日本三大山城に数えられる高取城。作家・司馬遼太郎に、「アンコール・ワットに入った人の気持がわかる」とまで言わしめた山深い城です。気合で歩いて登城しましたが、みなさんにもこの苦労をぜひ味わっていただきたい!
2020年6月登城
満足度:★★★★★
歴史
高取城は、1332年に南朝方の豪族・越智邦澄によって、本拠貝吹城の詰の城として築かれました。以後、中世的な山城へと整備されていきますが、戦国時代に越智氏は滅亡し、高取城も廃城になりました。
1584年、大和郡山の筒井順慶が郡山城の詰の城として復興に着手していきますが、翌年伊賀に転封になりました。
代わって、豊臣秀吉の弟・秀長が郡山に入城し、高取城は家臣の本多利久によって大拡張工事が行われました。この時、広大な石垣づくりの城に生まれ変わりました。豊臣家の力ですかね。
本多氏は大和豊臣家の断絶後は秀吉の家臣として独立し、高取城主にまで栄達しました。関ケ原の合戦では東軍に付き、2万5千石の高取藩主にまでなりましたが、嫡子なく本多家は3代で断絶しました。
1640年、代わって譜代の植村家政が入城し、以後植村家が14代続き明治維新を迎えました。幕末には尊皇攘夷派の天誅組の襲撃を撃退し、この戦いは司馬遼太郎の「おお、大砲」によっても描かれています。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
最寄りの駅は近鉄の壺阪山駅。「壺阪山ってどこ?」と思ったけど、飛鳥駅の一つ先の駅でした。問題は駅から城跡まで4キロ以上あり、しかも途中から険しい山道になることです。
・王道は、駅から土佐街道を通って南東に進み、二の門から大手道を登っていくコースです。問題は登城口まで2キロ強歩く必要があり、更に山道を2キロ登る必要があることです。
・壺阪寺までバスに乗り、そこから壺阪口門跡を通って本丸まで歩いて目指すコースもあります。先の土佐街道コースよりは楽ですが、寺から1時間近く上る必要があります。バスの本数が少ないのも難点です。
・徒歩だと非常に厳しい高取城ですが、実は車を利用すると楽に登城できます。県道119号で八幡口登り口まで車を利用し、そこから歩くと壺坂口門跡を通って本丸まで20分。県道の行き止まりの七ツ井戸下まで車で行けば、本丸まで歩いてたったの10分。ただ、道が非常に狭くすれ違いが困難なのと、車を停めておくスペースも小さいので、運転の苦手な人はタクシー利用かな。
城への道のり
城下からの本丸までひたすら登る、王道の土佐街道コースで城へと向かいました。
土佐街道は城下のメインルートであり、両脇には古い町家が残っています。この石畳は、阪神大震災の復旧工事で出てきた阪神国道線の石畳を利用しています。
松ノ門(移築・再建)
児童公園入口に高取城松の門の一部が再建されています。松の門は明治に小学校に移築され、1944年(昭和19年)の火災後に解体された残材によって再建されました。
田塩家長屋門
格子が横向きの「与力窓」を二つ付けた長屋門。現在も人が住まれています。
植村家長屋門
なまこ壁が印象的な植村家長屋門。旧藩主・植村家の住居となっており、元殿様が実際に住んでいるなんて凄いよね。
砂防公園休憩所
砂防公園まで約30分かかりました。距離的には中間地点になりますが、この辺りから道が険しくなってきました。トイレはここで済ませておきましょう。
黒門跡
砂防公園から7分ほどで黒門跡に到着。門の痕跡は残っていませんが、ここから先が高取城の領域になります。
大手道
大手道入口の高取城阯の碑。ずっと山道を登ってきたのに、本丸まで更に1.7キロ。しかも、ここからが本当の地獄だ!
七曲り
曲がりくねった坂道が続きます。途中までカーブを数えていたけど、7つ以上曲がってるじゃん。この辺りから石垣がちらほら出てきて、少しだけテンションが上ります。
一升坂
ずっと続く絶望の坂道。名の由来は、築城の際に石材を運ぶ人夫に米一升を加増したから。割増料金をもらわないとやってられないのが十分理解できます。本丸までまだ1.2キロ弱。
猿石
二の門の外にある謎の猿石。ここまで駅から75分かかりました。
この猿石は、飛鳥の吉備津姫墓にある猿石と同種であり、大手筋と岡口門の分岐点である二の門前に置かれています。石垣として利用する転用石として運ばれてきたという説もありますが、城内との境目を示す「結界石」との説に一票。
城歩き(二の門から本丸まで)
高取城登城ルート
ハイキング地図ダウンロード■高取町観光ガイドから高取城之図をお借りして、登城ルートを追記してみました。二の門から本丸まで872メートル、高低差は110メートルもあり、 こりゃ疲れそうだ。かつては途中に多数の門と虎口が設けてありました。
二の門跡
二の門より内側が城内となります。かつては門前に堀切があり、木橋が架かっていました。
水堀
二の門の左脇には山城では珍しい水堀があります。増水した場合、奥から谷底へ排水する仕組みになっています。
城内の坂道
往時は二の門から少し先に三の門がありましたが、遺構は残っていません。また、両脇に侍屋敷が立ち並んでいたらしいのですが、倒木と崩落がひどくて確認は困難です。
国見櫓跡
途中に国見櫓への案内が出ていたので、横道に入ってみました。国見というだけあって、櫓跡からは大和盆地一円を見渡せます。この日は曇ってて残念。夜景もキレイとのことですが、誰が夜中にこんなとこまで来るんだよ(笑)
矢場門跡
崩れかけの石垣が金網で覆われていて、なんとも痛々しい。
松ノ門跡
先の児童公園に復元された門がありましたね。ここも石垣が崩れているな。
宇陀門跡
食い違い虎口の千早門。ちなみに宇陀は奈良県中東部の地名です。
千早門跡
立派な石垣の千早門。楠木正成の千早城から名を取っていますかね?
大手門跡
大手門まで来るのに、二の門からだと途中5つの門を通る必要があります。また、本丸に至るには、二の門・壺阪門・吉野口門のどのルートから登ってきても、必ずこの大手門を通らなければなりません。
十三間多聞跡
二の丸に入るには、十三間多聞門を通る必要がありました。正面に門の無い枡形です。
二の丸
山城にしては、芝生公園と言えるくらい広い二の丸。かつては御殿が建てられており、政務や藩主の中心でした。奥に見えるのは、太鼓櫓・新櫓の石垣。1972年(昭和47年)に修復されているので、妙に新しくみえます。
十五間多聞跡
本丸下郭への入口にある十五間多聞櫓跡。
本丸天守台
この圧倒的な本丸天守台。石垣の高さは12メートルもあり、かつては3層白亜の天守がそびえ立っていました。古墳からの石も転用されているとのことですが、いかにも奈良っぽいですね。
本丸虎口
二の門から幾つもの虎口を通ってきましたが、ここが最後の関門となります。
本丸
山城にしては広い本丸。二の門から城内に入ってから、のんびり歩いて45分。かつては大天守・小天守・御殿がありました。
天守台
本丸北西隅には先程下から見上げた天守台があります。眺めは期待したほどでもないですが(失礼)、柵が無いので石垣の際まで近づけます。高所恐怖症の方は注意!
城歩き(大手門前から弥勒堀切まで)
マニアックですが、吉野口門の先にあるという弥勒(みろく)堀切を見に行きました。堀切とは、山城でよく見受けられる尾根筋をV字型に切断した遮断線です。
弥勒堀切ルート
大手門手前から、三の丸・吉野口門跡を経由して芋峠へ向かう途中にあります。矢印のまだ先にあって、縄張図や地図には載っていないので少々不安あり。
大手門手前から三の丸へ
大手門手前に芋峠への案内が出ていますので、そこから三の丸に下ります。芋峠は明日香と吉野の間にあり、高取にとって交通の要衝でした。
本丸下の石垣
右手に苔むした壮大な石垣を見ながら進みます。また、左手には吉野口郭が広がっていたはずですが、倒木や落ち葉の荒れ具合がひどくて立ち寄れません。
吉野口門跡と登り石垣
吉野口門跡を過ぎて振り返ると、門前の斜面に沿って石垣が築かれていました。
堀切
林道を進んでいくと(赤色ルート)、突然道が断ち切られました。左側に迂回して(青色ルート)下から見上げると、尾根がV字型に切り取られています。しかも、断面を石垣で補強しているのがすごい。
林道
堀切を抜けた後は、右側が崖になっている道をひたすら進みます。滑ったら本当に洒落になりません。倒木を林道部分のみ切断しているのが少しシュールでした。
弥勒(みろく)堀切
先の堀切から7分ほどで弥勒(みろく)堀切に着きました。尾根筋がスパッと断ち切ってあって、谷底からの高さは6メートルはあります。櫓台のように、しっかり石垣で築かれていました。
感想
城の入口まで辿り着くのも一苦労、ものすごい山城でした。しかも、こんなに石垣を張り巡らせた山城はちょっと経験ありません。特に本丸天守台の高石垣は必見です。
ただ、大手門から本丸まではよく整備されていますが、他は石垣の崩れや倒木も目立ち、このままだと自然に帰ってしまう気がします。高取町の負担も重いと思うので、国や県が助けてくれないかな。切実に願います。