大分駅から歩いて行ける府内城。現在の姿からは想像できませんが、当時は海に繋がる平城でした。近年改変されているところも多々ありますが、あちこちに工夫がみられる面白い城ですよ。
2022年8月登城
満足度:★★★★★
歴史
1593年の豊臣秀吉による大友家改易に伴い、1597年に石田三成の娘婿の福原直高が府内(今の大分市)に入封します。直高は「荷落(におろし)」と呼ばれていた大分川河口に城を築き始め、2年後に本丸・二の丸・三の丸が完成し、縁起を担いで「荷揚(にあげ)城」と名づけました。
しかし秀吉の死後、福原直高は徳川家康に領地を没収され、関ケ原合戦後に豊後高田から竹中重利が移封しました。重利は4重天守を建てるなど、城内の増改築と城下町の建設を進めました。息子・重義が跡を継ぎますが、不正を働いたとして死罪となり、竹中家は改易されました。
1614年に下野壬生から日根野吉明が入封しました。吉明は初瀬井路などの用水路を開削し、農地に水を供給しました。このように領民から名君として慕われましたが、嫡子なく廃絶しました。
1658年に吉明の義理の甥だった松平忠昭が豊後高松から入封し、大給松平家が幕末まで城主となりました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR大分駅から北西に徒歩15分。平城で高い建物が無いせいか、街中に突然城跡が現れる感じです。
縄張図
築城当時の大分川下流には海水が入ってきており、港湾として整備されていました。つまり府内城は海城だったわけですね。本丸外側には2重、3重に堀と土塁が囲んでおり、現在の大分駅手前までが城域でした。
本丸部分アップ
本丸部分は、本丸、東の丸、西の丸で構成されていましたが、大正時代に後の県庁舎を建てるため、本丸石垣が壊され、内々堀も埋め立てられました。非常に残念な改変です。
城歩き
西の丸角櫓から多門櫓門まで
大分市役所から西の丸の堀沿いに大手門に向かいました。
西の丸角櫓
西の丸角櫓は1945年(昭和20年)の空襲で焼失しますが、1965[年(昭和40年)に復元されました。府内城の櫓に共通することですが、面白い特徴があるんです。
西の丸角櫓(裏側)
西の丸角櫓を裏から見ると、一本柱で支えられています。これは櫓台を築いていないためで、当時はここにも櫓部分がありました。つまり外からだと2階建て、内からだと3階建てだったわけです。どうせ復元するのなら、こういうところにも拘って欲しかった。
西の丸角櫓塀
また、西の丸角櫓の両側の白塀には、当時板塀が設けられている箇所がありました。これは籠城時に板塀を外し、大砲を設置するためだったと言われています。現在でもよく見ると、板塀が立てやすいように平らな石が並べてあります。
宗門櫓(現存)
宗門人別改帳(江戸時代の戸籍簿)が保管されていた宗門櫓。江戸時代からの現存の櫓です。外からだと平櫓に見えますが、内側からだと・・・
宗門櫓(裏側)
やはり櫓台がないため、内側からだと2階建てです。2階の入口までどうやって上ったんだろと思いましたが、当時は手前に石段があったそうです。
大手入口
大手入口は桝形になっており、多聞櫓門と着到櫓が建てられています。また、現在は土橋になっていますが、当時は廊下橋が架けられていました。大手入口が廊下橋だったというのは珍しいケースです。
多門櫓門
大手門にあたる多門櫓門。廃城後も残っていましたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、1966年(昭和41年)に再建されました。古写真を見ると、明治以降は櫓の屋根に鐘楼が設けられていたようですが、流石にそれは再現されてないですね。
本丸方面
ガランとだだっ広い城内。北側には本丸櫓台と天守台を直接見ることができます。当時は堀と本丸石垣があったんですけどね。かなり残念な改修です。
着到櫓から廊下橋まで
多門櫓門から一旦出て、堀沿いに城を眺めながら廊下橋に向かいます。
着到櫓
東の丸の南西隅に建てられた着到櫓。大手口に殺到する敵を横から攻撃するための拠点です。1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、1966年(昭和41年)に再建されました。
平櫓(?)
東の丸の南東隅の平櫓(?)。こちらも1966年(昭和41年)に建てられましたが、着到櫓と違って古写真等は残っておらず、模擬復元ですね。元は平櫓だったのに2重櫓で再建されており、あちゃーと言った感じです。
三階櫓跡
東の丸の東側には、府内城で唯一の三重櫓が建っていました。櫓台は無く、城内から見ると4階建てでした。なんかもったいないような気もしますね。
帯曲輪跡
府内城は本丸が船から直接攻撃されることを防止するために、本丸東側に防波堤のような帯曲輪を築いていました。現在は遊歩道になっていますが、その名残が残っています。他の城では見かけない縄張りです。
水手口
東の丸の生け垣部分には、内堀につながる門と石段があり、いざという時の緊急避難路でした。当時の石垣の高さは2メートル位だったと考えられています。寛保3年(1743)の大火で天守を始めとする建物が焼失した際、重要書類はここから船で運び出されました。
扇櫓跡
本丸北東には扇形の櫓が建てられていました。ここは鬼門(北東)にあたるため、わざと鈍角にして鬼門除けの工夫が取られています。
人質櫓(現存)
江戸時代から残っている現存の人質櫓。宗門櫓と共に府内城のに残る貴重な建物です。
北の丸(現 松栄神社)
遊歩道の終点が北の丸になります。現在は松栄神社が建っており、南堀以外は埋められて陸続きになっています。
猫
余りに堂々とした猫がいたので思わずパチリ。逃げる気配まるでなし。
北の丸からの人質櫓
天守台の下には人柱になったと伝えられているお宮を祀った祠があります。以前は石垣下の犬走りを通ってお参りできたのですが、犬走りに下りられなくなっていました。ちなみに府内城の犬走りは江戸時代には無く、近代に造られたものです。
廊下橋から天守台まで
最後に廊下橋を渡って、天守台へと向かいます。
廊下橋
北の丸と西の丸を結ぶ廊下橋。1996年(平成8年)に再建されました。
府内城には他にも大手口と東の丸にも廊下橋が架けられていました。これらは籠城時に橋を壊すためでしょうが、土橋のように堀の水を堰き止めず、流れ易くする意図もあったのではないかな(推測です)。
桝形跡
廊下橋を渡って西の丸に入ると、通路は右に曲がり、当時は冠木門がありました。今は礎石が残るのみ。
本丸桝形跡
西の丸から本丸に入るには、当時は桝形があり、高麗門と櫓門が設けられていました。正面には桝形石垣や内堀があったはずですが、見事なまでに何も残っていません。
北二階櫓台
桝形の左には2重櫓が建てられており、その櫓台が残っています。天守に入るためには、この北二階櫓か東大櫓門に登り、渡櫓を通る必要がありました。
天守台
府内城には4重天守が建っていましたが、1743年の大火で焼失し、以後再建されませんでした。ただ、現在も残る天守台は大変立派です。
感想
マニア向けな見所いっぱいの城でした。一本柱で支えられている櫓なんて、他の城ではまず見られませんよ。ただ、近代の改変が多く、本丸石垣が崩されているのはとても残念です。大分市でも、本丸の地形及び石垣の整備を検討しているようなので、気長に待っています。