。現在の門は1982年(昭和57年)に復興再建されました。江戸時代の正保城絵図を見ると、本来は櫓門ではなかったようです。
帯曲輪とアカマツ
箕輪門を過ぎると帯曲輪が広がっています。門北側の石垣上にはアカマツが植えられており、土塀の代わり果たしていました。二本松藩の財政は厳しかったかもしれません。
虎口
城内を進むには、更に虎口を通る必要があります。
三の丸下段
三の丸下段は今でこそ何も無い広場ですが、江戸時代には御殿が建てられていました。
また、明治時代には製糸工場が建てられていました。元二本松藩士の山田脩は二本松製糸会社創立に参画し、製糸会社が解散すると工場を譲り受けて、双松館として1925年(大正14年)まで操業しました。後に二本松町長にもなり、郷里の発展に尽くしました。
双松館 出典:国立国会図書館ウェブサイト(https://dl.ndl.go.jp/pid/763455/1/55)
三の丸上段
三の丸上段には、かつて藩主の住居がありました。今は盆踊り会場みたい。
登城道
本丸への登城道は整備されていて歩きやすいです。また、所々に案内板が立てられていて、現在地が分かりやすかったです。二本松市、グッジョブ。
二本松藩士自尽の地
ここで、家老の丹羽一学、小城代の服部久左衛門、郡代の丹羽新十郎が責任を取って自尽しました。
立て看板図
藩士自尽の碑を通り過ぎ、西にある松森館と硝煙蔵にも立ち寄ってみます。
松森館
二本松城が会津の支城だったときに、城代が東西にそれぞれ置かれた時期があり、松森館はその東城にあたります。残念ながら立入禁止だったので、道から松森館を眺めるにに留めました。
硝煙蔵跡
2003年(平成15年)の発掘調査で、直方体の花崗岩を長方形に並べた建物跡が3棟見つかりました。そのうちの2棟は硝煙蔵だったと推定されています。
日陰の井戸
今でも水が湧き出ている(という)日陰の井戸。日本の三井とのことですが、誰が決めたんか謎や?
本丸下南面大石垣
圧倒されること間違い無し。その高さは13メートル、のり長は17メートルにも及びます。会津支城時代に蒲生氏によって築かれた、この城で最も古い石垣の一つです。
乙森
畠山氏時代に使用された本丸下にある平場です。蒲生氏時代に大規模に削平、盛土整地されました。現在は駐車場になっており、ここまで車で上ってくることが出来ます。
本丸
本丸石垣は蒲生氏時代(慶長期)に築かれ、加藤氏時代(寛永期)に拡張されました。
廃城後は次第に荒廃し、1953年(昭和28年)に入口部分(⑪⑫)は修復されたものの、北東面(②~⑥)は崩落滅失している状況でした。現在の見られる石垣は、1991年(平成3年)に発掘調査が行われ、1995年(平成7年)までに修築・復元されたものです。
本丸石垣
本丸周囲を時計回りで一周しました。修築・復元されたものとはいえ、とても立派なものです。また、本丸の北に蒲生氏時代の本丸石垣の一部が移築展示されていました。
本丸内部
内緒ですが、1958年(昭和33年)に三五教(あなないきょう)が本丸に天文台を建てたという裏歴史があります。
「あなない教信者と町民の協力によって完成した天守台は、白旗ヶ峯の山頂霧ヶ城跡の石垣の上に、反り屋根白壁の、三階建ての天守閣ふう建物である。」
作家の佐藤愛子さんがこの騒動を「あなない盛衰記」として執筆されていますので、興味のある方は一読してみてください。
貴重な幻の天守(天文台)の写真は余湖さんのHPに載っていますので、リンクを張っておきます。
自尽の碑
天守台の横に建てられた二本松藩士の自尽の碑。城代の丹羽和左衛門、勘定奉行の安部井又之丞は燃え上がる御殿を眼下に自尽しました。
天守台
二本松城には天守は築かれませんでしたが、ここからの眺めが絶景なんです。
これが「ほんとの空」だ。
天守台下西面二段石垣
天守台下の西面には、二段石垣が築かれていました。上段の高さが3.5メートル、下段の高さは3.9メートルあり、間に犬走りが走っています。南面大石垣と同様に、この城で最も古い石垣の一つです。
とっくり井戸
入口より内部が広いフラスコ状の石組みの井戸です。確認はできないけど。
搦手門跡
蒲生氏時代には屋根なしの掘立柱の門、加藤氏時代に石垣を築き、高麗門を設けたと考えられています。
新城館
二本松城が会津の支城だったときに、城代が東西にそれぞれ置かれた時期があり、松森館はその西城にあたります。新城館は中世山城時代には本城的役割を果たしていました。
二本松少年隊顕彰碑
ここは少年隊が稽古に励んだ場所であり、碑の裏には隊長、副隊長、少年隊62名の名が刻んであります。
智恵子抄詩碑
彫刻家であり詩人の高村光太郎の妻・智恵子の生家は二本松の酒蔵でした。築城の際に牛を生贄にしたという牛石に、詩集「智恵子抄」に収められた「樹下の二人」の有名なフレーズが刻まれています。
「あれが阿多多羅山、あのひかるのが阿武隈川」
二合田用水
一見ただの溝のように見えますが、初代藩主である丹羽光重の命により施設された用水路であり、安達太良山中腹から18キロに渡り水を引いています。こういう技術には思わず感心してしまう。
感想
戊辰戦争の悲劇が色濃く残る城跡でした。天守台からの安達太良山の眺めは最高です。
一方、城の調査・整備が進められていることに感心しました。特に本丸下の古い石垣は石垣マニア必見ですよ。