角埋山に築かれた難攻不落の角牟礼(つのむれ)城。島津軍の侵攻に耐えたことでも有名です。穴太積みの石垣が見つかったことが契機となり、近年注目されています。
日本続100名城
2022年5月登城
満足度:★★★★★
歴史
角牟礼城は戦国期には豊後大友氏に属した森氏の居城でした。1586年に薩摩島津氏が豊後大友氏に攻め込んだ際にも、角牟礼城は最後まで落ちず、その堅固さを証明しました。
しかし、1593年の豊臣秀吉による大友家改易に伴い、森氏は角牟礼城を離れます。代わりに1594年(文禄3年)頃に豊臣家臣の毛利高政が日田・玖珠郡に入部します。現在残る角牟礼城の石垣も、高政によるものです。
関ケ原の合戦後、西軍についた毛利高政は佐伯に転封し、1601年に来島長親が1万4千石で玖珠に入封します。来島氏は村上水軍の一族でしたが、西軍についたため、内陸の玖珠に陸流し(?)されたことに依ります。
長親は森藩の初代藩主となりますが、小藩のため城を持つことが許されず、麓に陣屋を築き、角牟礼城を廃しました。
こぼれ話
国指定史跡である角牟礼城ですが、つい最近まで忘れかけられていました。
1975年、歴史作家・司馬遼太郎氏は由布院・日田を訪ねるついでに角牟礼城にも立ち寄ろうとしましたが、村役場に問い合わせても詳細が分からず、麓の末廣神社の石垣を発見して想像を巡らせます「街道をゆく(熊野・古座街道、種子島みち他)」
1992年(平成4年)に当時国立歴史民俗博物館の助手だった千田嘉博氏がたまたま角牟礼城を登城し、石垣が穴太積みであり、良好に残っていることを発見します。それを契機に翌年から発掘調査が実施され、西門跡から櫓門の礎石が見つかりました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
最寄り駅はJR豊後森ですが、日田と由布院の間と言ったほうが分かりやすいかもしれません。大分駅から豊後森駅まで特急で70分。
駅からは「わらべの館」を目指します。まちなか循環バスで10分か25分。ただ、このバスは1日8便しか無く、西回りと東回りで所要時間も変わってきます。電車の到着時刻とも合わなかたので、いつものように歩いて向かいました。徒歩30分。
登城の道
わらべの館
駅から歩いて30分で「わらべの館」に着きました。2階にひっそり「豊後森藩資料館」があり、そこで続100名城のスタンプを押すことが出来ます。
わらべの館裏
わらべの館の裏から角牟礼城に向かいます。右奥に見えるのが角埋山。あそこまで登るのか・・・
久留島陣屋跡
久留島武彦は9代藩主・久留島通容の孫であり、児童文学者として活動しました。現在童話碑の建っている辺りに久留島陣屋がありました。
藩主御殿庭園
陣屋跡の西側には、巨石を大胆に配した庭園が残っていました。
御長阪
陣屋跡から末廣神社への参道にあたる御長阪。まるで城壁の上を歩いているようですごい。何も知らなかったら、この石垣を角牟礼城と勘違いしそう。
栖鳳楼
8代藩主・通嘉が建てた栖鳳楼。紅葉の御茶屋というだけあり、壁が朱色なのが渋いです。眺めが素晴らしいようですが、中には入れませんでした。
末廣神社は初代藩主・康親が伊予大三島の三島宮(現大山祇神社)を勧請したことに始まります。久留島(来島)氏が元水軍だったという歴史の痕跡です。
登城口
神社の裏手に角牟礼城の登城口があります。すでに若干疲れていますが、ここからが本当のスタートです。
急坂
少しの間ゆるい山道が続きましたが、急坂が現れました。こういう直線の坂が一番つらいね。時折脇に崩れた石垣があり、いつの時代のものだろうと気になりました。
石段
途中で急坂から石段にチェンジ。階段の方が急坂よりは少しましということを学びました。ただキツイけどね。
山道
石段が終わると右に左に蛇行する山道が続きます。途中からトラロープが張ってあり、そのロープ沿いに上っていきます。もしロープが無かったら、間違いなく迷いそう。
到着
石垣が垣間見え、二の丸と三の丸の間に到着しました。登城口から休みながらで26分。元気な人なら20分で登れると思います。ただ、雨の日は絶対止めておいたほうが良い。
縄張図
角牟礼城が築かれた角埋山は周囲が急な崖になっており、北東西から攻めることは困難です。唯一の攻め口である南面には、三の丸、二の丸を配置して守りを固めていました。また、数年前まで大手は西側とされてましたが、南側に修正されました。地形や縄張り的にもその方が自然だと思います。
城歩き
道標
まずは三の丸へと向かってみます。帰りにはまた末廣神社まで下りなきゃいかんのか・・・
竪堀
斜面に垂直に掘られた竪堀がありました。これは敵の横移動を邪魔することを目的とし、山城で見られる縄張りです。現地で見るとなるほどって思うけど、写真で見ると分かり難いですね。
三の丸
道路で一部壊されていますが、三方が石垣で囲まれた曲輪です。石垣が妙にきれいなのは、2012年(平成24年)に解体修復されたからですが、その際に石垣に積み直しの痕跡が見つかりました。内部からは江戸時代の肥前染付碗も見つかっており、森藩が隠れて修復していたようです。
三の丸内部
三の丸内には石がごろごろ転がっています。秀吉の命で毛利高政が入封したときは、知らない土地で周りは敵だらけ。とにかく最優先で三の丸石垣を築いたのかもしれません。
登り石垣
斜面に沿って上方へと築かれた登り石垣もありました。ただ、麓からの石垣ではなく、三の丸の斜面部分の石垣です。
つづら折りの道
三の丸から本丸にかけて、つづら折りの道を上って行きます。基本的に一本道になります。
二の丸石垣
突如現れた高石垣に圧倒されます。この石垣を築いたのも毛利高政で、中世城郭だった角牟礼城に当時の最新技術を導入しているのが分かります。この石垣の積み方が穴太積みということで注目を浴びました。
二の丸南虎口石垣
東へと80メートルに渡って築かれた石垣。ミニミニ万里の長城といったところでしょうか。二の丸内には絶対敵を入れないとの強い意志を感じます。
二の丸南虎口
道はぐるっと180度曲がって上に続いており、攻める側は側面を防衛側に向けざるをえません。
大手門跡
1993年(平成5年)から発掘調査では二の丸南に櫓門の礎石が発見されました。
当時はこの大手門を経由するルートだったのでしょうが、現在はこの門跡を通らない道しかありません。ちなみに数年前までこの門は伝搦手門と表記されていましたが、続日本100名城に選定された頃(2018年頃?)から、大手門と修正されています。
井戸跡
大手門跡から二の丸に入ってみると、水を溜めた井戸がありました。水は城の生命線なので、櫓門を構えてまで死守するのも理解できます。
二の丸西曲輪石垣
元の道に戻って先に進むと、二の丸西曲輪の石垣が現れました。大手門を破って攻めてきた敵を迎え撃つための防衛線になります。二の丸南虎口の石垣に比べると石が小粒です。
二の丸西曲輪
角牟礼城で一番広い二の丸西曲輪。曲輪内からは建物の礎石が見つかっており、ここが主曲輪だったようです。長く二の丸と伝えられてきましたが、2018年(?)から二の丸西曲輪と修正されました。
西門跡
二の丸西曲輪の北側、角牟礼城全体で見ると西側から、平成の発掘調査で櫓門の礎石が発見されました。つまりここには櫓門が構えられていた訳です。長く大手門と伝えられてきましたが、2018年頃から西門と修正されました。
二の丸西虎口
先の西門が大手門とされてきたのは、この虎口石垣が立派過ぎたためでしょう。虎口は外枡形になっており、斜面に石垣が設けられています。
ただ最大の謎は、わざわざ急斜面の西面に虎口を設けたのに、ここから続く道が無いことです。もしかしたら、後から道を造るつもりが、毛利高政が転封してしまい、手つかずのまま廃城になったからかもしれません。
本丸への道
改めて西門跡から本丸に向かいます。角牟礼城の道はよく整備されているので、まず迷うことはありません。途中に斜面を削って崖にした切岸も見られました。この辺は中世の山城の面影が残っています。
本丸への近道
本丸へと一直線に上る近道もありましたが、保護のため通行不可でした。もちろんこの道は近年作られたものです。
角牟礼神社と竪堀
途中にある角牟礼神社には不動尊が祀られています。この付近でも斜面に竪堀がありました。
展望所
登城路の折り返し地点にある展望所。特に広場やベンチがあるわけでもないですが、見晴らしがいいですね。
本丸
遂に本丸に辿り着きました。周囲は土塁に囲まれ、北面には石垣が築かれていました。山頂にありますが、木々で見晴らしはあまりよくないのが残念。
本丸南虎口
本丸南には階段状の虎口がありました。訪問時はブルーシートが敷いてあり、作業道になっていました。二の丸の虎口と比べると、流石に規模が小さいですね。
本丸北側
本丸には北側のみ石垣が築かれていますが、修復工事中でした。横から覗き込んだところ、櫓台を見ることが出来ました。
感想
中世と近世のハイブリッド型の山城でした。麓から歩いて登るのは大変だけどその価値はありました。特に二の丸の石垣は見応えがありますね。麓の御長阪も見流さないようにね。