石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

丸亀城(香川県丸亀市) 日本有数の高石垣と現存天守

現存12天守の一つが残る丸亀城。こぢんまりとした天守はもちろん、一二三段に築かれた日本有数の高石垣は見応え十分。丸亀名物は団扇やうどんだけではない!

日本100名城

2016年2月登城

満足度:★★★★

 

歴史

高松城を築いた生駒親正は1597年に西讃岐の押さえとして丸亀城を築きましたが、一国一城令で廃城になりました。

1641年に肥後天草から山崎家治が西讃岐に入封し、丸亀城は復活しました。その際に扇の勾配で有名な高石垣が築かれました。しかし、2代目俊家が35歳、3代目治頼が8歳で死去し、1657年に山崎家は断絶し改易となりました。

山崎家の断絶後、1658年に京極高和が丸亀藩主となり、以後京極家で明治維新を迎えました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

JR丸亀駅から南に歩いて約10分。市内からも目立ちますので、迷うことは無いかと思います。

 

城歩き 

大手門と天守

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正面は大手二の門(高麗門)、 右の櫓門は大手一の門。江戸時代の現存建築物で重要文化財に指定されています。

 

城内案内図

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城内はぐるっと堀に囲まれており、丘陵に本丸・二の丸・三の丸を段々に築いています。だから、下から見ると石垣が立ち並んでいるように見えるわけですね。

 

三の丸の高石垣

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大手門から急な見返り坂を上っていくと、三の丸の高石垣がお出迎え。高さもさることながら、丁寧な石積みと扇の勾配がとても美しい。

 

二の丸入口

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二の丸入口は桝形になっています。

 

二の丸井戸

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深さが三六間(約65m)あると伝えられる井戸。石大工の羽坂重三郎が口封じのためこの井戸で殺されたとの怖い話もあります。

 

天守

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本丸の隅っこにぽつんと建つ天守現存天守の中では一番小さなサイズです。実は長方形であり、長辺側を城下に向けて少しでも大きく見せようと涙ぐましい努力をしています。

 

讃岐富士

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本丸は天守以外に見どころはありませんが(おいっ!)、 見晴らしはとにかく最高。飯野山(讃岐富士)もこのとおり。当時は城下への船の出入りも監視していたのでしょうね。

 

搦手口

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生駒氏時代の大手はこちら側(南)だったので、搦手口も立派な石垣です。石垣マニアにはこちらも見て欲しい。

ただ、2018年の大雨の影響で、帯曲輪と三の丸の南西部の石垣が崩落し、2023年(令和5年)までの復旧を目指しています。

 

感想

この城の石垣は凄いの一言。どうしてこの城にこれほどの石垣を築いたのかが不思議に思えるくらいです。丸亀市のHPも気合が入っていますので、ぜひ見てください。

 

 

 

松江城(島根県松江市) 国宝に指定された現存天守

現存では姫路城に次ぐ大きさの天守が残っている松江城。2015年には念願の国宝に指定されました。街中には堀が残るし、武家屋敷もあるし、しっとりとした趣の城下町歩きもお薦めです。

日本100名城

2016年1月登城

満足度:★★★★★

 

歴史 

関ケ原の合戦の戦功により、堀尾吉晴,忠氏親子は出雲・隠岐を拝領し、一旦は月山富田城に入りました。しかし、月山富田城は領地の東に偏った山中に位置していたことから、新たに築城したのが松江です。堀尾家断絶後、京極忠高が小浜から入封したもののわずか4年で病没。松本から松平直政が移封し、以後明治維新まで松平家十代の居城になりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR松江駅から徒歩30分。駅からバスがバンバン出ているので、まず困ることはないでしょう。

 

空港利用者にお薦めしたいのは「縁結びパーフェクトチケット」。バスと一畑電車が3,000円で3日間乗り放題で、松江城を始めとした入場料割引が受けられます。出雲空港から松江駅まで往復2,060円なので、すぐ元が取れますよ。
www.san-in-tabi.net

 

城歩き

松江城二の丸の石垣

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バスを降りてすぐに見えるこの絶景。堀と高石垣のコントラストが素晴らしい。内堀に高石垣と櫓が逆さに映っています。

 

縄張り図

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水堀と石垣に囲まれた堅固な縄張り。北西部がやや手薄に見えるのは、経済的な事情で工事が中断されたからだって。いつの時代も金がないのは辛いわ。

 

大手門跡と太鼓櫓

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松江市が大手門の復元資料を探していて、なんと500万円の懸賞金までかけています。見つかってほしいね。

 

外曲輪(二之丸下の段)

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芝生と松のだだっ広い外曲輪。 江戸時代は蔵や長屋が立ち並んでいたこと。

 

太鼓櫓と三之門

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太鼓櫓を横目に石段を上ります。打込み接ぎの石垣が美しい。太鼓櫓は2001年に再建されました。

 

本丸石垣と天守

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石段を上ったところから、チラ見の天守

 

一ノ門

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この一ノ門の先が本丸です。入ってすぐに料金所がありますが、本丸に入るだけなら無料です。小泉八雲旧居や武家屋敷との共通券も売っていますのでぜひどうぞ。

 

天守

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4層5階地下1階の付櫓を設けた複合式天守天守。 望楼型で黒板張りなので古風な印象ですが、実戦向けのところがいい。2015年に国宝に指定されました。

 

井戸

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地階には籠城に備えた井戸がありました。天守に井戸があるのは珍しい。

 

石落し

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もちろん石落しだってあります。

 

最上階

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天守内の展示はシンプルで、最上階の開放感が堪らない。宍道湖も見渡すことが出来ます。

 

 

北之門

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帰りは北之門から下城しました。

 

水手門跡

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腰曲輪から中曲輪へ水手門跡を下りてきました。この石垣も見事だな。こちらの方には観光客はあまり来ないのですが必見です。

 

感想

国宝指定された天守が素晴らしいのは当然ながら、本丸や二之丸の高石垣も見事です。というか、国宝に指定するのが遅いよ。また近くには武家屋敷や小泉八雲旧居もあり、松江は城下町の面影を色濃く残しています。出雲大社もいいけれど、ぜひ松江城の素晴らしさも知ってください。

 

備中松山城(岡山県高梁市) キツイ登城と石垣を楽しむ

臥牛山の峰のひとつ「小松山」を中心に築かれた備中松山城天守は現存12天守のひとつで、天守の現存する城としては唯一の山城です。今回は駅から歩きましたが、自力で登るのはとてもキツイ。覚悟して臨めよ!

日本100名城

2015年12月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史 

承久の乱後、相模国から着任した秋庭三郎重信が1240年に臥牛山に城を築いたのが松山城の始まりと伝えられています。その後、城主は度々替わりましたが、城の中心は大松山でした。

戦国時代には毛利氏・尼子氏・宇喜多氏の間で激しい攻防が繰り返されました。1572年に毛利氏と宇喜多氏が和睦すると、松山城主・三村元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻しました。父・家親が宇喜多直家により暗殺されており、宇喜多家が許せなかったのでしょうね。

1574年に毛利・宇喜多連合軍が備中に侵攻し、次々に諸城が落とされました。元親は松山城に籠城したものの、翌年には内通により天神の丸が陥落。ほどなく松山城は落城し、元親は松連寺で自刃しました。この一連の戦いを備中兵乱と呼び、三村氏は滅亡しました。

三村氏滅亡後の松山城は毛利氏の番城となります。宇喜多直家織田信長と結び毛利氏と争うと、松山城は毛利氏の前線基地となりました。このとき小松山(現在の備中松山城)の前身が出来上がりました。

関ヶ原合戦後には備中代官が置かれ、小堀正次・遠州父子が赴任し、松山城の修築を進めました。その後、1642年に水谷勝隆が備中松山藩の初代藩主となり、1681年から子の勝宗が大改修し、現在の備中松山城が完成しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

駅から少し離れていること、山城ということから、自家用車かタクシー利用じゃないとかなり厳しいです。市のHPが詳しいので参考にしてください。

備中松山城へのアクセス - 高梁市公式ホームページ

 

・自家用車の場合は、「城見橋公園駐車場(5合目)」に車を停めて、そこから「ふいご峠駐車場(8合目)」まで登城整理バス(シャトルバス)を利用。6~10月・12~3月の平日は登城整理バスが運行されていないので、「ふいご峠駐車場(8合目)」まで車で行くことが可能。

・タクシーの場合は、JR高梁駅から「ふいご峠駐車場(8合目)」まで行くことが出来ます。また、お得な観光乗合タクシーが1日4往復運行されていますので、少人数の場合はぜひ利用ください。ただし、前日までの予約が必要になります。(当日予約は出来ませんでした)

・路線バスもありますが、「松山城登山口」までなのと、土日祝は運行本数がかなり減るので利用しにくいです。

・今回私はJR高梁駅から徒歩で向かいました。(少し後悔している) 

 

城への道のり

高梁栄町商店街

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備中松山城には学生の頃に一度来たことがあります。その時はタクシーを利用しましたが、町並みも見たかったので、JR高梁駅から歩きました。高梁栄町商店街のアーケードは立派でしたが、人が少ない・・・。私の地元もそうですが、地方都市は厳しいな。

 

紺屋川筋

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かつて備中松山城の外堀の役割を果たしていた紺屋川。「日本の道100選」にも選ばれています。それより空が曇ってきたぞ。

 

頼久寺

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高梁市内には石垣のしっかりしたゴツい寺が多い。ここ頼久寺の庭園は、備中国奉行を務めた小堀遠州の作庭です。

 

城歩き

備中松山城入口

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駅から歩くこと約30分、備中松山城入口にようやく着きました。場所は小高下谷川沿い、高梁高校と中洲公園の間です。迷わず遊歩道へと進みます。

 

遊歩道(登山道?)

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やっちまった!意外と整備されていますが、結構急な遊歩道が続きます。途中には階段もあり、息を切らせながら黙々と歩きます。

 

大石良雄腰掛岩

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大石良雄って誰?」って思う人もいると思いますが、忠臣蔵大石内蔵助の本名です。備中松山城藩主であった水谷家断絶に伴い、浅野内匠頭が収城を行い、家老の大石内蔵助が水谷家家老の鶴見内蔵助と会見したとのことです。本当にこの岩に腰掛けたかは分かりませんが、この遊歩道は当時登城道だったんですね。

 

城歩き

 備中松山城全体図

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遊歩道入口から40分ほどで鞴峠(8合目)に到着。看板に「小松山城跡」と記載されいるのが目的の備中松山城です。タクシーだったらここまで寝てても着いてるんだよな。ちくしょう、もうひと踏ん張りや。

 

中太鼓櫓跡 

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鞴峠から10分ほどで初めて石垣が見えてきましたよ。 中太鼓櫓跡ですね。

 

中太鼓の丸の説明

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下に見える「下太鼓の丸」とこれから向かう大手門の間にある曲輪とのこと。それにしてもよくここまで登ってきたな。

「見ろ! 人がゴミのようだ!」 by ムスカ

  

大手門跡

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ようやく大手門跡まで着きました。この石垣には気持ちが昂ぶります。普通に登ってくるだけでもこんなに疲れるのに、ここまで石を運んできた苦労を考えると頭が下がります。

 

大手門虎口

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二の平櫓跡付近から見る大手門虎口方面の石垣が素晴らしい。奥の方は自然の岩盤を上手に利用しています。

 

三の丸方面

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三の丸に沿って土塀が建てられています。

 

本丸入口

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土塀・五の平櫓・六の平櫓が木造で復元されています。

 

天守

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登山口から休憩や写真を撮りながら1時間半かかりました。天守は2重2階で唐破風出窓がアクセントになっています。備中松山藩は小藩ですし、山城に高層天守は必要無いですからね。

2重櫓と天守

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後曲輪からの二重櫓と天守の姿。 二重櫓も天守と同じく重要文化財です。

 

天神の丸跡と大松山城跡への看板

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今まで見てきた備中松山城跡は小松山にありますが、中世は大松山城が中心でした。時間が無くなってきたのでパスしましたが、大池という石垣プールは見ておけばよかった。

 

感想 

登城途中は泣きたくなりましたが、山頂の石垣は見応えがあり満足しました。また、高梁市は城の整備に力を入れていて、要所に案内看板が設置しており参考になりました。JR利用の方はぜひ乗り合いタクシーを利用しましょう。私は絶対利用します!

 

おまけ

松連寺

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備中松山藩主の水谷勝隆により、備中松山城の砦の役割を兼ねて創建されました。拝観は出来ませんが、要塞のような石垣がすごすぎる。

 

安土城(滋賀県近江八幡市) 信長が栄華を誇った城

言わずと知れた、織田信長の居城であった安土城天守や石垣を特徴とする近世城郭はこの城から始まりました。現在建物は何も残っていませんが、石垣とロマンがあります。戦国ファンは必見ですぞ。

2015年10月登城

日本100名城

満足度:★★★★ 

 

歴史

織田信長の天下統一の拠点として、1576年に築かれました。5重7階の天主,総石垣,金瓦と以後の日本の城に大きな影響を及ぼしましたが、本能寺の変後に放火され灰燼に帰しました。築城からわずか6年の栄華。チーン。

  

交通アクセス

行きやすさ:★★★

JR安土駅から徒歩30分。駅前にはレンタサイクルもあります。 正直ローカルな駅ですが、琵琶湖線なので本数はそこそこあります。

 

城歩き

安土城 百々橋口

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観音寺城からレンタサイクルで百々橋口に向かいましたが、今はここからは入城できないようで残念。信長時代にはここからが謁見のための正式ルートでした。

  

大手道

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現在の入口はこの大手道。平成元年から開始された調査にて発掘されました。大手口から直線的に180m進み、両側には屋敷地が並んでいます。実は当時の記録には残されていないため、天皇行幸用とか、資材運搬道用とか諸説あります。

 

前田利家邸跡

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大手道を登り始めてすぐ右側にある伝前田利家邸跡の虎口。数段の郭に分かれた複雑な構成とのことですが、木が生い茂っていてよく分からん。残念。

 

羽柴秀吉邸跡

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大手道の左側にある伝羽柴秀吉邸跡。屋敷跡とは思えない見事な石垣。でも、“伝”って付くってことは、本当に羽柴秀吉豊臣秀吉)の屋敷かは分からないんだろな。更に先には伝徳川家康邸跡(摠見寺)が在りますが、絶対徳川家康の屋敷跡ではないと思います。(家康は信長の部下じゃないし)

 

織田信忠邸跡と石段

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大手道の直線を120mほど登ると突如左に曲がり、九十九折れの道となります。更に伝織田信忠邸跡あたりで百々橋口からの道と合流し、天主への石段が続きます。

 

黒金門跡

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安土城の中枢部への入口となる黒金門跡。桝形になっており、今まで以上に立派な石が使われています。

 

伝二の丸の石垣

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黒金門跡を通ってすぐの伝二の丸の高石垣。実は安土城の石垣の多くは昭和・平成の発掘調査の際に整備されたものが多いのですが、この石垣は当時のものです。安土城の石垣の一番の見所だと思います。

 

天主各跡への道

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とうとう最終の天主閣跡が近づいてきました。安土城は、“天守”ではなく“天主”と表記するのが正しいそうです。

 

天主地下室部分の礎石

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この礎石が天主を支えていました。この上に建てられた5重7階の天主はさぞや荘厳だったでしょうね。2019年、滋賀県が天主の復元を検討とのニュースがありましたが、詳しい史料が見つかっていないので難しいでしょう。
 

感想

信長好きには堪らない城です。大手道から天主台に向かうまでワクワクが止まりませんでした。当時は琵琶湖の内湖に三方が囲まれており、羽柴秀吉長浜城明智光秀坂本城,織田信澄の大溝城と琵琶湖ネットワークを作っていたというのもロマンです。

 

入城料について

2019年時点で拝観料(入城料)が700円と、私の知る限り姫路城の1,000円に次いで高いです。また、立入禁止箇所が増えました。安土山は摠見寺の私有地なのでしょうがないのですが、個人的になんだかな。

 

観音寺城(滋賀県近江八幡市) 信長と争った佐々木六角氏の居城

近江守護佐々木六角氏の居城だった観音寺城。信長の安土城の近くにあり、石垣造りを取り入れた城としても知られています。ただ、この城を自力で登るのはとても大変です。気合を入れて挑むべし!

日本100名城

2015年10月登城

満足度:★★ 

 

歴史

近江守護佐々木六角氏が繖(きぬがさ)山に築いた山城です。正確な時期は不明ですが、1471年にはほぼ完成されていたと推測されています。観音寺城の名称は、城の中心にある観音寺(現在の観音正寺)に由来します。

1568年の織田信長の上洛の際には六角承禎・義治父子が立ちふさがりましたが、支城の箕作城が1日で攻め落とされると観音寺城を放棄して甲賀に逃亡。その後まもなく廃城となりました。

 

観音寺城について

観音寺城は戦いだけの城ではなく、六角氏の生活の場所でもありました。連歌師・谷宗牧を招いたり、優雅に暮らしていたようです。

戦国の城には珍しく、空堀や竪堀はなく、石垣を多用しているのが特徴です。棚田のように曲輪が沢山あるのは、主従の結束が強くなく、家臣団が各々屋敷を構えたためと考えられています。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

※2022年7月加筆しました

車で観音寺城を目指す場合、必然的に観音正寺を目指すことになります。表参道(林道繖山線)と裏参道(林道観音寺線)がありますが、楽なのは断然裏参道の方です。両林道とも通行料がかかり、観音正寺でも拝観料を払うのがなんだかな、て感じです。

・車で裏参道(林道観音寺線)を通って、「観音正寺裏参道山上駐車場」に駐車。駐車場から10分程歩くと観音正寺。本堂横の登城道から10分で観音寺城本丸に到着。これが一番楽なルートになります。

・車で表参道(林道繖山線)を通って、突き当りの「観音正寺表参道駐車場」に駐車。駐車場からは400段(!?)の石段を上って観音正寺まで。400段の石段って何よと思われるかもしれませんが、麓からだと更に800段もあるのよ。

 

安土駅から徒歩またはレンタサイクルを利用した場合、代表的なのは下記ルートになります。どちらも石段を上ることになるで覚悟しておいてください。

安土駅から石寺楽市まで徒歩45分。そこから日吉神社経由で1,200段の階段を観音正寺までひたすら登ります。このルートは観音正寺への表参道にあたり、石段もしっかりしていますが、ひたすらキツイ。 

安土駅から桑實寺(くわのみでら)の登口まで徒歩25分。そこから桑實寺まで石段を上ること20分、更に30分ほど山登りすると本丸に到着。とにかくキツイ。

 

城への道のり

桑實寺への登り口

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安土駅から桑實寺への登り口まで徒歩で25分弱。私は近江八幡駅からレンタサイクルで30分かかりました。分かり難いですが、駐車場があります。

 

山門

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山門まではすぐ着きましたが、ここからが長かった。ちなみに山門を通るとセンサーが感知しチャイムがなります。桑實寺は有料なので、それでチェックしているみたい。

 

石段

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こんな立派な石段を15分ほど登ることになりました。でも、今から思うと観音寺城より立派な石段だったな。

 

桑實寺の本堂

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信長の「竹生島事件」の舞台になった寺です。信長が竹生島参詣に出かけた際、女房衆は留守の合間に羽根を伸ばしてました。ところが急に信長が戻ってきたため、桑實寺に参詣に訪れていた女房衆は処刑されました。

 

観音寺城への登城

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桑實寺を出てからが本番でした。途中で木が倒れていたり、石段が崩れていたりと、険しい山道を延々と登ります。途中に人気は全く無く、女性には全くお薦めできないルートです。帰りには滑って尻もちをついてしまいました。

 

城歩き

井戸跡

最初に目に入ったのは井戸跡です。今でも水が湧いていました。山城に井戸があると、生活や籠城を考慮していることが分かります。

 

伝本丸裏虎口

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桑實寺ルートだと本丸にいきなり着きますね。戦国時代の山城には珍しい石垣が築かれ、虎口が喰い違いになっています。

 

伝本丸

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「伝」と付くのは、本当に本丸だったか分からないから。ここより高い位置にある曲輪があること、観音寺城の曲輪の分布の西端にあることから、城の中核としてよいか疑問が持たれています。連歌師を招く余裕があるなら、ちゃんと記録を残せよと言いたい。

 

伝本丸の石垣

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伝本丸はそこそこ広く、周囲を石垣で囲われています。ただ、所々崩れていますね。木々に囲まれて見晴らしも望めません。残念。

 

大石段

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伝本丸跡へ登る大石段。この大石段がメインの登城ルートと考えられていましたが、2008年(平成20年)からの発掘調査にて、石段下に隣接する伝三ノ丸と繋がっていないことが判明しました。大石段下方から繋がるルートが他にも見つからず、謎は深まるばかりです。

 

伝平井丸の虎口

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観音寺城で一番の見所である伝平井丸の虎口。石垣の高さは4m弱あり、戦国時代の山城とは思えない立派さです。ただ、縄張りとしては単純な平虎口であり、シンプルなものになります。

 

伝平井丸屋敷跡

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曲輪の内の広さもなかなかのもの。この曲輪が本丸と言われても納得の広さです。

伝池田丸

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伝平井丸の先の伝池田丸。伝本丸や伝平井丸と比べると、周囲の石垣の石はやや小振りな印象。

 

感想

山城だからと覚悟していましたが、とにかくキツイ登城でした。桑實寺経由の山道はかなり荒れていて、それなりの覚悟が必要です。トイレも途中の寺で済ませておいてください。

城内は所々整備されている感じで、特に伝平井丸の虎口は圧巻です。ただ、城内に案内板を設置する等、もう少し整備してもらえると、100名城ということで訪問した観光客も楽しめると思います。今のままだと上級者向けの城ですね。