大瀬川と五ヶ瀬川に挟まれた川中島に築かれた延岡城。一二三段状に石垣が築かれ、特に二の丸北面の高石垣は「千人殺し」と呼ばれていました。
2024年2月登城
満足度:★★★★★
歴史
延岡は、かつて懸(あがた)と呼ばれ、豪族・土持家の所領でしたが、島津家についた土持家は豊後の大友宗麟によって滅ぼされました。その後、豊臣秀吉の九州征伐によって島津家は降伏し、懸(延岡)には1590年に秀吉の命を受けた高橋元種が5万国で入封しました。関ヶ原の合戦後、元種は大瀬川と五ヶ瀬川に挟まれた中州に築城を開始し、1603年に延岡城が完成しました。
しかし、1613年に高橋元種は罪人を匿った罪に問われて改易となり、翌1614年に島原から有馬直純が入封しました。直純は延岡城を整備し、このとき三階櫓や櫓門が建てられました。また、このとき地名が、懸から延岡に改められたと考えられています。
有馬家は78年間統治しますが、三代目・清純の代に領内の百姓が逃散する事件が起き、これが原因で清純は転封させられました。その後、下野壬生から三浦明敬が、次は三河国吉田から牧野成央が入封し、目まぐるしく城主が交代しました。
1747年に陸奥磐城国平から内藤政樹が入封し、以後明治維新までの123年の間、内藤家が延岡藩を納めました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR宮崎駅から延岡駅まで特急で約70分。延岡駅から北大手門まで徒歩25分。
縄張図
延岡は古くから水郷として知られ、延岡城は五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた川中島に築かれました。城域の東と西に丘陵があり、東に本丸と二の丸、西に西曲輪を設けました。藩主は主に西曲輪で暮らしていたそうです。
城歩き
延岡駅から延岡城を目指すと、五ヶ瀬川に架かる橋を渡ることになります。高橋元種の時代は川に橋が架けられておらず、この板田橋が最初に架けられた橋でした。
三階櫓跡
城趾に近づくと、櫓台の石垣を仰ぎ見ることができます。この櫓台にはかつて天守代わりの三階櫓が建っていました。城下町から目立つところに三階櫓(天守)を置くのは大名の鉄則ですね。
北櫓台
丘陵の北側裾野にある北櫓台。櫓台前の遊歩道は当時は堀であり、北櫓台は堀に突き出すように築かれていました。ただ、櫓は建てられていなかったようです。
大手道
当時の北大手門への道には折れが入っていましたが、現在は一直線になっています。とはいえ、道の左側の北曲輪の威圧感はなかなかのものです。
北大手門
城の表玄関である北大手門。廃城後に石垣のみ残っていましたが、1993年(平成5年)に復興復元されました。
北大手門東側石垣
北大手門の手前左には見事な高石垣が築かれています。また、石には様々な刻印が残っており、有馬家が延岡に入封した際に改修したものと考えられています。
内藤家墓所
北大手門の手前右には、藩主であった内藤家の墓所がありました。ただ、門は閉められており、参拝することは出来ませんでした。
二の丸石垣
城内に入る前に北大手門右手の二の丸石垣を散策してみました。石垣の際まで民家が立ち並んでおり、地震時の被害が心配になります。市でも石垣を補強しているようですが・・・
二の丸西櫓台
二の丸西櫓台は有馬家、三浦家時代の絵図には描かれておらず、牧野家以降の絵図には描かれています。言われてみれば、櫓台部分の石垣の積み方が他とは異なっているように見えますね。
二の丸入口
再び北大手門まで戻って、二の丸に入ります。階段の先にそびえ立つのが、有名な千人殺しの石垣です。
千人殺しの石垣
これが千人殺しの石垣です。高さ19メートル、法長22メートルもあります。初代城主・高橋元種による築城当初からの石垣で、次に城主になった有馬家によって改修されたと考えられています。
千人殺しの異名は、一番下の根石を外すと石垣が崩れ、千人の敵兵を殺すことができるということから名付けられました。これは内緒ですが、千人殺しと呼ばれるようになったのは、明治以降のようです。
石垣の根石
その千人殺しの石垣の根石はコンクリートブロックです。1935年(昭和10年)の天皇行幸の際に補強されましたが、その前には穴が空いていたとの話もあります。真相は藪の中ですね。
二の丸
二の丸は広場になっており、西側には井戸や櫓台もありました。また、1988年(昭和63年)までは児童遊園地があり、動物もいたそうです。
二階櫓跡
二の丸の西端には櫓台がありました。2重2階の櫓が明治初期まで残っていたそうです。
本丸への石段
本丸への石段は40メートル近くあり、左側には千人殺しの石垣が迫っています。非常時に石垣を崩すという仕組みが真実でしたら、この石段を通れなくするのが目的だったかもしれません。
本丸西曲輪
階段の突き当りの右側には、細長い曲輪がありました。
二階櫓跡
曲輪の端には、先程見上げた二階櫓跡がありました。石垣は金網で補強されていて、そのうち補修が必要になるかもしれません。
二階櫓門跡
本丸への入口は内枡形になっており、二階櫓門が建てられていました。
本丸
本丸は公園になっており、延岡藩最後の藩主・内藤政挙公の銅像がありました。
西曲輪
千人殺しの石垣上からの風景。奥に見えるのが、旧西曲輪に建てられた内藤記念博物館です。
天守曲輪
延岡城に天守は建てられませんでしたが、天守曲輪があります。当時の入口が残っていましたが、残念ながら通行禁止でした。
鐘撞き堂
現在の鐘は二代目ですが、オリジナルは延岡藩主であった有馬康純が今山八幡宮に寄進したものでした。
三階櫓跡
本丸から三の丸に下りる途中、櫓台の石垣がありました。延岡城の三階櫓は天守代替だったので、城下から目立つこの場所に建てられました。
吹上坂
本丸から三の丸へはつづら折りの道があり、吹上坂と呼ばれていました。この辺りの石垣は有馬家によって整備され、布積みで築かれています。
三の丸
延岡城の三の丸は城の東にあり、二の丸の三分の一ぐらいの広さしかありませんでした。現在は日本庭園が復元されています。
石御門跡
三の丸の搦手には、岩盤を削った石御門が設けられていました。非常時の避難路ですが、平時は通用口として使用されていました。
北曲輪
三の丸から北大手門に向かうと、北曲輪があります。延岡で高等小学校・中学校時代の8年間を過ごした若山牧水の碑がありました。
「なつかしき 城山の鐘鳴り出でぬ 幼かりし日 聞きしごとくに」
北大手門と内藤家墓所
北曲輪から俯瞰した北大手門と内藤家墓所。やはり北曲輪は敵を撃退するのに絶好の場所のようです。
千人殺しの石垣
千人殺しの石垣まで戻ってきました。やはり凄い石垣です。
感想
最大の見所は何と言っても千人殺しの石垣です。他の箇所も整備が進んでいて、石御門跡などが発掘されたのも嬉しかったです。次は三階櫓跡にも入りたいですね。