石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

中津城(大分県中津市) 黒田官兵衛が築いた三角形の城

昔は福沢諭吉、最近は唐揚げで有名な中津にある中津城大河ドラマの主人公だった黒田官兵衛が築城を始め、細川忠興が完成させました。石垣に二人の協力の跡(?)が残っています。

日本100名城

2022年5月登城

満足度:★★★ 

 

歴史

豊臣秀吉の九州平定後、1587年に秀吉の部下であった黒田孝高(官兵衛)が豊前12万石に入封し、翌年から中津川の河口に中津城を築き始めました。しかし、孝高は小田原攻め、朝鮮出兵へと駆り出され、地元豪族の反乱もあり、築城に専念できません。やがて関ケ原合戦の戦功で筑前52万石へと栄転しますが、結局城は未完成のままでした。

黒田家の転封後、福知山から細川忠興豊前・豊後二郡39万石に入封し、中津城の改修を開始します。しかし、忠興は小倉城に移り、息子・忠利を中津城主として残しますが、家督を譲った後に再び戻ります。1615年には一国一城令が布かれますが、中津城は例外として残り、忠興の隠居城として整備拡張されました。

1632年に細川忠利が肥後熊本に転封し、代わりに播磨龍野から小笠原長次が中津8万国に入封しました。長次は新田開発に注力しますが、後を継いだ二代・長勝、三代・長胤と悪政が続き、幕府により改易されました。中津の負の歴史です。

1717年に丹後宮津から奥平昌成が入封し、以降奥平家が明治維新を迎えました。

 

天守について

中津城天守内の展示は奥平家に関するものばかりであり、後に大大名になった黒田家、細川家について触れられていません。実は明治維新後も奥平家が中津城を所有しており、1964年(昭和39年)に現在の天守を建てたのも奥平家でした。という理由で、天守が「奥平家歴史資料館」として利用されています。

2007年(平成19年)には奥平家から中津城が売りに出され、市が買い取るかどうかで議論になりましたが、結局は埼玉の民間会社が天守と櫓を購入しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

JR中津駅までJR小倉駅から特急で35分、JR大分駅から特急で55分。中津駅から徒歩15分。

 

縄張図

中津川を堀として利用した縄張りは、見事に直角三角形です。本丸と川沿い部分は石垣ですが、他は土塁を築いています。更に総構えとして、「おかこい山」といわれる土塁
が築かれていました。

日本三大海城と呼ばれたこともありましたが、最近は中津城から宇和島城に代わっているようです。

 

城歩き

合元寺

合元寺

駅から城に向かって歩いて行くと寺社が纏まった区画があり、その中にある合元寺は赤壁で有名です。中津に入封した黒田孝高が地元豪族の宇都宮氏を謀殺した場所であり、その返り血を浴びた壁を赤色に塗ったという伝説が残っています。

 

大手門跡

大手門跡

中津城 大手門石垣

南部小学校に大手門の石垣が一部残っていました。よく見ると境目があり、桝形虎口を設けるために石垣を継ぎ足したのが分かります。ただ、現在は道路が突っ切っていますね。

 

西門跡

中津城 西門跡

三の丸の西南隅にある西門跡。三方を石垣で囲まれた搦手門でした。

 

本丸入口

現在の本丸への入口は明治時代に造られたものです。中津城の遺構は結構壊されていて、非常に残念なところでもあります。

 

本丸南石垣

中津城 本丸石垣

中津城 本丸石垣

この城で一番美しい本丸南の石垣です。

実はつい最近までこの堀は埋められており、石垣も半分ほどしか顔を出していませんでした。2001年からの市の整備によって、堀を掘り下げて水を通し、石垣の傷んだ部分が解体・復元されました。黒田・細川時代の石垣が蘇ったわけです。

 

中津市歴史博物館

2019年(令和元年)に内堀沿いに中津市歴史博物館が開館し、石垣のマニアックな説明もあるのでお薦めです。入館無料なり。

 

水門跡

中津城 水門

本丸西端には水門の虎口石垣が残っていました。

 

椎木門跡

中津城 椎木門

本丸側から見た椎木門跡。鳥居の左側に椎木門が構えられていました。面白いのが、虎口正面に石垣ではなく、練塀が建てられていました。後から門を設けたのかな?

 

扇形石垣の入口

古絵図をよく見ると、椎木門を出たところに扇形に石垣が築かれており、入口が2箇所ありました。現在も石垣が一部残っていますね。

 

天守

中津城 天守

中津城天守はありませんでしたが、1964年(昭和39年)に奥平家により建てられました。モデルになったのは萩城天守で、5重5階となっています。

展示物に長篠の戦いに関するものがあるのは、そもそも奥平家は三河山間部出身であり、武田勝頼の猛攻を長篠城主だった奥平貞昌が守り抜いたことによります。

 

薬研堀越しの天守

中津城 天守

本丸から二の丸側に出て、薬研堀越しに天守と櫓を眺めます。中津城で一番有名なアングルですね。

本丸北東面石垣

中津城 北東面石垣

本丸北東面の石垣にはY字型のラインを見ることが出来ます。これは黒田時代の石垣に、細川忠興が石垣を継ぎ足して本丸を拡張したからです。

面白いのは、古い黒田時代の石の方が方形に整えられている点で、古代山城(神籠石)である唐原山城の列石を転用したからです。

 

本丸北西面石垣

中津城 北西面石垣

中津城 北西面石垣

中津城 北西面石垣

川沿いに遊歩道が設けられており、黒田時代の本丸北西面の石垣を間近で見ることが出来ます。やはり古代山城の列石を流用しているので、石が大きくて、きれいな方形です。

 

鉄門跡

中津城 鉄門跡

鉄板貼りの鉄門は門の中の階段を上って本丸に通じていました。残念なことに現在は石で塞がれています。なぜ?

 

櫓台石垣

中津城 櫓台跡

鉄門跡の隣には黒田時代の櫓台が残っており、古絵図を見ると三重櫓が立っていたようです。本来天守の役割を果たしていたのは、この櫓台の名も無き櫓だったかもしれませんね。

 

感想

意外と石垣に見どころの多い城でした。黒田孝高が築き、細川忠興が拡張した跡がはっきり残っているのが興味深いです。中津城がしっかり学べるので、歴史博物館にもぜひ立ち寄ってくださいね。

小倉城(福岡県北九州市) 前衛的だった南蛮造の天守

南蛮造の天守が特徴的だった小倉城徳川幕府の九州支配の牙城であり、幕末には長州藩との戦いの拠点にもなりました。現在は城の大半は市街地となり、本丸の堀と石垣がわずかに残されています。

日本100名城

2022年5月登城

満足度:★★★★

 

歴史

古くから小倉は交通の要衝であり、戦国時代には毛利氏により小倉城が築かれました。その後、大友氏との係争地となり、大友方の高橋鑑種が小倉城主になりました。

豊臣秀吉による九州平定後、1587年に秀吉家臣の毛利勝信が小倉に入り、小倉城を改修しました。しかし、1600年の関が原の合戦で西軍についたため、肥後に追放されました。

関が原の合戦で功績を上げた細川忠興豊前一国の太守となり、一旦中津城に入った後、小倉を居城に定めました。1602年から本格的に築城を開始し、総構えも含めて完成させました。このとき南蛮造と呼ばれた天守も建てられました。

その後、細川家は肥後に転封し、代わりに明石から小笠原忠真が15万石で入国しました。以後、小笠原家が小倉城主となりました。

幕末の1865年に幕府から長州征討の命が下り、小倉・肥後藩を中心とする九州諸藩と長州藩との戦争が始まりました。戦いは高杉晋作が指揮する長州藩が優位に進めますが、肥後藩の活躍により盛り返します。しかし、総督であった唐津藩主・小笠原長行への反感から肥後藩らが撤退、長行も逃亡したため、残された小倉藩は窮地に陥ります。追い詰められた小倉藩は城に火を放ち後退しました。このとき既に天守はありませんでしたが、小倉城は炎上しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR小倉駅から徒歩15分。JR西小倉駅からなら徒歩10分。小倉は九州の入口であり、新幹線も停まるので訪問しやすい城だと思います。

 

 

縄張図

豊前40万石の細川忠興が築いただけあって、柴川の河口を活かした広大な海城です。特に総構の塁線に折れを多用し、中心部が三角形なのが特徴です。上のGoogleマップと比べると、現在本丸のごく一部しか残っていないことが分かります。

 

城歩き

小倉駅からぶらぶら城に向かったのですが、高層ビルが多いので天守が見えませんね。Googleマップがなかったら迷子になりそう。

 

常盤橋

常盤橋

常盤橋は小倉城の東曲輪と西曲輪に架かる大橋で、各種街道の起点になっていました。西広場は長崎街道の起点になっており、8代将軍・吉宗が呼び寄せた象も長崎から通ったとか。

 

虎ノ門から天守まで

北東にある虎の門から鉄門を通って、天守へ。その後、北西の多門口門から八坂神社経由で城外に出ます。

 

虎の門

虎の門跡

虎の門跡

虎といっても“タイガー”ではなくて、天守からみて寅(東北東)にあることからこの名が付きました。

虎の門の石垣

小倉城 虎の門石垣

小倉城 虎の門石垣

虎の門は大手門、西ノ口門と並ぶ正門のため、やたら大きな石が用いられています。ただ、石垣自体の高さはそれほどでもないのが不思議。


天守

小倉城 天守

いきなりメインディッシュ登場!

小倉城天守は「南蛮造り」「唐造り」と呼ばれ、4階と5階の間に屋根の庇がなく、しかも5階が張り出した特異な形を取っています。細川忠興ご自慢の天守でしたが、独特の美的センスですな。

この天守は1837年(天保8年)の大火で焼失しました。時を隔てた1959年(昭和34年)に再建されましたが、とんでもない姿になってしまいました。それについては後で話します。

 

歴史の道

南北に走る歴史の道を通って大手門へ向かいます。途中には、2019年にオープンした「しろテラス」という観光スポットがあります。


大手門跡

小倉城 大手門跡

小倉城 大手門跡

築城時は西ノ口門が大手でしたが、小笠原家になりこちらに変えられました。内枡形になっており、奥には櫓門が設けられていました。

 

槻門跡

小倉城 槻門跡

大手門の枡形を出て、左方にあるのが槻門跡です。当時は藩主、家老、住職、英彦山座主のみが通行を許された格式の高い門でした。なんだか石垣が妙に新しい気がします。

槻門石垣

小倉城 槻門石垣

1段目のみが当時のもので、上部の石垣は平成に再建されました。結構改築されているようです。

井戸

小倉城 井戸

槻門門跡を通らずに西に向かうと、わざわざ石垣を凹ませてたところに井戸がありました。細川忠興の前の居城であった田辺城でも同様の井戸が見つかっています。

 

松ノ丸

小倉城 松ノ丸

本丸御殿南には松ノ丸がありました。現在残る2本の白い柱は、1885年(明治18年)に置かれた歩兵第12旅団本部の門柱です。

鉄門跡

小倉城 鉄門跡

先程の槻門は身分が高い方専用でしたが、こちらは一般武士の通行門でした。ここから本丸に入りますが、一旦通り過ぎて先に西ノ口門に向かいます。

 

西ノ口門跡

小倉城 西ノ口門跡

小倉城 西ノ口門跡

西ノ口門は搦手になりますが、細川忠興小倉城を築城した際はこちらが大手でした。また、忠興が築いた左側の石垣に、右側が継ぎ足されているのが分かります。

 

再び鉄門跡

小倉城 鉄門跡

元々の鉄門は向かって左半分だけで、右半分は復元されたものになります。つまり本当の幅は2分の1ということですね。。

 

旧第十二師団司令部正門跡

旧第十二師団司令部正門跡

日清戦争後の軍備拡張のため、1898年(明治31年)に旧第十二師団が結成され、その司令部が本丸跡に建てられました。このレンガ造りの門柱は当時のものだそうです。

 

佐々木小次郎宮本武蔵

佐々木小次郎宮本武蔵による決闘が行われた巌流島は、小倉藩領だったんですね。小次郎は小倉藩の剣術師範だったともいわれています。

 

天守

小倉城天守

本丸からの天守。古絵図を見ると、本丸と天守の間には石垣があったみたい。

2019年(平成21年)に天守の内装と展示がリニューアルされ、エンターテイメント感が強くなりました。同じくリニューアルされた平戸城もそうでしたね。結構マニアックな解説もあって楽しめました。

 

復興天守と模型

小倉城 天守

小倉城天守模型

再建された天守と模型を見比べると、明らかに外観が違いますね。実は破風の無い城は天守らしくないという意見があったため、再建時にくっつけちゃったみたいです。これはもったいなかった。

 

着見櫓

小倉城 着見櫓

本丸北西にある着見櫓(再建)には、糠蔵という漬物店が営業していました(2022年6月で閉店)。城主の小笠原忠真が糠漬けを好んだことから、ぬか炊き・ぬか漬けが小倉名物となっています。

 

多門口門跡

小倉城 多門口門跡

本丸と北の丸の間には枡形を設け、多門口門が建てられていました。

 

八坂神社

小倉祇園八坂神社

北の丸跡に建てられた八坂神社。小倉祇園太鼓で有名ですね。

八坂神社は、1617年に藩主・細川忠興祇園社として、城下の鋳物師町に創建しました。その後、1934年(昭和9年)に城内に移され、現在に至っています。

 

北から眺めた天守

小倉城 天守

破風を付けたくなるのも分かるけど、もしオリジナルの姿で復元されてたら、100名城だったかもしれませんね。

 

感想

戦国大名細川忠興の趣味が感じられる城でした。本当に残念なのは、再建天守に破風を付けてしまったことです。折角の南蛮造が台無しです。でも、リニューアルされた天守内の展示内容は面白かったですよ。

平戸城(長崎県平戸市) 元海賊だった松浦家念願の城

元海賊の平戸藩松浦家の居城だった平戸城。一度は炎上しましたが、松浦家の悲願で再建されました。2021年3月には天守の改修工事が完了し、展示内容が一新されました。

日本100名城

2022年4月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

平安時代から肥前松浦を中心に割拠した武士集団は、松浦(まつら)党と呼ばれ、水軍や海賊として活躍しました。

平戸藩初代藩主・松浦鎮信は、1599年に現在の平戸城がある場所に日之嶽城を築きました。豪華な城だったのは間違いないでしょうが、オランダの宣教師のスケッチでは何処の国の城?ってくらい立派に描かれています。

しかし、1613年に鎮信自ら城に火を放ちました。幕府による改易を恐れたためと推測されています。以降、松浦家は御館で過ごします。

1702年に第5代藩主・松浦棟が幕府に築城の願いを申し出て、特別に許可されます。1718年に松浦家悲願の城は再建され、以降、明治の廃城令まで続きました。

 

平戸について

今は鄙びた港町の平戸ですが(失礼!)、戦国時代から江戸時代初期にかけては、南蛮貿易で大いに栄えた国際都市でした。

1550年にポルトガル船が平戸に入港し、ポルトガルとの交易が始まります。しかし、1561年のポルトガル商人と日本人との暴動(宮ノ前事件)を契機に、ポルトガルとの貿易が終了します。

1600年にオランダのリーフデ号が豊後臼杵に漂着する事件が起こりました。1605年に船長と乗組員が帰国しますが、このときマレー半島のパタニまで彼らを送り届けたのが、平戸藩初代藩主・松浦鎮信でした。

恩義に感じたオランダは1609年に平戸へ入港し、平戸は日本唯一のオランダ貿易港となります。しかし、1641年に幕府の命令でオランダ商館は長崎に移り、オランダとの貿易も終了しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

交通が不便な地をよく「陸の孤島」と言いますが、平戸は本当に島でした。1977年(昭和52年)に平戸大橋が開通しましたが、やはり遠いですね。

佐世保から西肥バス(平戸桟橋行き)に乗り、平戸市役所前で下車。1時間30分かかります。

佐世保から松浦鉄道に乗って80分、たびら平戸口駅で下車。たびら平戸口からバスに乗って20分、平戸市役所前で下車。もしくは、タクシーで10分。

・博多から唐津経由で平戸桟橋まで、高速バスで2時間30分。ただ、1日2便しかなく、発車時刻の都合上、日帰りは出来ません。

 

縄張り

平戸城は三方が海に面しており、西は幸橋で城下町と結ばれていました。亀岡山の山頂に本丸が築かれ、一段低くして二の丸、山腹には三の丸が配されました。海城らしく、舟入が設けられていたのが特徴です。

 

城歩き

城下からだと幸橋経由が近いのですが、南の大手口から登城しました。

 

平戸城遠景

平戸城

平戸桟橋から平戸城遠景。平戸城天守は模擬(元々は無かった)とはいえ、あるとやっぱり写真映えしますね。

 

幸橋

幸橋

幸橋

当初は城下から城へ向かうには、船を使うか、遠回りするしかありませんでした。

1669年に平戸4代藩主・松浦鎮信木橋を架け、幸橋と呼ばれるようになりました。1702年には5代藩主・松浦棟が石橋へと架けかえ、オランダ橋とも呼ばれています。

 

亀岡神社入口

城跡には亀岡神社が建てられていますので、383号沿いの神社入口から登城します。

 

大手門跡

平戸城

平戸城

平戸城

参道を少し歩くと、立派な石組みの大手門跡に着きました。内部は枡形になっており、当時は櫓門が設けられていました。

鏡石

平戸城

大手門だけあって、枡形正面には見栄を張り用の鏡石もありました。

 

二の大手門跡

平戸城

平戸城

平戸城

大手門跡から50メートル歩くと、二ノ大手門跡に着きました。通路正面には城壁があり、門に入るには左に90度折れ曲がる必要があります。しかも、枡形を抜けるまでずっと二ノ大手櫓からの攻撃に晒されるという、よく考えられた縄張りです。

 

二の丸跡

平戸城

南北に細長い二の丸。当時二の丸には藩主の御殿がありました。

 

方啓門跡

平戸城

平戸城

平戸城

二の丸西にある方啓門跡。枡形内を二度曲がってから、三の丸への階段を下りていきます。ちなみに現在二の丸下には、城内通りという名称の道路が走っています。

 

亀岡神社

亀岡神社

二の丸の北奥にある亀岡神社松浦藩主を祀っており、明治に建てられました。江戸時代はここから本丸への道があったようです。

 

乾櫓(復興)

平戸城 乾櫓

平戸城 乾櫓

二の丸北西にある乾櫓。残念ながら内部補修中で入れませんでした。二の丸側からだと窓ガラスが目立って微妙ですが、三の丸側から見上げるとなかなか格好良い。

 

謎の石室

平戸城

乾櫓から本丸に向かう通路の斜面にある謎の石室。江戸時代から現存のものですが、用途は分かっておりません。火薬庫かなとも思いましたが、二の丸御殿の近くに保管するかと言われると、確かにそれは危険です。南蛮貿易の宝物でも保管したのかな?

 

地蔵坂櫓(復興)

平戸城

平戸城 地蔵坂櫓

通路の途中の西側斜面上に櫓がチラッと見えました。上ってみると地蔵坂櫓がありました。中途半端な位置にある櫓だと思いましたが、後になってここに建てられた意味がわかりました。

 

北虎口門

平戸城 北虎口門

通路の突き当たりにある北虎口門。平戸城で唯一の現存する櫓門なのですが、なぜか窓ガラスが嵌めてあります。

 

北虎口門(外から)

平戸城 北虎口門

平戸城 北虎口門

平戸城

一旦門を出て、外から北虎口門を見ました。右には先程の地蔵坂櫓、左には狸櫓があり、門に殺到する敵を横からも攻撃できるんですね。

 

狸櫓

狸櫓

再び門に入って左にあるのが狸櫓(多門櫓)で、こちらは唯一現存する櫓となります。櫓修理の際に狸が小姓に化けて、このまま住まわせて欲しいと嘆願したとの名の由来とな。

 

石狭間

平戸城

平戸城

珍しい石狭間。白壁ではなく、石垣に狭間が設けてあります。ちなみに狭間の向こうは草ぼうぼうで、こりゃ撃てないわ。

 

本丸門(模擬)

平戸城

平戸城

本丸門を通り過ぎ、枡形の石段を上れば本丸です。現在は立派な櫓門が建っていますが、当時は櫓門では無く、右側に櫓が建っていた模様です。

 

天守(模擬)

平戸城 天守

平戸城

3重5階の天守。実は平戸城には天守は建てられず、この場所には沖見櫓がありました。2階櫓の代わりに5階建ての天守を建てたので、なんだか縦に長く、天守台もはみ出ています。ちょっと無理あり。

 

見奏櫓と懐柔櫓

平戸城

2021年3月に改修工事が終わり、天守内の展示内容もリニューアルされました。ミニシアターのように平戸城の歴史が映像で流れ、歴史クイズコーナーもありました。

また、最上階からの眺めも素晴らしかったです。平戸海峡の青い海、赤い平戸大橋平戸藩の御館だった松浦史料博物館

 

見奏櫓(復興)

平戸城

平戸城

天守から下りて、二の丸北部に建てられた見奏櫓に向かいます。本来なら本丸から直接行けないのですが、石垣を壊して通路が造られていますね。見奏櫓から眺めた平戸海峡の海もきれいでした。

 

懐柔櫓(復興)

平戸城

平戸城

見奏櫓から坂道を下って懐柔櫓に向かいます。懐柔櫓は二の丸東の守りの要ですが、現在ではホテル(城泊)として利用されています。興味が無いわけでは無いのですが、宿泊料が高すぎませんか、平戸市さん。

 

天守

平戸城

平戸城

このあたりの地形にはかなり手が入っていて、正直言ってかなり残念。ただ、この角度からの天守は国宝・姫路城ぽくて良いですね。

 

感想

松浦家悲願のだけあって、きちんと築かれた城でした。18世紀に築かれたにしては、古風な縄張りですが、前身の日之嶽城をベースにしたのかもしれません。

ただ、城跡が結構改変されているのが残念です。模擬天守は諦めるとしても、本丸の門や石垣はちょっとやり過ぎかも。これも昭和という時代でしょうか・・・

日野江城(長崎県南島原市) キリスタン大名だった有馬晴信の居城

キリスタン大名・有馬晴信の居城だった日野江城イエズス会ルイス・フロイスが絶賛するほどの豪華さを誇りましたが、息子の直純は延岡に転封し、廃城となりました。近年の発掘調査で安土城のような直線階段が見つかり話題になりました。

2022年3月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

日野江城は有馬氏の歴代の居城であり、南北朝時代に築かれたとも言われています。

日野江城が歴史の舞台に出てきたのは、戦国大名有馬晴信の代です。晴信は佐賀の龍造寺の侵攻を受けており、イエズス会からの支援を目的に接近します。そのために自ら洗礼を受け、領内各所に協会を設け、城下にセミナリヨ初等教育機関)を開きました。招き入れられた宣教師ルイス・フロイスは、日野江城を絶賛しています。

1584年には沖田畷の戦い龍造寺隆信を討ち取り、その後も豊臣秀吉の九州平定、文禄・慶長の役関ヶ原の合戦を乗り切ったことから、キリスト教により傾倒しました。

キリシタン大名となり、南蛮貿易で巨万の富を手に入れた晴信の人生が暗転したのは、1612年の岡本大八事件でした。徳川側近・本多正純重臣であった岡本大八は、有馬家の旧領回復を餌に晴信から賄賂を騙し取ります。やがて虚偽が発覚し、大八は火刑に処せられ、晴信は斬首となりました。また、晴信と大八が共にキリシタンであり、旗本にも信者がいることが発覚したため、幕府は禁教令を発令しました。

晴信の息子・有馬直純は家督を引き継ぎましたが、幕府からのキリスト教保護の嫌疑を晴らすため、一転してキリシタンを弾圧しました。この弾圧は異母弟たちも殺害するほど激しいもので、疲れた切った直純は幕府に国替えを願い出たとも伝えられています。

1614年に直純は延岡に転封し、有馬領は一時天領となりますが、1616年に大和五條から松倉重政が入封します。重政は新たに島原城を築城し、日野江城を廃城としました。

 

交通アクセス

行きやすさ:

島原城から原城に向かう途中にありますね。

長崎の諫早駅から島原駅まで、島原鉄道で1時間10分。熊本からフェリーを利用した場合、熊本港から島原港まで60分。

それぞれの駅前のバス停から、島鉄バス加津佐前浜海水浴場行きに乗って、橋口停留所で下車。島原駅からだと55分、島原港駅だと40分かかります。

諫早駅前から橋口停留所までのバスもありますが、3,4時間に1本しかありません。ちなみに乗車時間は90分です。

 

縄張図

日野江城縄張図

日野江城は標高78メートルの城山に築かれ、本丸を中心に、東に二の丸、西に三の丸、北の丸が配置されました。各々は独立しており、大小15の曲輪の存在が確認されています。現在は干拓され海から離れていますが、当時は南側が入江に面していました。

城歩き

日野江城遠景

日野江城

島原駅から原城に向かう途中に、バスから城らしき山を見かけました。Googleマップで確認したところ、日野江城ということが分かりました。原城を築いた有馬晴信の居城ですが、こんな近くにあったんだね。

現在は畑が広がっていますが、当時は城下まで波が来ていたそうです。

 

日野江城入口

日野江城入口

橋口バス停から北に5分ほど歩くと駐車場があり、その先に日野江城の入口がありました。階段がコンクリート製なのが少々味気ない。

 

二の丸(上り)

本丸は4つ、二の丸は3つの段曲輪で構成されており、それぞれの曲輪を通って頂上部に向かいます。ちなみに全体図は本丸にしかないので、登城時はルートがよくわからずドキドキでした。

 

二の丸入口

日野江城入口

イノシシ防止柵を開けて二の丸の下曲輪に入ります。貼り紙が無いと立入禁止と勘違いしそう。

 

直線階段遺構

日野江城

日野江城

二の丸に入って右手にあるのが直線階段遺構。現在は埋め戻されていますが、かつて大手口から100メートル以上の直線階段がありました。同様の直線階段は織田信長安土城でも見つかっています。文化財保護は理解するけど、実際に見てみたい。

 

二の丸(曲輪7)

日野江城

日野江城

日野江城

曲輪7の奥(西)へとずんずん進みます。地面がトラクターで掘り返されたように荒れていて、雨の日はかなりぬかるみそう。突き当りの場所からは土師質土器(素焼き土器)が大量に見つかっており、酒宴が行われていたとのこと。

 

二の丸(曲輪6)

日野江城

日野江城

日野江城

一段上の曲輪6に上り、階段方向へと戻ります。石垣もありますが、防御用というよりも、土留めと区画割りが主用途のように感じられます。

階段遺構

日野江城

発掘調査では、先ほどの直線階段とは別の階段遺構も見つかっています。特徴は現存する踏み石の半数以上に仏塔が使用されていることで、踏み絵のように仏を踏ませたかったのかもしれません。また、側面の石垣は薄い石材をパズルのように組み合わる加工がされており、海外の技術が使われていました。これも現在は埋め戻されていますが、現物をぜひ見てみたい。

 

二の丸から本丸へのルート

日野江城

日野江城

二の丸(曲輪5)から本丸へは、ぐるっと蛇行して進む必要があります。傾斜沿いの細道ですので、雨天のときには注意が必要です。

 

本丸(曲輪4)

日野江城

本丸脇の袖曲輪に出ました。正面に道が続いていますが、奥にトラロープが張られているのが見えたので、本丸へと上がる道を選びます。大雨で崖崩れでもあったのかも。

本丸(曲輪3)

日野江城

ようやく本丸に辿り着きました。山城にしてはサッカー場のように広い曲輪です。奥には更に曲輪がありますが、そのまま向かっても上れません(よじ登れば別ですが)。

また、遠く南に原城を望むことができます。当時は下まで海が迫っており、一際見晴らしが良かったでしょうね。

 

本丸(曲輪3)南西

日野江城

日野江城

本丸南側を西に進むと、突き当りに上り道がありました。日野江神社の鳥居も見えますね。

本丸(曲輪2)

日野江城

日野江城

鳥居手前の右手には、隠れるように曲輪がありました。ちょっとした公園のように整備されており、日野江城全体図の看板もありました。

本丸(曲輪1)

日野江城

日野江城

日野江城の最も高いところにある曲輪1に到着。山城あるあるで、さほど広くありませんが、碑と役小角の祠がありました。

 

本丸から浦口まで(下り)

本丸から三の丸に下り、北の丸にちょっかいを出してから下城してみます。

 

日野江城

日野江城

一休みしたところで、本丸西の三の丸方面とへと向かいます。こうやって見ると、結構急な階段ですね。イノシシ防止柵も健在でした。

 

三の丸(曲輪10)

日野江城

イノシシ防止柵を出たところに広がっているのが三の丸曲輪です。ただ、三の丸には無数の段があり、どれが当時のものか(または後世のものか)、よく分かりませんでした。


土橋

日野江城

ちなみにこの曲輪からは駐車場への道が続いています。正面に土橋が見えたので、北の丸にも足を伸ばしてみます。

北の丸

日野江城

日野江城

日野江城

なめてました。案内板にはさらっと縄張りが書かれていましたが、曲輪の先が結構な藪になっています。石垣を見つけましたが、今自分のいる場所がよく分かりません。無理せず撤収。

 

竪堀

日野江城

日野江城

最初は車道で下城しようと思いましたが、三の丸と北の丸の間にある竪堀(と言うか谷間)を下ってみました。途中から畑跡みたいになって、最後まで行けました。

 

日野江城跡浦口

日野江城

結局、城の西側にある日野江城跡浦口に出ました。車の方はここからの道路で三の丸まで行けます。図らずして、大手口ルートと浦口ルートを確認できましたが、日野江城にはもう一つ登城ルートがあります。折角なので入口まで行ってみましょう。

 

亀石への道

城の南にある日野江公民館を目指します。遠くに曲輪が見えていますね。

 

亀石と古道

亀石

登城口にある奇妙な形の亀石。登城道は所々で石畳や切通しになっています。キリスト教作家でもある遠藤周作氏は、ここから何度も日野江城を目指しました。

「北有馬の部落の山寄りに小さな立札で日之枝城と書いてあるが、それさえ目に入らぬくらいで出来ればこの立札さえ、ないほうがいい。山側に建った農家の裏庭から細い道が山にのぼる、道には往時を偲ぶ石畳が残っている。」

遠藤周作:埋もれた古城(切支丹の悲哀を秘める日之枝城)より

 

感想

歴史を知ってから訪ねると、この城の見方が変わりました。キリスタン大名の有馬氏のこの居城には、ポルトガル人も多く訪れ、現在の様子からは信じられないほど賑わっていたんでしょうね。

とても残念なのは、城内整備が中途半端に感じられたことです。ユネスコ世界文化遺産長崎の教会群とキリスト教関連遺産」から登録申請の際に外されたせいかもしれません。階段遺構だけでも公開すれば、今よりは人気が出ると思うんだけどな。私は絶対見たいぞ!

佐敷城(熊本県葦北郡芦北町) まるで古代遺跡のような城

メジャーではありませんが、期待以上に良かった佐敷城。一国一城令島原の乱後の2度に渡り破却された城ですが、佐敷町によって近年整備され、2008年には国史跡に指定されました。城跡からの眺めもよくお薦めです。

2021年12月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

佐敷城が築かれたのは、加藤清正が北肥後に入国した1588年から1592年の間と考えられています。当時の佐敷地区は飛び領地であり、薩摩の島津、人吉の相良、南肥後の小西の抑えとして築かれた境目の城でした。

1592年、城代の加藤重次が朝鮮出兵で留守になった隙に、島津家家臣・梅北国兼が佐敷城を乗っ取る事件が起きます(梅北一揆)。一揆はまもなく鎮圧されますが、黒幕とされた島津家三男・島津歳久が自害させられるなど、その処罰は過酷でした。

1600年の関ヶ原合戦の際には、西軍の島津軍の攻撃を耐え抜き、その堅固さを発揮しました。その後も改築が行われましたが、1615年の一国一城令で廃城となりました。更に1637年の天草・島原の乱後には、一揆の拠点にならぬよう、徹底的に破壊されました。

その後長年に渡り埋もれてきましたが、1979年(昭和54年)の城山公園整備の発掘調査で石垣や瓦が出土します。1993年(平成5年)から佐敷城の発掘調査が実施され、1997年(平成9年)から翌年にかけて石垣も整備・復旧されました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR新水俣駅から肥後おれんじ鉄道で佐敷駅まで18分。八代駅からだと40分前後。肥後おれんじ鉄道って、新幹線が通る前は鹿児島本線の一部だったんだよな。

佐敷駅からは、山道ありで搦手門跡まで徒歩20分。googlemapだと遠回りだけど車で行けるルートが示されて、佐敷城駐車場まで徒歩30分弱。

 

天守について

佐敷城に天守が建てられていたかですが、1605年(慶長10年)の慶長国絵図には三層白亜の天守がちんまりと描かれています。ただ、絵図自体がラフに描かれており、熊本城も三層白亜の天守に描かれていることから(実際は黒の3重6階)、城という記号的意味合いが強かったように思えます。

1993年(平成5年)からの発掘調査でも礎石が見つかりませんでした。ただ、天草・島原の乱後に徹底的に破壊されたことから、絶対無かったとも言い切れません。

平成の町長選挙では、天守を復興するかしないかも争点になりましたが、反対派の新顔が当選し、現在のように整備されました。個人的には正解だったと思います。

 

登城の道

車だと東からの登城道が便利ですが、駅から徒歩だと遠回りになってしまいます。面倒だなと思いましたが、しろやまスカイドーム方面から山道を登るルートがあることを知り、迷わずそのルートを選択しました。

 

佐敷駅

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佐敷町は釣りマンガの舞台になったらしく、駅舎内に展示がありました(すごいね)。駅の出口が城と反対側なので、城に向かうには陸橋を渡る必要があります。

 

佐敷城遠景

佐敷城

駅からでも佐敷城がびっくりするほどよく見えますね。芦北コミュニティセンターを通り抜け、しろやまスカイドームに向かって坂道を上っていきます。

テニスコート横道

坂を上りきったら、スカイドームとは反対側にあるテニスコートの横道を通って、奥の山に向かいます。

 

登城口

ようやく登城口に着きました。駅から10分かかりました。城まであと一踏ん張り。

 

登城道

体力不足でゼイゼイ言いながら、とにかく上を目指すのみ。比較的歩きやすい道ですが、帰りは焦ってコケました。

 

分かれ道

途中で分かれ道がありました。案内板は出ていないのですが、真っ直ぐ進むと北出丸、右に曲がると駐車場に出ます。

 

北出丸

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いかにも曲輪らしい場所に出ました。石垣が崩されている様子も見受けられます。いよいよ最後の上りです。

 

本丸石垣

佐敷城

登城口からここまで10分弱。予想以上の立派な石垣に度肝を抜かれます。駐車場からの登城客もここから城内に入ることになります。

 

城歩き

縄張図(芦北町教育委員会制作パンフレットから)

佐敷城 縄張図

本丸・二の丸・三の丸が南北に一直線に並び、それらを北出丸・東出丸・南出丸が囲むように守る縄張りとなっています。山麓東には御殿曲輪がありましたが、現在は教育センターの敷地になっています。

 

北出丸

佐敷城 北出丸跡

北の守りを固める北出丸。ちなみに先程上ってきた登城道の出口は、この出丸の付根部になります。

 

本丸石垣

佐敷城 本丸石垣

佐敷城 本丸石垣

山頂の石垣がまるで戦艦のよう。当時はもっと石垣が高かったかもしれませんが、徹底的に破却されていたため、本当の高さは誰にも分かりません。佐敷城は南端に本丸がありますので、石垣と土塁の高さが本丸と二の丸の合計分です。

 

本丸西門跡

佐敷城 搦手門跡

佐敷城 搦手門跡

佐敷城 搦手門跡

搦手門にあたる本丸西門跡。本丸西門とありますが、実際は二の丸に繋がっている帯曲輪への門跡になります。また、ここから桐紋の鬼瓦が出土しました。

 

本丸石段

佐敷城 本丸

佐敷城 本丸

佐敷城 本丸

西門跡の石段を上がると、更に本丸への石段が続きます。縄張りで面白いのが、さほど広くない本丸が通路で南北に別れています。これって、意味があるんですかね?

本丸(南側)

佐敷城 本丸

佐敷城 本丸

とうとう本丸(南側)に辿り着きました。ベンチ等は無く、ただただ芝生が広がっています。

 

佐敷湾方面

邪魔な木が一切無いので、見晴らしが抜群に良いですね。現在は遠くに海が見渡せてますが、以前は山裾まで湾が入っていました。あの佐敷駅からてくてく歩いてきたと思うとより感慨深いです。

 

二の丸

佐敷城 二の丸

本丸から見下ろした二の丸。櫓とかが無いためか、なんだか普通の公園みたい。

 

東出丸

佐敷城 東出丸

北東に広がる東出丸。昭和の公園整備の際のテーブルとイスが小さく見えますね。

 

本丸東門跡

佐敷城 本丸東門跡

佐敷城 本丸東門跡

佐敷城 本丸東門跡

二の丸には本丸東門跡を通って向かいます。佐敷城は東山麓を通る薩摩街道側が大手でしたので、こちらは大きな門が連続していますね。

 

二の丸

佐敷城 二の丸

ただただ芝生が広がっています。埋もれていた佐敷城の復元にあたっては、石垣を中心に史実に基づいた整備が行われました。

 

三の丸

佐敷城 三の丸

佐敷城 三の丸

二の丸から見た三の丸、三の丸から見た二の丸と本丸。途中で段になっているのがよく分かります。特に二の丸から飛び出たところが不思議な感じ。芝が多いせいか、なんだか前方後円墳のような遺跡に見えます。

 

二の丸東門

佐敷城 二の丸東門

佐敷城 二の丸東門

佐敷城で最大の大きさを誇る二の丸東門跡。とても立派な枡形で、山城とは思えません。発掘時は石材と栗石に覆われており、石段踏石が途中から取り除かれた状態でした。破却の跡でしょうね。

追手門

佐敷城 追手門

佐敷城 追手門

二の丸東門を出て直ぐにある追手門。枡形が連続しており堅固な縄張りです。発掘時にここから天下泰平銘の鬼瓦が出土しており、桐紋の鬼瓦が出土した本丸東門と同様、破却の際に何らかの儀式が行われた可能性があります。

 

枡形出口

佐敷城 追手門枡形を出てすぐが崖になっているため、左右どちらかに分かれる必要があります。その道がとても細く、大手道とは思えないすごい縄張り。

東出丸への道

佐敷城

だって、出丸への道がこんなに狭いんですよ。一歩間違うと転げ落ちそう。この付近の石垣は築城当時のものみたい。

 

本丸方面

佐敷城

南出丸へ向かう途中、振り返って本丸を眺めてみました。まるで軍艦みたい。

 

南出丸

佐敷城 南出丸

南出丸には配水池のタンクがありましたが、2013年(平成25年)に撤去・移設されました。佐敷町の佐敷城に対する熱意が垣間見えました。

 

清正公祠

佐敷城 清正公祠

南出丸には明治に祀られた清正公の祠がありました。御神体が無くなっているので、少し不気味に感じました。人気(ひとけ)もないしね。

 

感想

本丸からの眺めが本当に最高でした。遺跡チックな縄張りも見応えがあり、流石は清正公が築いただけあります。また、この埋もれた城を整備してくれた芦北町(旧佐敷町)にも感謝です。古墳好きにも刺さる城ですぞ。