鶴丸城とも呼ばれた鹿児島城は島津家77万石の居城でした。その造りは石高に反し、山麓に方形の本丸と二の丸を一重の石垣で囲んだ簡素な城でした。
2020年には御楼門が復元され、かなり見栄えが良くなりました。
2021年12月登城
満足度:★★★★★
歴史
鹿児島城は関ケ原の合戦後に島津家の本城として築かれました。徳川幕府に対する配慮から、一重の石垣と堀を設けた簡単な造りとし、天守も建てられませんでした。ただ、薩摩藩は独自の外城制度をとっており、鹿児島城では背後の城山に籠もることも想定していました。
江戸時代を通じて島津家の居城として機能しますが、明治に入ってから西南戦争の最終舞台となりました。1877年(明治10年)に私学校軍を率いる西郷隆盛は鹿児島から東京を目指し進軍しますが、熊本城を落とすことが出来ず、逆に官軍に押され始めます。和田越の戦いで敗れた西郷隆盛はついに軍を解散し、鹿児島に戻って城山に篭ります。しかし、官軍との戦力差は絶望的で、西郷隆盛が自決し西南戦争は終結しました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
本州最南端にある鹿児島は遠いのですが、九州新幹線が通って行きやすくなりました。
博多から鹿児島中央まで、「みずほ」なら1時間20分、「さくら」なら1時間40分。鹿児島中央駅前から路面電車又はバスに乗り、「市役所前」で下車し徒歩5分。
縄張図
城山(中世の上山城跡)の麓に本丸と二の丸を設け、三方を石垣で囲みましたが、堀は本丸にしかありませんでした。天守は建てられず、77万石の大名にしては非常に簡素な造りです。
薩摩藩では独自の外城制度をとっており、領内の城跡周辺に「麓(武家屋敷群)」を設け、防衛ネットワークを築きました。このように藩全域での防衛が考えられており、内城(鹿児島城)で敵を迎え撃つという意識は薄かったようです。
城歩き
磯街道を照国神社前交差点から北に歩いてみました。
幕末に活躍した西郷隆盛の銅像。鹿児島出身の彫刻家・安藤照が制作しました。NHKの大河ドラマもありましたが、坂本龍馬と並んで人気なのではないでしょうか。
歩道沿いの石垣
歩道沿いに低い石垣が続いています。当時の城の石垣かなんとも判断が付きません。
二の丸石垣
県立図書館が建っている区域は、鹿児島城の二の丸です。築城時から堀は無く、石垣が低く折れもないので、正直防御力は高くありません。
本丸石垣
本丸の石垣は二の丸のよりも一段高くなっていますが、それでも水面から7メートル位です。堀の幅は10メートルしかなく、これでは少々心もとないですね。やはり防御施設というよりも、館(役所)として築かれたのでしょう。
御楼門
日本最大の城門として、2020年に御楼門が木造再建されました。再建にあたり岐阜県から大扉用としてケヤキ材の提供を受けましたが、これは薩摩藩が過去に行った木曽三川の「宝暦治水」が契機の縁とのことです。宝暦治水は難工事であり、現場を指揮した家老・平田靭負は工事完成後に亡くなりました。
御楼門内側石垣
御楼門の内側石垣には、石材の縁を削った金場取残積みの技法が見られます。金沢城でも同様の技法を見ましたが、こちらは縁に漆喰を塗って白くしています。これは一種のお洒落でしょうか。
枡形
御楼門を通ると枡形になっています。通常は枡形正門に高麗門、城内側に櫓門を構えることが多いのですが、鹿児島城では正門に御楼門を構えています。御楼門を城外へ見せたかったのかと思います。
西南戦争の痕跡
枡形内の石垣には多くの弾痕が残されています。これは西南戦争の痕跡で、くぼみの奥に銃弾の破片が食い込んでいるのもあるそうです。
本丸内
現在の本丸には「鹿児島県歴史・美術センター 黎明館」がありますが、当時は所狭しと御殿が建てられていました。
御隅櫓跡
本丸南隅にある御隅櫓跡です。御隅櫓も再建の話があったとかで、復元されたら嬉しいな。
北御門跡
北御門跡から本丸を出たところ。現在はコンクリートの橋が架かっていて、少々味気ない印象。奥に見えるのが黎明館です。
本丸北石垣
石垣を横目に堀沿いに東に進みます。こうして見ると本丸・二の丸ともに直線の石垣で囲まれていて、シンプルな縄張りなのが分かります。
隅欠
隅欠(すみおとし)といって、鬼門にあたる北東隅部を直角に欠けさせています。
私学校跡
隅欠から信号を渡って磯街道沿いに、私学校跡の石垣が残っています。私学校は西郷隆盛が士族のために設立しましたが、その生徒の暴発が西南戦争の切っ掛けとなりました。
弾痕
私学校の石垣にも弾痕が残っていました。
西郷隆盛洞窟
城山にも上りました。西郷隆盛が最期の5日間を過ごしと言われる洞窟がありました。切ないね。
感想
正直な話、あの島津家の居城にしてはパッとしないなと思ってきたのですが、御楼門が再建されたことで本当に見栄えが良くなりました。日本最大の城門だけあって迫力が違います。石垣に残された弾痕を見ながら、西郷隆盛の最期について考えさせられました。