戊辰戦争で攻城戦が繰り広げられた会津若松城。白虎隊の悲劇でも有名です。城は壮大な堀と堅固な石垣で囲まれており、白亜の天守がとても美しかったです。
2019年11月登城
満足度:★★★★★
歴史
会津若松城の前身は南北朝末期に葦名直盛が築いた黒川城です。以後蘆名家の居城として拡張されましたが、1589年に摺上原の戦いで伊達政宗に大敗し、蘆名義広は常陸に敗走しました。これにより会津は伊達家の支配下となりましたが、惣無事令に反していることを理由に豊臣秀吉に没収されました。
1590年に伊勢松坂から蒲生氏郷が42万石で入封し、城下町の構築と同時に近世城郭として大改修されました。この時、7重の天守が建てられました。しかし、1595年に氏郷が40歳の若さで病没すると、その3年後に息子の秀行は宇都宮に移封されました。
1598年に越後高田から上杉景勝が120万石で入封しました。しかし、1600年の関ケ原合戦後、米沢に30万石で転封になりました。まあ、家康の会津征伐が関ケ原合戦の引き金になりましたしね。
1601年に蒲生秀行が再び会津に60万石で入封しますが、11年後に30歳の若さで病没。子の忠郷も25歳で亡くなり、蒲生家は断絶しました。
1627年に松山から加藤嘉明が40万石で入封しますが、4年後に死去し、息子の明成が跡を継ぎました。明成は天守を5重に改築、西出丸と北出丸を増築しました。しかし、重臣との争いがきっかけで、加藤家は石見1万石へと大減封されました。
1643年に2代目将軍・徳川秀忠の庶子である保科正之が山形から23万石で入封しました。正之が1672年に亡くなると、その子正経、ついで正容が跡を継ぎ、正容の代に松平の姓与えられました。以後、松平家が9代続きました。
歴代の城主が大物ばかりで、いかに会津の地が重要視されたか分かりますね。
戊辰戦争
幕末の1852年に松平容保が9代藩主となり、1862年には京都守護職を命じられ、京都の治安維持に努めました。このことにより、尊王攘夷派から恨みを買うことになりました。
1868年1月にに鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は薩長連合に大敗し、容保は朝敵とされ、新政府軍から標的とされました。東北諸藩は奥羽列藩同盟を結び新政府軍に対抗しましたが、次々に敗北し、8月には会津若松城を包囲されました。孤立無援の中で耐え抜きましたが、ついに1ヶ月後に開城しました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR郡山駅から磐越西線で快速で65分、会津若松駅下車。会津若松駅から、まちなか周遊バス「ハイカラさん」で20分、鶴ヶ城入口で下車。
会津若松は内陸部にあるので、東京・大阪からは少し行き難いです。駅からは、まちなか周遊バスの利用が便利です。一日乗車券もありました。
城歩き
縄張り図
会津若松城は、本丸の北と西を出丸で、東を二の丸で囲まれています。南には湯川が流れており、天然の防御となっています。
「ハイカラさん」で鶴ヶ城入り口で下車し、大手門のある北出丸から入城しました。
北出丸
北出丸は加藤嘉明により、本丸防御のために造られました。小規模だと馬出しですが、これほどの大きさは出丸と呼ばれます。
北出丸大手門跡
内部は枡形になっており、石垣が巨大な切石で積まれています。この大手門を攻める敵に対して、北出丸・本丸・二の丸の三方から攻撃できる縄張りになっています。北出丸の別名は「みなごろし丸」。
太鼓門跡
北出丸から本丸に向かう椿坂を上ると、太鼓門(大手門)が立ちはだかります。太鼓門を抜けると、帯曲輪に出ます。
武者走り
これは太鼓門の枡形裏の武者走り。素早く石垣に上れるようにV字型に階段が築かれています。
天守(復元)
帯曲輪から見上げる白亜の天守。造りは5重5階の層塔型であり、この圧倒的な存在感は感動もの。
天守台
天守台の石垣は野性味溢れる野面積みです。蒲生氏郷時代のものになります。
表門(復元)
帯郭から本丸へと通じる表門。扉と柱が鉄板で覆われていることから、鉄門(くろがねもん)とも呼ばれます。
本丸から眺める天守と走長屋。厳しい冬の寒さに耐えられるように釉薬が塗られた赤瓦が使用されており、白と赤の対比が美しい。1648年頃に保科正之が赤瓦に葺き替えとされ、2011年(平成23年)に当時に合わせて黒瓦から赤瓦に葺き替えられました。
本丸御殿 大広間跡
現在はただ芝生が広がるのみですが、かつては本丸御殿が建てられていました。太平洋戦争後の一時期、なんと競輪場が設けられていました。
天守からの眺め(小田山公園方面)
天守内には戊辰戦争関連の資料が多数展示されています。
会津若松城は会津盆地の南東隅に位置しており、新政府軍は城の南東にある小田山から激しい砲撃を加えました。時代が進み、大砲の射程範囲に入ってしまったんですね。
走長屋・鉄門・南走長屋・干飯櫓
本丸と帯曲輪を隔てる鉄門と走長屋。南走長屋と干飯櫓は2001年(平成13年)に再建されました。ちなみに走長屋内部は土産物売り場になっています。
北出丸方面
先程通ってきた太鼓門跡と北出丸方面。枡形の石垣がまるでブロックみたい。
西出丸方面
現在西出丸は駐車場になっています。後で行ってみましょう。
帯曲輪からの天守
天守から下りて再び帯曲輪へ。ここから見上げる天守も映えますね。
西出丸
西出丸にも行ってみました。現在は駐車場になっていますが、しっかり石垣で囲まれていました。
廊下橋門跡
帯曲輪から二の丸へは、廊下橋門跡の枡形を通ります。加藤明成の改修まではこちら側が正門であり、有事の際にはこの廊下橋を落とす仕組みになっていました。
高石垣
廊下橋付近の高石垣はこの城の見どころのひとつです。水面からの高さは20mを超え、圧倒されること間違い無し。
二の丸跡
つい最近までテニスコートがあったみたい。現在は芝生で立ち入り禁止ですが、芝生の先に土塁が見えます。
二の丸東門跡
二の丸と三の丸を繋ぐ門跡です。当初はこちら側が正面口でした。
二の丸の土塁と堀
二の丸の門周辺は石垣で固めていましたが、二の丸の大半は土塁でした。東北の城って感じですね。
三の丸の南門土塁
三の丸には県立博物館や競技場が建てられ、城の面影が少ないのですが、南門の土塁がわずかに残っています。
感想
なんといっても、白亜の天守が素敵すぎます。縄張りもよく考えられていて、一ヶ月の籠城に耐えたのも理解できます。堅固な枡形石垣と廊下橋周りのの高石垣は必見です。