キリスタン大名・有馬晴信の居城だった日野江城。イエズス会のルイス・フロイスが絶賛するほどの豪華さを誇りましたが、息子の直純は延岡に転封し、廃城となりました。近年の発掘調査で安土城のような直線階段が見つかり話題になりました。
2022年3月登城
満足度:★★★★★
歴史
日野江城は有馬氏の歴代の居城であり、南北朝時代に築かれたとも言われています。
日野江城が歴史の舞台に出てきたのは、戦国大名・有馬晴信の代です。晴信は佐賀の龍造寺の侵攻を受けており、イエズス会からの支援を目的に接近します。そのために自ら洗礼を受け、領内各所に協会を設け、城下にセミナリヨ(初等教育機関)を開きました。招き入れられた宣教師ルイス・フロイスは、日野江城を絶賛しています。
1584年には沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取り、その後も豊臣秀吉の九州平定、文禄・慶長の役、関ヶ原の合戦を乗り切ったことから、キリスト教により傾倒しました。
キリシタン大名となり、南蛮貿易で巨万の富を手に入れた晴信の人生が暗転したのは、1612年の岡本大八事件でした。徳川側近・本多正純の重臣であった岡本大八は、有馬家の旧領回復を餌に晴信から賄賂を騙し取ります。やがて虚偽が発覚し、大八は火刑に処せられ、晴信は斬首となりました。また、晴信と大八が共にキリシタンであり、旗本にも信者がいることが発覚したため、幕府は禁教令を発令しました。
晴信の息子・有馬直純は家督を引き継ぎましたが、幕府からのキリスト教保護の嫌疑を晴らすため、一転してキリシタンを弾圧しました。この弾圧は異母弟たちも殺害するほど激しいもので、疲れた切った直純は幕府に国替えを願い出たとも伝えられています。
1614年に直純は延岡に転封し、有馬領は一時天領となりますが、1616年に大和五條から松倉重政が入封します。重政は新たに島原城を築城し、日野江城を廃城としました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
長崎の諫早駅から島原駅まで、島原鉄道で1時間10分。熊本からフェリーを利用した場合、熊本港から島原港まで60分。
それぞれの駅前のバス停から、島鉄バスで加津佐前浜海水浴場行きに乗って、橋口停留所で下車。島原駅からだと55分、島原港駅だと40分かかります。
諫早駅前から橋口停留所までのバスもありますが、3,4時間に1本しかありません。ちなみに乗車時間は90分です。
縄張図
日野江城は標高78メートルの城山に築かれ、本丸を中心に、東に二の丸、西に三の丸、北の丸が配置されました。各々は独立しており、大小15の曲輪の存在が確認されています。現在は干拓され海から離れていますが、当時は南側が入江に面していました。
城歩き
日野江城遠景
島原駅から原城に向かう途中に、バスから城らしき山を見かけました。Googleマップで確認したところ、日野江城ということが分かりました。原城を築いた有馬晴信の居城ですが、こんな近くにあったんだね。
現在は畑が広がっていますが、当時は城下まで波が来ていたそうです。
日野江城入口
橋口バス停から北に5分ほど歩くと駐車場があり、その先に日野江城の入口がありました。階段がコンクリート製なのが少々味気ない。
二の丸(上り)
本丸は4つ、二の丸は3つの段曲輪で構成されており、それぞれの曲輪を通って頂上部に向かいます。ちなみに全体図は本丸にしかないので、登城時はルートがよくわからずドキドキでした。
二の丸入口
イノシシ防止柵を開けて二の丸の下曲輪に入ります。貼り紙が無いと立入禁止と勘違いしそう。
直線階段遺構
二の丸に入って右手にあるのが直線階段遺構。現在は埋め戻されていますが、かつて大手口から100メートル以上の直線階段がありました。同様の直線階段は織田信長の安土城でも見つかっています。文化財保護は理解するけど、実際に見てみたい。
二の丸(曲輪7)
曲輪7の奥(西)へとずんずん進みます。地面がトラクターで掘り返されたように荒れていて、雨の日はかなりぬかるみそう。突き当りの場所からは土師質土器(素焼き土器)が大量に見つかっており、酒宴が行われていたとのこと。
二の丸(曲輪6)
一段上の曲輪6に上り、階段方向へと戻ります。石垣もありますが、防御用というよりも、土留めと区画割りが主用途のように感じられます。
階段遺構
発掘調査では、先ほどの直線階段とは別の階段遺構も見つかっています。特徴は現存する踏み石の半数以上に仏塔が使用されていることで、踏み絵のように仏を踏ませたかったのかもしれません。また、側面の石垣は薄い石材をパズルのように組み合わる加工がされており、海外の技術が使われていました。これも現在は埋め戻されていますが、現物をぜひ見てみたい。
二の丸から本丸へのルート
二の丸(曲輪5)から本丸へは、ぐるっと蛇行して進む必要があります。傾斜沿いの細道ですので、雨天のときには注意が必要です。
本丸(曲輪4)
本丸脇の袖曲輪に出ました。正面に道が続いていますが、奥にトラロープが張られているのが見えたので、本丸へと上がる道を選びます。大雨で崖崩れでもあったのかも。
本丸(曲輪3)
ようやく本丸に辿り着きました。山城にしてはサッカー場のように広い曲輪です。奥には更に曲輪がありますが、そのまま向かっても上れません(よじ登れば別ですが)。
また、遠く南に原城を望むことができます。当時は下まで海が迫っており、一際見晴らしが良かったでしょうね。
本丸(曲輪3)南西
本丸南側を西に進むと、突き当りに上り道がありました。日野江神社の鳥居も見えますね。
本丸(曲輪2)
鳥居手前の右手には、隠れるように曲輪がありました。ちょっとした公園のように整備されており、日野江城全体図の看板もありました。
本丸(曲輪1)
日野江城の最も高いところにある曲輪1に到着。山城あるあるで、さほど広くありませんが、碑と役小角の祠がありました。
本丸から浦口まで(下り)
本丸から三の丸に下り、北の丸にちょっかいを出してから下城してみます。
一休みしたところで、本丸西の三の丸方面とへと向かいます。こうやって見ると、結構急な階段ですね。イノシシ防止柵も健在でした。
三の丸(曲輪10)
イノシシ防止柵を出たところに広がっているのが三の丸曲輪です。ただ、三の丸には無数の段があり、どれが当時のものか(または後世のものか)、よく分かりませんでした。
土橋
ちなみにこの曲輪からは駐車場への道が続いています。正面に土橋が見えたので、北の丸にも足を伸ばしてみます。
北の丸
なめてました。案内板にはさらっと縄張りが書かれていましたが、曲輪の先が結構な藪になっています。石垣を見つけましたが、今自分のいる場所がよく分かりません。無理せず撤収。
竪堀
最初は車道で下城しようと思いましたが、三の丸と北の丸の間にある竪堀(と言うか谷間)を下ってみました。途中から畑跡みたいになって、最後まで行けました。
日野江城跡浦口
結局、城の西側にある日野江城跡浦口に出ました。車の方はここからの道路で三の丸まで行けます。図らずして、大手口ルートと浦口ルートを確認できましたが、日野江城にはもう一つ登城ルートがあります。折角なので入口まで行ってみましょう。
亀石への道
城の南にある日野江公民館を目指します。遠くに曲輪が見えていますね。
亀石と古道
登城口にある奇妙な形の亀石。登城道は所々で石畳や切通しになっています。キリスト教作家でもある遠藤周作氏は、ここから何度も日野江城を目指しました。
「北有馬の部落の山寄りに小さな立札で日之枝城と書いてあるが、それさえ目に入らぬくらいで出来ればこの立札さえ、ないほうがいい。山側に建った農家の裏庭から細い道が山にのぼる、道には往時を偲ぶ石畳が残っている。」
遠藤周作:埋もれた古城(切支丹の悲哀を秘める日之枝城)より
感想
歴史を知ってから訪ねると、この城の見方が変わりました。キリスタン大名の有馬氏のこの居城には、ポルトガル人も多く訪れ、現在の様子からは信じられないほど賑わっていたんでしょうね。
とても残念なのは、城内整備が中途半端に感じられたことです。ユネスコの世界文化遺産「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」から登録申請の際に外されたせいかもしれません。階段遺構だけでも公開すれば、今よりは人気が出ると思うんだけどな。私は絶対見たいぞ!