島原・天草の一揆の主戦場となった原城。激しい籠城戦の末に一揆は鎮圧されましたが、幕府が鎖国に踏み切るなど、日本の歴史に大きな影響を及ぼしました。近年の発掘調査により、十字架やロザリオが見つかるとともに、埋もれた原城の構造も判明しました。
2021年4月登城
満足度:★★★★★
歴史
有馬家時代
現在残る原城は、1599年から有馬晴信が日野江城の支城として築きました。城の規模から推察すると、原城に移るつもりだったかもしれません。その後、晴信は詐欺に引っかかって死罪となり(岡本大八事件)、子の直純が後を継ぎますが、日向延岡に転封となります。
代わりとして、1616年に大和五條から松倉重政が島原に入封し、島原に新城(島原城)を築いたため、日野江城と原城は廃城となりました。
島原・天草の一揆
1637年、島原・天草領主による苛政やキリシタン弾圧、旧有馬・小西家の浪人の参加もあり、日本最大の農民一揆が起こりました。一揆勢は島原城と富岡城を攻撃するも落とすことが出来ず、原城に集結しました。
鎮圧には九州の諸大名が駆り出され、幕府からは上使として譜代大名の板倉重昌が派遣されます。重昌は12月に2度の総攻撃をかけるも失敗し、後任として老中・松平信綱が派遣されたことを知ります。年明けの総攻撃も失敗し、重昌自身も戦死しました。信綱が現地に着いたのはそのわずか3日後でした。
指揮を引き続いた松平信綱は兵糧攻めを選択し、徐々に一揆勢を追い詰めます。そうして城内の食料が尽きたことを確認すると、2月28日の総攻撃で一揆を鎮圧しました。立て籠もった一揆勢3万7千人の多くが処刑されました。
その後の原城
島原・天草一揆の後、幕府は原城を徹底的に破壊しました。石垣を崩して土で埋めるという念の入れようで、城の痕跡を残しませんでした。その後、城域の大半が林や畑となり、忘れされました。
長年、松倉重政が島原城を築いた際に原城の石材を転用したと伝えられてきましたが、埋まっていたためそのように見えたというのが真実のようです。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
陸の孤島とまでは言いませんが、結構遠いです。
博多駅から諫早駅まで、リレーかもめと西九州新幹線を乗り継いで1時間30分。諫早駅から島原まで、島原鉄道で1時間10分。熊本からフェリーを利用した場合、熊本港から島原港まで60分、港から島原港駅まで徒歩5分。
それぞれの駅前のバス停から、島鉄バスで加津佐前浜海水浴場行きに乗って、原城前停留所で下車します。島原駅から55分、島原港駅から45分。バスは1,2時間に1本しかないので要注意。
島原鉄道とバスを使うなら、土日祝限定ですが「島原半島周遊パス」を利用するとかなりお得です。
城歩き
原城は三方が海に囲まれており、本丸・二の丸・三の丸が南北に並ぶ、連郭式の縄張りでした。一揆勢は籠城にあたり、有馬氏の本城だった日野江城ではなく、この原城を選択しました。
原城入口
バス停「原城前」で降りて、原城に向かいます。二の丸と三の丸の間に横から入る感じですね。ちなみに車の方も同じ道を通ります。
板倉重昌の碑
道の途中にある板倉重昌の碑。重昌は討伐軍を指揮しますが、後任として老中・松平信綱が派遣されたことを知り、覚悟の総攻撃で戦死しました。実は信綱が選ばれたのは重昌が島原に着く前であり、幕府がただの農民一揆ではないと認識を改めたからですが、重昌の武士としての誇りが許さなかったのでしょう。
全体図
城の北端まで一旦行ってから、戻るような形で城を歩いてみます。この先にある「原城温泉 真砂」では温泉に入ることも出来ますので、時間があればぜひどうぞ。
大手口跡
現在は真っ直ぐ道が通っていますが、当時は内枡形になっていました。一揆後には大量の石で埋め立てられ、人骨や銃弾も見つかっています。
三の丸跡
道路を挟んだ左右に三の丸跡が広がっています。三の丸には石垣はなく、土塁で守られていました。過去を知らないと、普通の畑にしかみえません。のどかだ。
二の丸跡
二の丸は城の中央に位置し、最も激しい戦闘が行われた場所でもありました。二の丸にも石垣は無く、丘陵の崖を利用した縄張りなのが分かります。
世界遺産の碑
2018年に原城を含む12の構成資産が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。
本丸方面
本丸左手は窪地になっており、当時は蓮池と呼ばれる池がありました。これが城内の水源としても利用されました。
本丸右手には幅広い空堀があり、戦時には女子供が堀底に住んでいました。ちなみに西南戦争時にも、熊本城に籠城中の将校の妻子が空堀へ避難した記録が残っています。銃弾を避けるためには、空堀は有効な避難場所だったのでしょう。
ほねかみ地蔵
本丸入口前のほねかみ地蔵。一揆から約130年後の1766年、有馬願心寺の住誉上人と各村の庄屋達が敵味方の区別なく遺骨を集めて供養した地蔵塔です。
本丸図
本丸の縄張図です。原城は本丸にのみ石垣が築かれました。特徴的なのは枡形の巨大さで、なんと本丸の40パーセントを占めています。
大手正門跡
2005年(平成17年)の発掘調査で礎石や階段が発掘されました。門は櫓門だった可能性が高いですが、両脇の石垣が破却されているので断言はできません。
枡形内部
枡形内はとても広く、石がごろごろ転がっています。有馬晴信がここまで大きい枡形を築いた理由は見栄だったのか?
埋門跡
大手門の次にある埋門跡です。一揆後に幕府に破却され埋められましたが、発掘調査で石垣や階段が確認されました。
本丸門跡
本丸への最後の門跡です。櫓門が建っていたと考えられていますが、やはり一揆後に幕府によって破壊されてしまいました。
櫓台跡
本丸西側には櫓台があり、天守相当の三層櫓が建っていました。島原城が築かれる際に際に石材が持ち去られたと伝えられていましたが、実際には櫓を含めて残っていたようです。それにしても幕府による破壊が徹底していて、櫓台石垣の隅石が抜き取られています。
天草丸跡
本丸の南西先に築かれた天草丸。原城は各郭が独立して築かれており、天草丸は最前線でもありました。
天草方面の海
美しい天草の海。一揆勢はポルトガルの支援を期待していましたが、幕府からの要請を受けたオランダ軍艦から砲撃を受けました。
破壊された石垣
本丸内部には破壊された石垣が露出展示されていました。赤線部分が原城本来の石垣部分であり、青線部分は壊された後に築かれた石垣とのこと。
天草四郎像と墓
天草四郎時貞は本名を益田四郎といい、父は改易された小西行長に仕えていた益田甚兵衛好次で、宇土郡江部村で生まれ育ったと伝えられています。一揆時はまだ十代半ばであり、救世主的な存在に仕立て上げられました。
十字架のモニュメント
本丸の一角には、十字架のモニュメントが建てられていました。
池尻口門跡
本丸虎口の複雑さに比べて、こちらは単純な平虎口です。攻められにくい搦手に築かれているので、蓮池への水汲みの出入口だったのかなと。
池尻口門跡角石
幕府による破壊の跡がはっきり残っており、石垣隅には根石しか残っていません。
本丸石垣
門跡を出て左側に道があり、本丸石垣に沿って正門に戻ります。
石垣の破壊
原城の石垣は徹底的に破壊されています。突き崩した石を前方にどかし、更にまた突き崩すことを繰り返す徹底ぶりで、石は石垣内部の小石や土砂で覆われていました。また、崩された石垣の下からは多数の白骨が見つかっています。
感想
現在はのどかな風景が広がっていて、ここで日本有数の籠城戦が行われたとは思えません。近年の発掘調査により人骨や銃弾が見つかり、惨状が明らかになりました。今はただ冥福を祈るのみです。