白鷺城とも呼ばれる白亜の姫路城。天守を始めとした主要な建物が残っている非常に貴重な城郭です。それは正に奇跡。1993年に奈良の法隆寺とともに日本初の世界文化遺産に登録されました。
2020年8月登城
満足度:★★★★★
歴史
姫路は古来から交通の要地であり、1346年に赤松貞範が姫山に本格的な城を築いたのが初めと言われています。その後、赤松氏の目代である小寺氏の時代が続き、一時山名氏が治めるものも、再び小寺氏が入り、重臣の黒田氏が城を預かりました。
1580年の羽柴秀吉の中国攻めで小寺氏は滅亡し、黒田孝高(官兵衛)は城を秀吉に献上し、秀吉一門の木下家定が16年間治めました。
1600年の関ケ原の合戦後、東軍に属して武勲を立てた池田輝政が播磨52万石で入城しました。輝政は城の大改築を始め、今日ある姫路城が完成しました。
1617年に池田輝政は鳥取に転封し、桑名から本多忠政が15万石で入城しました。子の忠刻は、徳川秀忠の娘である妻千姫の化粧料10万石を受けたので、本多家は合わせて25万石となりました。
1639年に本多政勝は大和郡山に転封し、入れ替わりに松平忠明が入城しました。
その後は目まぐるしく城主が交代しましたが、1749年に酒井忠恭が15万石で入城し、以後明治維新まで10代続きました。
姫路城と言うと、大河ドラマの黒田官兵衛、 後の太閤羽柴秀吉、大大名の池田輝政、悲運の千姫の印象が強いのですが、実は酒井家の在城期間が一番長いんですよね。意外だ。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR姫路駅から大手門まで徒歩15分、入城口(券売所)まで徒歩20分。駅から一直線に城へ向かうのですが、途中天守がずっと目に入ります。こりゃ絶対迷いません。
城歩き(姫路駅から三の丸まで)
まずは駅から入城無料の三の丸まで歩いてみました。
駅からの大手前通りの先に姫路城が見えます。これなら迷わず辿り着けますね。
大手門(新造)
桜門橋を渡ると大手門がお出迎え。実はこの高麗門は1938年(昭和13年)に建てられたもので、門のある場所には当時枡形石垣がありました。
三の丸広場からの天守
三の丸広場には芝生が広がっており、ここから眺める天守の美しさには絶句。姫路城は姫山と鷺山を中心に築かれており、天守や曲輪が丘に築かれているのが分かります。
城歩き(入城口からほの門まで)
入口を出て、まず目に入るのは菱の門。菱の門を通った後は、いろはの順で門を潜っています。
菱の門
二の丸の正門で、城内で一番大きい脇戸付櫓門です。2階にはアーチ型の花頭窓もあって、優美な印象を受ける建物です。門の名称は、冠木に木製の花菱が飾られていることから。
いの門
菱の門を通り抜けて直進すると、いの門が待ち構えています。姫路城の門はいろは順で名付けられており、なんとをの門(現在焼失)までありました。
ろの門
高麗門ですが、左側に脇戸が付いていますね。
将軍坂(通称)
「ろの門」を潜って進むと、右側が上り坂となります。時代劇「暴れん坊将軍」のロケ地に度々登場したことから、将軍坂との異名が付いています。
はの門
はの門は櫓門ですが、内側から見ると埋門のようにも見えます。いざというときは両脇の石垣を崩して、門の内側を石で埋めてしまう作戦です。
にの門
二の丸の最終関門は、にの門になります。鉄板貼りとなっていて、防御力抜群。内部は穴蔵のようになっており、槍を持ったまま通り抜けるのは困難です。
ほの門
ほの門は埋門になっています。やはり扉に黒鉄板が貼ってあります。
城歩き(水の一門から天守まで)
水の一門から水の六門まで、天守台を横目に進んでいくことになります。水の門の名の由来は、ろの渡櫓内の井戸から天守までの水を運ぶルートにある門だから。
水の一門
ほの門を潜ってすぐUターンすると水の一門。ほの門との境には、白亜の姫路城では珍しい油壁(土壁)が築かれてます。この後、天守まで水の門が続きます。
ろの渡櫓
ろの渡櫓内には井戸がありました。籠城時にはこの井戸を利用します。
水の二門・水の三門
水の二門と水の三門が連続してあります。天守に向かうのに、下りになっているのも面白い。
水の四門
水の四門は埋門になっています。塀の下に門があるのも珍しいですね。
水の五門
水の五門は大天守と西小天守をつなぐ渡櫓下の門になります。全面鉄板に覆われており、防御も鉄壁。
水の六門
水の六門は本当の最終門。大天守への入口となります。
天守内部(1階から最上階)
姫路城の天守は5重6階。本当に広いです。息が切れますわ。
天守からの眺め
天守最上階からの眺めがいいですね。1枚目の写真は大手方面、2枚目は西の丸方面。
城歩き(備前丸から三国堀まで)
天守に上った後は、本丸にあたる備前丸から下りていきます。上りと下りでコースが違うのは、沢山の観光客をさばくためですね。
天守内部を見学した後、備前丸(本丸)に進みます。池田家時代には、備前丸に御殿が建てられ藩主が住んでいました。残念ながら、1882年(明治15年)の火災で備前丸の建物は全て焼失しましたが、この曲輪からの天守の眺めは迫力満点です。
備前門
備前丸の入口の備前門。江戸時代には東入口門と呼ばれていました。門上の櫓部分は1882年(明治15年)の火災で焼失しましたが、1963年(昭和38年)に再建されています。
転用石(石棺)
城の石垣には墓石等の転用石がよく使用されますが、姫路城には古墳の石棺も多く転用されています。
転用石
備前門から下る途中の石垣に、やたらときれいな切り口の石があります。元は石棺がはめられていましたが、昭和の解体修理時に新しい石材に交換されました。石棺は中がくり抜いてあるので脆いんだって。
りの門とへの櫓
帯曲輪からりの門を通って上山里丸に出ます。城内で一番古い門で、池田輝政より前に木下家定が建てたことが判明しています。
お菊井戸
上山里丸の名物にあるお菊井戸。江戸時代の怪談「番町皿屋敷」のモデルになった井戸になります。市内にはお菊さんを祀っているお菊神社もありますのでぜひお参りしてください。
ぬの門
上山里丸と二の丸を結ぶ櫓門がぬの門になります。櫓部分が2階建てという堅固な櫓門です。
るの門
るの門は埋門です。巨大な石を組み合わせた入口は、まるで古墳のようです。
三国堀
方形の三国堀。よくみると石垣にV字の境目があります。元々は奥まで堀が伸びていましたが、池田時代に改修した跡になります。
これで二の丸の正門の菱の門までぐるりと戻ってきました。
城歩き(西の丸)
西の丸入口
菱の門からは西の丸へ向かいます。西の丸は徳川家から嫁いだ千姫のために、本多家が築きました。逆に言うと、池田輝政の時はありませんでした。
ワの櫓
曲輪沿いに渡り櫓が延々と続いており、中の廊下は百間廊下と呼ばれています。
百間廊下
ただひたすらに長い廊下が延々と続いています。多聞櫓って、こういう建物なんだって勉強になります。
ルの櫓
入口のワの櫓からルの櫓までは、当時は倉庫として使用されていました。えらい長い倉庫やな。
廊下の大戸
廊下の途中にやたら頑丈な大戸があり、この大戸の内側は女性が住む区域でした。
西の丸長局
確かに多数の女中部屋がありますね。千姫に使えた侍女たちが住んでいました。
化粧櫓
百間廊下の終着点は化粧櫓。奥の女性像は千姫です(ちょっと怖い)。
千姫は豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大阪の陣で秀頼は自害。その後、本多忠政の子・忠刻に嫁ぎますが、長男を幼くして亡くし、夫の忠刻も31歳で早世しました。悲運の女性であります。
感想
姫路城と言えば白亜の天守ですが、実際に登城すると迷路のような縄張りが凄すぎます。侵入してきた敵を撃退する仕掛けがマニアックで、城を上りながら一つ一つ確認するのが楽しすぎます。火災や空襲を乗り越え、現在まで残ってくれていることに感謝です。