小諸城は城下町よりも低い位置にあるため、「穴城」と呼ばれていました。明治の文豪・島崎藤村は「小諸なる古城のほとり~」と詩に詠みました。
日本100名城
2024年4月登城
満足度:★★★★★
歴史
小諸城の始まり
小諸城の起源は、1487年に大井光忠が築いた鍋蓋城とされます。光忠の子・光安は乙女坂城を築きましたが、両城は後の小諸城の二の丸、三の丸付近に位置しました。
武田信玄による築城
1541年、武田信玄は信濃侵攻を開始し、1543年に両城を攻略。信濃平定を進める中で、両城を取り込み小諸城を築城しました。縄張りは山本勘助によるという説もあります。
仙石家による大改修
武田家滅亡後、城主は変遷。1590年、豊臣秀吉の天下統一後、仙石秀久が5万石で入封し小諸城を大改修。現在の遺構の多くはこの時のものです。しかし、仙石家は三代で上田へ転封となりました。
牧野家による統治
その後、藩主は頻繁に交代しましたが、1702年、牧野康重が1万5千石で入封。以降、牧野家が約170年間小諸を治めました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
しなの鉄道、JR小諸駅から徒歩3分。かつての城内を鉄道が通っています。
縄張図
小諸城の本丸と二の丸は、千曲川の浸食によって形成された台地上に築かれており、周囲は深い谷に囲まれています。谷が途切れる東側が弱点ですが、出丸の役割を果たす三の丸を配置することで守りを固めています。
出典:国土地理院標高図
小諸の街は浅間山の南斜面に広がっており、南西に向かって傾斜しています。そのため、千曲川の河岸段丘に築かれた小諸城は、城下町よりも低い位置にあります。
これにより、小諸城は「穴城」とも呼ばれていました。
城歩き
城内を鉄道が南北に走り、西側には懐古園(本丸や二の丸)、東側には大手門が残っています。
大手門
大手門は瓦門とも呼ばれる、入母屋造の豪壮な櫓門です。明治以降に民間に払い下げられましたが、2007年(平成19年)に保存修理工事が行われました。櫓内も公開されており、小諸城関連の展示を見学できます。
旧大手道
三の丸周辺は市街地化が進み、大手門以外の遺構は残っていません。
線路とトンネル
三の丸と二の丸の間には線路があるため、地下トンネルをくぐる必要があります。線路の向こうに見える三の門は、標高差によって沈んで見えます。これが「穴城」と呼ばれる証の一つです。
三の門
小諸城といえば、懐古園入口に建つ三の門が有名です。
江戸時代の三の門は入母屋造、柿葺でしたが、現在残る三の門は、明治以降に改築された寄棟造、瓦葺のものです。
懐古園の扁額
城址の荒廃を憂いた旧小諸藩士たちは、本丸跡地の払い下げを受け、御殿跡に懐古神社を建立し、花木を植えて「懐古園」と名付けました。
懐古園の扁額は、徳川宗家16代当主・徳川家達の筆によるものです。
二の丸石垣
三の門を通って、二の丸石垣沿いの道をまっすぐ進みます。
二の門跡
二の丸への入口には、二の門が建っていました。
二の丸
1600年(慶長5年)、小諸藩主・仙石秀久は、関ヶ原へ向かう徳川秀忠をこの二の丸に迎えました。
面白いことに、秀久は徳川軍と共に隣国の真田昌幸の上田城を攻めましたが、1622年(元和8年)に息子の忠政は上田へ転封となりました。
中仕切門跡
北の丸と南の丸の間を進むと、途中に中仕切門跡があります。中仕切門は、櫓部分が二階建ての少し変わった構造の門でした。
北の丸
北の丸は現在弓道場として使われており、この日も弓を引く様子が見られました。
南の丸
南の丸へは、石段を上って入ります。曲輪の南側は深い谷になっており、天然の堀として機能していました。
黒門橋
本丸入口には、かつて黒門が設けられていました。
黒門の手前には橋が架けられており、黒門橋と呼ばれています。当時の黒門橋は引橋で、敵の侵攻時には城内へ橋を引き込むことができました
空堀
黒門橋の下には、紅葉谷と呼ばれる空堀があります。深さは8メートル近くあり、小諸城では珍しい、人工の堀です。
新緑の季節、青紅葉が本当にきれいですね。
本丸石垣
本丸内に入ると、道が左右に分かれています。左手の道を進み、旧小諸藩主を祀る懐古神社へと向かいます。
懐古神社
懐古神社は、1880年(明治13年)に旧小諸藩士たちによって、本丸御殿跡に建てられました。祭神として、旧藩主の牧野家が祀られています。
本丸西側石垣
本殿の左横の奥から、本丸西側の石垣に登ることが出来ます。石垣は天守台に続いています。
天守台
豊臣秀吉の天下統一後に入城した仙石秀久によって、3重天守が建てられましたが、1626年(寛永3年)に落雷により焼失しました。その後、小諸城では天守が再建されることはありませんでした。
残念ですが、穴城と呼ばれるだけあって、眺めはあまり良くないですね。
本丸北側への道
黒門前に戻り、今度は藤村記念館のある右手の道を進みます。
島崎藤村像
明治の詩人であり文豪であった島崎藤村は、1899年(明治32年)から1905年(明治38年)までの約6年間、小諸で教鞭をとりました。
1900年(明治33年)には、雑誌『明星』に「旅情(小諸なる古城のほとり)」を発表しました。
天守台
天守台の石垣は、自然の石をそのまま用いた野面積みで、豪快な荒々しさがたまりません。一つ一つの石の大きさと、積み上げられた力強さに圧倒されます。苔むした石の古城感もいい雰囲気です。
馬場跡
本丸西側には、かつて直線状の馬場が設けられていました。
本丸北西端
本丸北西部では、北谷や地獄谷が天然の空堀として機能していました。その谷の深さを見れば、城下町より低い場所に城を築いた理由が分かります。
地獄谷
地獄谷に架かる酔月橋から小諸城を見上げると、切り立った険しい崖になっています。ここから攻め込むのは、非常に困難だったでしょう。
水の手展望台
先ほど見上げた崖の上には、水の手展望台があります。
水の手展望台からの眺め
水の手展望台から西側は、千曲川が蛇行しながら流れる様子を眼下に見下ろすことができます。また、北側では、断崖絶壁が続く地獄谷の深さを改めて実感することができます。
水の手不明御門跡
展望台の横には、水の手不明御門がありました。水の手不明御門は緊急脱出用の門で、普段は閉じられていました。
本丸南西端
本丸の南西端には、かつて遠見番所がありました。現在は富士見展望台が置かれています。
白鶴橋
現在、動物園のある場所には、かつて米倉が置かれていました。富士見展望台からは白鶴橋を渡って行くことができます。
木谷
白鶴橋の下には、木谷と呼ばれる深い谷があります。小諸城の南側の要害として機能していました。
感想
古城感が強く感じられる城趾でした。本丸を囲む深い谷を見ると、城下町より低い場所に城を築いたのも納得です。懐古園内は公園になっていて見学しやすいので、観光にも是非どうぞ。