石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

知念城(沖縄県南城市) 古城と新城のアーチ門

知念城は沖縄南部にあるグスクで、古城(こーぐすく)と新城(みーぐすく)で構成されています。新城の正門がアーチ門になっており、小規模ながらも沖縄の城らしさを楽しめました。

2022年10月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

城の始まりについては不明ですが、知念按司代々の居城だったと伝えられています。

城は古城と新城で構成されており、古城の方は、沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」に「ちゑねんもりぐすく」と謡われました。新城の方は、第二尚氏3代目尚真王の異母兄弟である内間大親が15世紀後半から16世紀前半に築いたと伝えられています。

城内には神殿が建てられ、近世には番所として行政の中心となりましたが、集落が丘陵下に移ったため、1903年明治36年)に廃城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

最寄りのバス停は「知念」になります。Googleマップで「知念城」を検索すると、最寄りのバス停に「久美山」が表示されますので注意ください。

那覇からのバスのルートは何種類かありますが、いずれも南城市内線バス(Nバス)に乗り換える必要があり、約80分かかります。

  • 那覇バスターミナルから、「338番 斎場御嶽線」または「37番 那覇新開線」に乗車し「馬天」下車。Nバス 「A1 知念・佐敷一周線(右回り)」に乗り換え「知念」下車。バス停から徒歩12分。
  • 那覇バスターミナルから、「309番 大里~結の街線」に乗車し「下親慶原」下車。Nバス 「A2 知念・佐敷一周線(左回り)」に乗り換え「知念」下車。バス停から徒歩12分。

 

 

城への道

知念バス停

知念バス停からスタートです。久美山から知念大川(ちねんうっかー)経由で目指すルートもありますが、途中から山道になるので止めときました。

 

ウフミチガー

ウフミチガー

バス停近くの坂道を上っていきますが、道沿いにウフミチガー(井泉)がありました。昔の生活用水ですね。

 

知念のシーサー

知念のシーサー

かなり風化しているシーサーですが、集落入口に置かれており、魔除けやサンゲーシ(山返し)の役目を果たしています。

 

養鶏所?

途中の養鶏所では、餌をもらえると思った鶏が次から次に集まってきて、申し訳なかったです。

 

駐車場と知念城入口

ヒイヒイ坂を上っていると、途中に駐車場と知念城への入口がありました。集落から見ると丘陵にありますが、知念城自体は中腹にあるようです。

 

城への下り道

一転して坂を下っていきます。道上に葉が落ちているので、転倒には注意。

 

知念城入口

100メートルほど進むと、奥に城が見えてきました。私の他に人はおらず、静かな雰囲気。

 

ノロ屋敷跡

ノロ屋敷跡

ノロ屋敷跡

城の手前にはノロ屋敷跡がありました。今はただ石組みを残すのみ。

 

城歩き

正門

知念城

いきなり出迎えてくれるのは、新城の正門と石垣です。左の木々の茂っている場所が古城とのことですが、ただの森にしか見えません。

 

城壁

知念城 城壁

正門から西に向かって城壁が伸びています。

 

裏門

知念城 裏門

城壁の途中にもアーチ門がありました。正門から30メートルほど離れています。

城壁の切れ目

知念城 城壁切れ目

裏門の先には城壁の切れ目があり、城内への道路が通っています。いや逆だ、道路を通すために城壁を崩したんですね。もったいない。

正門

知念城 正門

改めて正門に戻ってきました。琉球の城でアーチ門を初めて導入したのは座喜味城と言われていますので、この石垣は新しいものですね。また、かなり崩落していた箇所があり、近年積み直されました。

 

正門とヒンプン(目隠し壁)

門を潜った先には城壁があり、これは虎口かと思いましたが、城内を見通せなくするためのヒンプン(目隠し壁)ですね。防御というより、魔除けの意味合いが強そうです。

 

裏門の裏

知念城

裏門にもヒンプン(目隠し壁)が築かれていました。

 

焚字炉

知念城 焚字炉

裏門近くにあった焚字炉。特に説明文はありませんが、不要になった紙を焼くための炉のことです。今で言うところの焼却炉か。

 

ヒヌカン(火の神様)

こんなところに掘立小屋なんか建ててと思ったら、ヒヌカン(火の神様)が祀られていました。早合点してすみません。

曲輪内

新城(ミーグスク)は南北40メートル、東西50メートルの単郭で、奥の方が一段高くなっています。曲輪内には草がぼうぼう生えていて、ズボンの裾にくっついて参りました。

 

御嶽?

御嶽らしき遺構もありますが、正直良くわかりません。

 

西側城壁と友利御嶽

知念城

曲輪の西側は崖になっていて、背は低いですが石垣が築かれています。南西隅に友利御嶽 (トモリウタキ) があるはずですが、草ぼうぼうでよく分かりませんでした。残念。

 

南側城壁

曲輪の南側にも城壁が築かれており、海を望むことができます。沖縄の城は海に臨む丘陵に築かれることが多いのですが、船を監視する意味合いもあったかもしれません。

 

古城(こーぐすく)

正門横の小山が古城(こーぐすく)とのこと。奥に石積みが見えますが、立ち入れるような雰囲気ではありません。斜面も急で、知念按司が日常生活を送れるようには見えず、詰城だったのかもしれません。

 

感想

やはりアーチ門はいいですね。他には観光客がおらず、静かな古城を堪能できました。願わくは、もう少し草が刈ってあれば助かります。裾のくっつき虫を取るのが大変でした。

高島城(長野県下諏訪市) 諏訪湖畔の水城

「諏訪の浮城」とも呼ばれた高島城。現在は内陸部にありますが、諏訪湖畔に築かれた水城でした。杮葺(こけらぶき)の渋い天守が特徴です。

日本100名城

2022年8月登城

満足度:★★★

 

歴史

1582年に諏訪の領主になった諏訪頼忠は金子城を築き、1590年に武蔵国へ転封するまでの拠点としました。後に高島城が築かれたときに金子城の石材が再利用されたと伝えられています。

豊臣秀吉の家臣の日根野高吉は小田原攻めの功績により、1590年に信濃高島に入封しました。高吉は金子城を廃し、新たに諏訪湖畔に城を築きました。こうして1598年に完成した城が高島城です。

1600年に高吉が死去し、子の吉明が跡を継ぎますが翌年下野国へ転封となり、諏訪頼水が旧領復帰を果たして戻ってきました。以降、諏訪家が10代続き、明治維新を迎えました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR新宿駅から特急あずさに70分乗車し、上諏訪駅下車。上諏訪駅から徒歩15分。上諏訪駅のホームには足湯があって、電車の待ち時間に楽しむことが出来ます。

 

縄張図

高島城は諏訪湖の湖畔に築かれ、北から順に、三の丸、二の丸、本丸が置かれていました。ただ、城の南北で高低差があるわけでもなく、横から直接本丸を攻められたらどうするんだろって、思ってしまう縄張りです。

諏訪家からしたら、9年振りに領地へ戻ってみれば、自分の居城は無くなっていて、全く知らない城があったという悲劇ですよね。

 

城歩き

上諏訪駅から南に向かって、高島城本丸を目指して歩きます。二の丸、三の丸の遺構はほとんど残っていませんが、当時の名残を見つけることが出来ました。

 

並木通り

当時は水田と蓮池の間に大手へ向かう一本道がありました。現在、水田と蓮池は陸地になっていますが、当時の道は並木通りとして残っており、直角に近いカーブが2ヶ所ありますね。

 

三の丸跡

衣之渡川を渡ると三の丸に入ります。城の遺構は残っていませんが、信州一味噌の本社があり、丸高蔵がありました。豆知識ですが、清酒「真澄」で有名な宮坂醸造が始めた味噌事業が、現在の信州一味噌なんですね。

 

二の丸入口

丸高蔵からの道を真っ直ぐ南に進み、中門川を渡ると二の丸に入ります。橋の手前に珍しい遺構がありました。

 

三の丸湯跡

高島城 三の丸湯跡

なんと、かつてここには藩主専用の浴室と汲み湯場が設けられていました。その後、城内居住の藩士も利用可となり、1926年(大正15年)には市民にも開放され、1996年(平成8年)まで営業していたそうです。これは入りたかったな。

 

二の丸南

中門川を渡って真っ直ぐ道を進むと、本丸北の堀に突き当たりました。ちなみに現在の二の丸は普通の住宅街でした。

 

天守

高島城 天守

本丸北西隅に建つ天守。道中に城らしさが皆無だったので、唐突に現れた印象。

 

木橋と北東角櫓

高島城 冠木橋と角櫓

本丸北東には冠木橋と北東角櫓が見えました。本丸には冠木橋を渡って入ります。

 

天守と冠木橋

高島城 天守と冠木橋

高島城で一番撮られるアングルです。天守の東側の堀(湖)は干拓されているので、この角度でしか天守と堀を一緒に写せません。

 

冠木門

高島城 冠木門

冠木門を通って本丸に入ります。櫓門で復元されていますが、当時は楼門あるいは高麗門だったとのことです。

本丸内

本丸内は公園になっており、庭園が造られています。天守に直接向かう前にぐるっと回ってみましょう。

 

御川渡門跡

高島城 御川渡門跡

本丸西にある御川渡門跡。かつては湖に面しており、ここから舟に乗ることが出来ました。現在は三の丸御殿の裏門が移築されています。

 

土戸門跡

高島城 土戸門跡

高島城 土戸門跡

本丸南には土戸門があり、城の勝手口でした。正門である冠木門を通行できる資格のない者は全て土戸門から入城したそうです。

 

三の丸温泉

土戸門跡を出たところには温泉がありましたよ。蛇口をひねるとお湯が出てきました。アチチ。

 

天守

高島城 天守

再び本丸に戻って、北西隅の天守へ上ります。石段を上ると天守入口に着きますが、この石段は天守復興時に造られたようです。当時はどうやって上っていたのやら。

 

天守

天守もあったようですが、かなり改変されているようでよく分かりませんでした。

 

西からの天守

高島城 天守

かつて湖面だった西側から天守を見上げてみました。高島城の天守の特徴は、屋根が瓦ではなく、杮葺(こけらぶき)だったことです。地盤が弱いので重い瓦を使えなかったからとも言われていますが、お金がなかったからだと個人的には思います。

 

天守再建前の天守

天守再建前の昭和に撮られた天守台。天守台だけぽつんと残っていますね。

 

天守からの諏訪湖

天守最上階から諏訪湖を眺めてみました。現在は湖岸から1キロほど離れていますが、当時は城下に湖面が広がっていました。確かに真っ平らでした。この湖を干拓した人間の力ってすごいですね。

 

感想

水城としての遺構はほとんど残っていませんが、天守台の石垣が見事でした。城内に温泉を引き込むなんて、住みやすそうな城ですね。三の丸に平成8年まで残っていた温泉銭湯に入りたかったな。それだけが残念です。

松本城(長野県松本市) 美しい漆黒の現存天守

漆黒の5重天守が残る松本城。現存する日本最古の天守とも言われおり、アルプスの山々をバックに佇む姿は本当に美しいです。

日本100名城

2022年8月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

1582年に織田信長が武田氏を滅ぼすと、小笠原貞慶松本城の前身である深志城を奪還して信濃に入ります。貞慶は城と城下の整備に手を付けますが、徳川家康の関東移封に伴い松本を離れました。

1590年 に豊臣秀吉の部下である石川数正小笠原貞慶に代わって松本城に入ります。数正と子の康長は松本城を大改修し、近代城郭へと整備します。今も残る天守は康長によって建てられました。

1613年に石川康長は改易され、代わりに小笠原秀政が戻ってくるも、子の忠真の時代に明石へと転封します。その後、戸田家、松平家、堀田家、水野家と目まぐるしく藩主が変わりますが、1726年に志摩鳥羽から松平光慈が入り、幕末まで戸田松平家が松本を治めました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

東京からJR中央本線篠ノ井線を特急あずさ利用で2時間30分。松本駅から徒歩20分。信州にある城の中ではかなり行きやすいです。ただ、東京や名古屋以外からは信州まで行くのが少々遠いのです。

 

 

縄張図

本丸の南側を二の丸がコの字型に囲み、それを三の丸が更に囲む輪郭式の縄張りでした。幅広い水堀に囲まれ、特に南側は女鳥羽川も流れる盤石の構えですが、北側は城外から本丸への距離が近く、やや手薄にも見えます。

近世城郭らしからぬ馬出しが数多く築かれているのは、前身の深志城が武田氏の支配下だった名残でしょうか。

 

城歩き

城の南側の大手門跡から本丸に向かいました。

 

大手門跡と縄手通り商店街

松本城 大手門跡

縄手通り商店街

三の丸の総堀は埋め立てられており、枡形の石垣も残っていませんが、道のクランク状の折れに当時の名残が少し見られます。また、女鳥羽川と堀に挟まれた細い道(縄手)が縄手通り商店街として残っています。

 

大名町通りと二の丸入口

大手門跡から本丸に向かう通りは「大名町通り」と呼ばれ、当時は上級藩士の屋敷町でした。現在は「大名町通り」からそのまま二の丸に入れますが、当時は堀と土塁が巡らせてあり、二の丸南側に入口はありませんでした。

 

二の丸南東

松本城 二の丸南東

松本城 二の丸南東

本来の入口だった太鼓門から二の丸に入るため、東側に回り込んでみました。二の丸南東に市立博物館がありますが、大名通り沿いに移転のため休館中でした。

太鼓門枡形

松本城 太鼓門枡形二の門

松本城 太鼓門枡形一の門

松本城には、大手門、太鼓門、鉄門の3箇所に枡形がありました。太鼓門の名の由来は、枡形北側⑥に太鼓楼が置かれていたことに拠ります。1999年(平成11年)に復興再建されました。

 

玄蕃石

松本城 玄蕃石

門脇には巨石「玄蕃石」が据え付けられています。松本城を築いた石川康長自らこの巨石を運ばせ、不平を訴える者の首を刎ね、槍で掲げたとの言い伝えが残っています。松本城を築いたときの領民の辛苦が想像できます。

 

二の丸

松本城 二の丸

松本城 二の丸

太鼓門を抜けて、内堀に沿って本丸への入口である鉄門に向かいます。松本城は平城なので、本当に移動が楽ですね。

 

鉄門

松本城 鉄門

松本城 鉄門

鉄門は本丸に入る重要な門でした。1960年(昭和35年)に一の門(櫓門)、1990年(平成2年)に二の門、土塀が復興再建されました。鉄門から先が有料エリアとなります。

 

本丸

松本城 本丸

かつて御殿のあった本丸に今は芝生が広がっています。天守は本丸西に建てられています。青い空、天守の黒、芝生の緑。

 

天守

松本城 天守

天守の北側は渡櫓で乾小天守と繫がり、南側は巽付櫓が連なっています。更に巽付櫓には月見櫓が連なっている複合建築です。

天守、渡櫓、乾小天守石川数正、康長親子時代に築かれたとされ、それが確かならば日本最古の現存天守となります。ただ、乾小天守が先に造られたという説もあり、真相は藪のままです。

 

天守1階

松本城 天守内部

松本城 天守 武者走り

松本城 天守 石落とし

松本城 天守 狭間

天守は内部6階建てで、1階には武者走り、石落とし、狭間が設けられており、かなり実践的な造りとなっています。

 

天守3階

松本城 天守3階

天守3階は2階の屋根裏に設けられているため、窓が無く暗いのが特徴です。隠し階かな。

 

天守4階

松本城 天守4階

4階は3階から打って変わって、柱が少なく、天井が高く、四方から光が入っています。有事の際の城主の座所と考えられています。

 

天守6階(最上階)

松本城 天守 桔木構造

最上階に到着したものの、廻縁がありません。当初は廻縁と高欄を巡らす予定でしたが、寒さと降雪対策のため、室内に取り込んだと考えられています。

また、屋根裏から材木が放射線状に外側に向かって配置され、テコの原理で軒先を支えています。桔木(はねぎ)という建築技法です。

 

十六夜

二十六夜神

二十六夜神

屋根裏をよくみると、「二十六夜神」を祀ってあるのが分かります。戸田家が高崎から松本に入封した際に、月待ち信仰のひとつ「二十六夜神」信仰を持ち込んだと持ち込んだと考えられています。

 

月見櫓

松本城 辰巳付櫓

松本城 月見櫓

松本城 月見櫓

見学ルートは、大天守から辰巳附櫓、月見櫓を見学した後に外に出ることになります。辰巳附櫓と月見櫓は平和な江戸時代初期に築造されたため、石落とし等の戦いのための備えはありません。特に月見櫓は開放的で、柱と薄い板戸だけの建物です。

 

鉄門から二の丸南西部へ

鉄門から二の丸に出て、南から西へと歩きます。上記地図の緑色は本来堀だった土地で、松本市が南・西外堀復元事業を行っています。用地の7割を取得済みとのことですが、土壌から自然由来の鉛などが検出され、なかなか大変なようです。

天守・辰巳付櫓・月見櫓

松本城 天守

松本城 天守

松本城 天守

松本城 天守

二の丸を西に移動しながら天守を撮りましたが、本当に絵になりますね。撮る角度によって小天守や付櫓の映り方も変わるので、様々な表情を見せてくれます。

 

感想

松本城天守は素晴らしいの一言です。観光客もがとても多くて、お城ブームのを実感します。南・西外堀が復元されるのを楽しみに待っています。

府内城(大分県大分市) 外と内で階層の異なる櫓

大分駅から歩いて行ける府内城。現在の姿からは想像できませんが、当時は海に繋がる平城でした。近年改変されているところも多々ありますが、あちこちに工夫がみられる面白い城ですよ。

日本100名城

2022年8月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

1593年の豊臣秀吉による大友家改易に伴い、1597年に石田三成の娘婿の福原直高が府内(今の大分市)に入封します。直高は「荷落(におろし)」と呼ばれていた大分川河口に城を築き始め、2年後に本丸・二の丸・三の丸が完成し、縁起を担いで「荷揚(にあげ)城」と名づけました。

しかし秀吉の死後、福原直高は徳川家康に領地を没収され、関ケ原合戦後に豊後高田から竹中重利が移封しました。重利は4重天守を建てるなど、城内の増改築と城下町の建設を進めました。息子・重義が跡を継ぎますが、不正を働いたとして死罪となり、竹中家は改易されました。

1614年に下野壬生から日根野吉明が入封しました。吉明は初瀬井路などの用水路を開削し、農地に水を供給しました。このように領民から名君として慕われましたが、嫡子なく廃絶しました。

1658年に吉明の義理の甥だった松平忠昭が豊後高松から入封し、大給松平家が幕末まで城主となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR大分駅から北西に徒歩15分。平城で高い建物が無いせいか、街中に突然城跡が現れる感じです。 

 

縄張図

築城当時の大分川下流には海水が入ってきており、港湾として整備されていました。つまり府内城は海城だったわけですね。本丸外側には2重、3重に堀と土塁が囲んでおり、現在の大分駅手前までが城域でした。

 

本丸部分アップ

本丸部分は、本丸、東の丸、西の丸で構成されていましたが、大正時代に後の県庁舎を建てるため、本丸石垣が壊され、内々堀も埋め立てられました。非常に残念な改変です。

 

城歩き

西の丸角櫓から多門櫓門まで

大分市役所から西の丸の堀沿いに大手門に向かいました。

西の丸角櫓

府内城 西の丸角櫓

西の丸角櫓は1945年(昭和20年)の空襲で焼失しますが、1965[年(昭和40年)に復元されました。府内城の櫓に共通することですが、面白い特徴があるんです。

西の丸角櫓(裏側)

府内城 西の丸角櫓(裏側)

府内城 西の丸角櫓(裏側)

西の丸角櫓を裏から見ると、一本柱で支えられています。これは櫓台を築いていないためで、当時はここにも櫓部分がありました。つまり外からだと2階建て、内からだと3階建てだったわけです。どうせ復元するのなら、こういうところにも拘って欲しかった。

 

西の丸角櫓塀

府内城 西の丸角櫓脇の塀

また、西の丸角櫓の両側の白塀には、当時板塀が設けられている箇所がありました。これは籠城時に板塀を外し、大砲を設置するためだったと言われています。現在でもよく見ると、板塀が立てやすいように平らな石が並べてあります。

 

宗門櫓(現存)

府内城 宗門櫓

宗門人別改帳(江戸時代の戸籍簿)が保管されていた宗門櫓。江戸時代からの現存の櫓です。外からだと平櫓に見えますが、内側からだと・・・

 

宗門櫓(裏側)

府内城 宗門櫓(裏側)

やはり櫓台がないため、内側からだと2階建てです。2階の入口までどうやって上ったんだろと思いましたが、当時は手前に石段があったそうです。

 

大手入口

府内城 大手入口

府内城 大手入口

大手入口は桝形になっており、多聞櫓門と着到櫓が建てられています。また、現在は土橋になっていますが、当時は廊下橋が架けられていました。大手入口が廊下橋だったというのは珍しいケースです。

 

多門櫓門

府内城 多門櫓門

大手門にあたる多門櫓門。廃城後も残っていましたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、1966年(昭和41年)に再建されました。古写真を見ると、明治以降は櫓の屋根に鐘楼が設けられていたようですが、流石にそれは再現されてないですね。

 

本丸方面

府内城

ガランとだだっ広い城内。北側には本丸櫓台と天守台を直接見ることができます。当時は堀と本丸石垣があったんですけどね。かなり残念な改修です。

 

着到櫓から廊下橋まで

多門櫓門から一旦出て、堀沿いに城を眺めながら廊下橋に向かいます。

着到櫓

府内城 着到櫓

東の丸の南西隅に建てられた着到櫓。大手口に殺到する敵を横から攻撃するための拠点です。1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、1966年(昭和41年)に再建されました。

 

平櫓(?)

府内城 平櫓

東の丸の南東隅の平櫓(?)。こちらも1966年(昭和41年)に建てられましたが、着到櫓と違って古写真等は残っておらず、模擬復元ですね。元は平櫓だったのに2重櫓で再建されており、あちゃーと言った感じです。

 

三階櫓跡

府内城 三階櫓跡

東の丸の東側には、府内城で唯一の三重櫓が建っていました。櫓台は無く、城内から見ると4階建てでした。なんかもったいないような気もしますね。

帯曲輪跡

府内城 帯曲輪跡

府内城 帯曲輪跡

府内城は本丸が船から直接攻撃されることを防止するために、本丸東側に防波堤のような帯曲輪を築いていました。現在は遊歩道になっていますが、その名残が残っています。他の城では見かけない縄張りです。

 

水手口

府内城 水手口

東の丸の生け垣部分には、内堀につながる門と石段があり、いざという時の緊急避難路でした。当時の石垣の高さは2メートル位だったと考えられています。寛保3年(1743)の大火で天守を始めとする建物が焼失した際、重要書類はここから船で運び出されました。

 

扇櫓跡

府内城 扇櫓跡

本丸北東には扇形の櫓が建てられていました。ここは鬼門(北東)にあたるため、わざと鈍角にして鬼門除けの工夫が取られています。

人質櫓(現存)

府内城 人質櫓

江戸時代から残っている現存の人質櫓。宗門櫓と共に府内城のに残る貴重な建物です。

北の丸(現 松栄神社)

遊歩道の終点が北の丸になります。現在は松栄神社が建っており、南堀以外は埋められて陸続きになっています。

 

余りに堂々とした猫がいたので思わずパチリ。逃げる気配まるでなし。

 

北の丸からの人質櫓

府内城 人質櫓

天守台の下には人柱になったと伝えられているお宮を祀った祠があります。以前は石垣下の犬走りを通ってお参りできたのですが、犬走りに下りられなくなっていました。ちなみに府内城の犬走りは江戸時代には無く、近代に造られたものです。

 

廊下橋から天守台まで

最後に廊下橋を渡って、天守台へと向かいます。

 

廊下橋

府内城 廊下橋

府内城 廊下橋

北の丸と西の丸を結ぶ廊下橋。1996年(平成8年)に再建されました。

府内城には他にも大手口と東の丸にも廊下橋が架けられていました。これらは籠城時に橋を壊すためでしょうが、土橋のように堀の水を堰き止めず、流れ易くする意図もあったのではないかな(推測です)。

 

桝形跡

廊下橋を渡って西の丸に入ると、通路は右に曲がり、当時は冠木門がありました。今は礎石が残るのみ。

 

本丸桝形跡

西の丸から本丸に入るには、当時は桝形があり、高麗門と櫓門が設けられていました。正面には桝形石垣や内堀があったはずですが、見事なまでに何も残っていません。

 

北二階櫓台

府内城

桝形の左には2重櫓が建てられており、その櫓台が残っています。天守に入るためには、この北二階櫓か東大櫓門に登り、渡櫓を通る必要がありました。

 

天守

府内城 天守台

府内城 天守台

府内城には4重天守が建っていましたが、1743年の大火で焼失し、以後再建されませんでした。ただ、現在も残る天守台は大変立派です。

 

感想

マニア向けな見所いっぱいの城でした。一本柱で支えられている櫓なんて、他の城ではまず見られませんよ。ただ、近代の改変が多く、本丸石垣が崩されているのはとても残念です。大分市でも、本丸の地形及び石垣の整備を検討しているようなので、気長に待っています。

角牟礼城(大分県玖珠郡玖珠町) 穴太積みの石垣が残る山城

角埋山に築かれた難攻不落の角牟礼(つのむれ)城。島津軍の侵攻に耐えたことでも有名です。穴太積みの石垣が見つかったことが契機となり、近年注目されています。

日本続100名城

2022年5月登城

満足度:★★★★ 

 

 

歴史

角牟礼城は戦国期には豊後大友氏に属した森氏の居城でした。1586年に薩摩島津氏が豊後大友氏に攻め込んだ際にも、角牟礼城は最後まで落ちず、その堅固さを証明しました。

しかし、1593年の豊臣秀吉による大友家改易に伴い、森氏は角牟礼城を離れます。代わりに1594年(文禄3年)頃に豊臣家臣の毛利高政が日田・玖珠郡に入部します。現在残る角牟礼城の石垣も、高政によるものです。

関ケ原の合戦後、西軍についた毛利高政は佐伯に転封し、1601年に来島長親が1万4千石で玖珠に入封します。来島氏は村上水軍の一族でしたが、西軍についたため、内陸の玖珠に陸流し(?)されたことに依ります。

長親は森藩の初代藩主となりますが、小藩のため城を持つことが許されず、麓に陣屋を築き、角牟礼城を廃しました。

 

こぼれ話

国指定史跡である角牟礼城ですが、つい最近まで忘れかけられていました。

1975年、歴史作家・司馬遼太郎氏は由布院・日田を訪ねるついでに角牟礼城にも立ち寄ろうとしましたが、村役場に問い合わせても詳細が分からず、麓の末廣神社の石垣を発見して想像を巡らせます「街道をゆく(熊野・古座街道、種子島みち他)」

1992年(平成4年)に当時国立歴史民俗博物館の助手だった千田嘉博氏がたまたま角牟礼城を登城し、石垣が穴太積みであり、良好に残っていることを発見します。それを契機に翌年から発掘調査が実施され、西門跡から櫓門の礎石が見つかりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

最寄り駅はJR豊後森ですが、日田と由布院の間と言ったほうが分かりやすいかもしれません。大分駅から豊後森駅まで特急で70分。

駅からは「わらべの館」を目指します。まちなか循環バスで10分か25分。ただ、このバスは1日8便しか無く、西回りと東回りで所要時間も変わってきます。電車の到着時刻とも合わなかたので、いつものように歩いて向かいました。徒歩30分。

 

登城の道

わらべの館

駅から歩いて30分で「わらべの館」に着きました。2階にひっそり「豊後森藩資料館」があり、そこで続100名城のスタンプを押すことが出来ます。

 

わらべの館裏

わらべの館の裏から角牟礼城に向かいます。右奥に見えるのが角埋山。あそこまで登るのか・・・

 

久留島陣屋跡

久留島武彦は9代藩主・久留島通容の孫であり、児童文学者として活動しました。現在童話碑の建っている辺りに久留島陣屋がありました。

 

藩主御殿庭園

藩主御殿庭園

陣屋跡の西側には、巨石を大胆に配した庭園が残っていました。

 

御長阪

御長阪

御長阪

御長阪

陣屋跡から末廣神社への参道にあたる御長阪。まるで城壁の上を歩いているようですごい。何も知らなかったら、この石垣を角牟礼城と勘違いしそう。

 

栖鳳楼

栖鳳楼

栖鳳楼

8代藩主・通嘉が建てた栖鳳楼。紅葉の御茶屋というだけあり、壁が朱色なのが渋いです。眺めが素晴らしいようですが、中には入れませんでした。

 

末廣神社

末廣神社

末廣神社

末廣神社は初代藩主・康親が伊予大三島の三島宮(現大山祇神社)を勧請したことに始まります。久留島(来島)氏が元水軍だったという歴史の痕跡です。

 

登城口

角牟礼城登城口

角牟礼城登城口

神社の裏手に角牟礼城の登城口があります。すでに若干疲れていますが、ここからが本当のスタートです。

 

急坂

角牟礼城

少しの間ゆるい山道が続きましたが、急坂が現れました。こういう直線の坂が一番つらいね。時折脇に崩れた石垣があり、いつの時代のものだろうと気になりました。

 

石段

角牟礼城

途中で急坂から石段にチェンジ。階段の方が急坂よりは少しましということを学びました。ただキツイけどね。

 

山道

角牟礼城

石段が終わると右に左に蛇行する山道が続きます。途中からトラロープが張ってあり、そのロープ沿いに上っていきます。もしロープが無かったら、間違いなく迷いそう。

 

到着

角牟礼城

石垣が垣間見え、二の丸と三の丸の間に到着しました。登城口から休みながらで26分。元気な人なら20分で登れると思います。ただ、雨の日は絶対止めておいたほうが良い。

 

縄張図

角牟礼城 縄張図

角牟礼城が築かれた角埋山は周囲が急な崖になっており、北東西から攻めることは困難です。唯一の攻め口である南面には、三の丸、二の丸を配置して守りを固めていました。また、数年前まで大手は西側とされてましたが、南側に修正されました。地形や縄張り的にもその方が自然だと思います。

 

城歩き

道標

まずは三の丸へと向かってみます。帰りにはまた末廣神社まで下りなきゃいかんのか・・・

 

竪堀

角牟礼城 竪堀

斜面に垂直に掘られた竪堀がありました。これは敵の横移動を邪魔することを目的とし、山城で見られる縄張りです。現地で見るとなるほどって思うけど、写真で見ると分かり難いですね。

 

三の丸

角牟礼城 三の丸

道路で一部壊されていますが、三方が石垣で囲まれた曲輪です。石垣が妙にきれいなのは、2012年(平成24年)に解体修復されたからですが、その際に石垣に積み直しの痕跡が見つかりました。内部からは江戸時代の肥前染付碗も見つかっており、森藩が隠れて修復していたようです。

 

三の丸内部

角牟礼城

三の丸内には石がごろごろ転がっています。秀吉の命で毛利高政が入封したときは、知らない土地で周りは敵だらけ。とにかく最優先で三の丸石垣を築いたのかもしれません。

 

登り石垣

角牟礼城 登り石垣

斜面に沿って上方へと築かれた登り石垣もありました。ただ、麓からの石垣ではなく、三の丸の斜面部分の石垣です。

 

つづら折りの道

角牟礼城

三の丸から本丸にかけて、つづら折りの道を上って行きます。基本的に一本道になります。

 

二の丸石垣

角牟礼城

角牟礼城

突如現れた高石垣に圧倒されます。この石垣を築いたのも毛利高政で、中世城郭だった角牟礼城に当時の最新技術を導入しているのが分かります。この石垣の積み方が穴太積みということで注目を浴びました。

 

二の丸南虎口石垣

角牟礼城 二の丸南虎口石垣

角牟礼城 二の丸南虎口石垣

東へと80メートルに渡って築かれた石垣。ミニミニ万里の長城といったところでしょうか。二の丸内には絶対敵を入れないとの強い意志を感じます。

二の丸南虎口

角牟礼城

角牟礼城

道はぐるっと180度曲がって上に続いており、攻める側は側面を防衛側に向けざるをえません。


大手門跡

角牟礼城 大手門跡

1993年(平成5年)から発掘調査では二の丸南に櫓門の礎石が発見されました。

当時はこの大手門を経由するルートだったのでしょうが、現在はこの門跡を通らない道しかありません。ちなみに数年前までこの門は伝搦手門と表記されていましたが、続日本100名城に選定された頃(2018年頃?)から、大手門と修正されています。

 

井戸跡

角牟礼城 井戸

角牟礼城 井戸

大手門跡から二の丸に入ってみると、水を溜めた井戸がありました。水は城の生命線なので、櫓門を構えてまで死守するのも理解できます。

二の丸西曲輪石垣

角牟礼城 二の丸西曲輪石垣

角牟礼城 二の丸西曲輪石垣元の道に戻って先に進むと、二の丸西曲輪の石垣が現れました。大手門を破って攻めてきた敵を迎え撃つための防衛線になります。二の丸南虎口の石垣に比べると石が小粒です。

 

二の丸西曲輪

角牟礼城 二の丸西曲輪

角牟礼城で一番広い二の丸西曲輪。曲輪内からは建物の礎石が見つかっており、ここが主曲輪だったようです。長く二の丸と伝えられてきましたが、2018年(?)から二の丸西曲輪と修正されました。

 

西門跡

角牟礼城 西門跡

二の丸西曲輪の北側、角牟礼城全体で見ると西側から、平成の発掘調査で櫓門の礎石が発見されました。つまりここには櫓門が構えられていた訳です。長く大手門と伝えられてきましたが、2018年頃から西門と修正されました。

 

二の丸西虎口

角牟礼城 二の丸西虎口

角牟礼城 二の丸西虎口

先の西門が大手門とされてきたのは、この虎口石垣が立派過ぎたためでしょう。虎口は外枡形になっており、斜面に石垣が設けられています。

ただ最大の謎は、わざわざ急斜面の西面に虎口を設けたのに、ここから続く道が無いことです。もしかしたら、後から道を造るつもりが、毛利高政が転封してしまい、手つかずのまま廃城になったからかもしれません。

 

本丸への道

角牟礼城

角牟礼城

改めて西門跡から本丸に向かいます。角牟礼城の道はよく整備されているので、まず迷うことはありません。途中に斜面を削って崖にした切岸も見られました。この辺は中世の山城の面影が残っています。


本丸への近道

本丸へと一直線に上る近道もありましたが、保護のため通行不可でした。もちろんこの道は近年作られたものです。

 

角牟礼神社と竪堀

角牟礼神社

角牟礼城 竪堀

途中にある角牟礼神社には不動尊が祀られています。この付近でも斜面に竪堀がありました。

展望所

角牟礼城 展望所

登城路の折り返し地点にある展望所。特に広場やベンチがあるわけでもないですが、見晴らしがいいですね。

 

本丸

角牟礼城 本丸

角牟礼城 本丸

遂に本丸に辿り着きました。周囲は土塁に囲まれ、北面には石垣が築かれていました。山頂にありますが、木々で見晴らしはあまりよくないのが残念。

 

本丸南虎口

本丸南には階段状の虎口がありました。訪問時はブルーシートが敷いてあり、作業道になっていました。二の丸の虎口と比べると、流石に規模が小さいですね。

 

本丸北側

本丸には北側のみ石垣が築かれていますが、修復工事中でした。横から覗き込んだところ、櫓台を見ることが出来ました。

 

感想

中世と近世のハイブリッド型の山城でした。麓から歩いて登るのは大変だけどその価値はありました。特に二の丸の石垣は見応えがありますね。麓の御長阪も見流さないようにね。