中海に面した湊山とその麓に築かれた米子城。往時には山頂にツイン天守がそびえ立っていましたが、廃城後に薪代わりに燃やされたという悲しい話が伝わっています。近年改めて調査と整備が進み、登り石垣や竪堀が発見されました。今後要注目の城です。
2019年11月登城
満足度:★★★★★
歴史
米子城は伯耆の拠点として、1591年に毛利家の重鎮吉川広家によって工事着工されましたが、関ケ原の合戦後に広家は岩国に改易になりました。この時点で7割方完成しており、4重天守が建っていました。
吉川広家に代わって、駿府から中村一忠が伯耆18万石で入封しました。この時まだ11歳であり、徳川家康の命で叔父の横田内膳村詮が執政家老として、米子城を完成させました。このとき5重天守も建てられました。
このように辣腕を振るった村詮ですが、1603年に安井清一郎や天野宗杷らの対立する家臣と一忠に謀殺され、横田一族が飯山に立て籠もるという事件が起きます(横田事件)。松江藩の助力を得て鎮圧しましたが、家康の命により安井ら側近は処罰され、1609年に20歳という若さで一忠が急死して中村家は断絶しました。
1610年に美濃黒野から加藤貞泰が米子6万石で入封しました。伯耆18万石は分断されちゃった訳ですね。
1617年に加藤貞泰は伊予国大洲に転封し、池田光政が因幡・伯耆32万国を領しました。光政は鳥取城に入ったため、米子城には重臣の池田由之が入り、その後は家老の荒尾家が城を預かりました。一国一城令の特例となります。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR米子駅から登城口まで15分。そこから山頂の本丸まで15分くらい(個人差あり)。米子空港利用の人は米子駅までは行き易いです。ただ、山道の上りはありますが・・・
城歩き
この日の天気はとても不安定で、晴れたと思ったら突然雨が降ったりと大変でした。
米子城縄張り
中海に面した湊山山頂に本丸と内膳丸があり、麓に二の丸と三の丸がありました。現在二の丸にはテニス場、三の丸には野球場があり、三の丸・飯山を囲んでいた内堀は完全に埋め立てられ、武家屋敷を囲んでいた外堀もわずかにしか残っていません。
枡形入口
湊山と飯山の間にある枡形から本丸に向かいます。当時もこの入口には門は構えられていませんでした。
二の丸表門跡
二の丸の入口であり、冠木門と二重櫓を配していました。枡形の広さといい、表門の石垣といい、非常に立派です。松江城の大手門入口を思い浮かべました。
小原家長屋門(移築)
外郭にあった武家屋敷の小原家長屋門が移築されていました。ちなみに門の先はテニスコートで行き止まりです(笑)
麓の道
このテニスコートのある場所が二の丸で、かつて御殿や武器庫がありました。色々事情はあるのでしょうが、なぜここにテニスコートを作ったのか・・・
登り口
ここが二の丸からの登り口です。逆光ですが、上方に本丸石垣が見えますね。ああ、あそこまで登るのか・・・
登山道
楽とまでは言わないけど、石段がきちんと整備されていて登りやすい。
案内板
運命の分かれ道。まずは出丸の内膳丸を目指しましょうか。
内膳丸入口
湊山には2つの頂があって、内膳丸は北の頂に築かれました。
内膳丸
内膳丸は本丸の北に位置し、出丸の役割を果たしました。郭内は結構広く、手前の下段と奥の上段に分かれています。多分誰も利用しないだろう(失礼!)休憩場がありました。内膳丸の名の由来は、この郭を築いたとされる家老の横田内膳正村詮の名から。源五郎丸みたいなものか?(いや違う)
登り石垣
内膳丸から分岐点に戻る途中に見かけた登り石垣。江戸時代の絵図にも描かれていましたが、2017年に存在が確認されました。登り石垣とは、山の斜面に縦方向に石垣を築くことにより、敵の横移動を阻害する石垣です。秀吉の朝鮮出兵時の倭城に導入され、国内では彦根城や松山城等の数例しかありません。そう言えば、米子城を築城した吉川広家も朝鮮に出兵していました。
石段と番所跡
本丸に向かって更に上っていくと、突如現れる石垣。往時には番所があり、本丸の出入りを見張っていました。
番所跡からの竪堀
番所跡からは竪堀を見下ろすことが出来ます。竪堀は斜面を登るように掘られた空堀で、敵兵の横移動を遮断するのを目的とします。先の登り石垣と対になり、麓の二の丸をハの字の防御線で守っていたと考えられています。2017年度の調査で見つかりました。
4段石垣
番所跡からの4段石垣。奥に見えるのが大天守台。山頂にこんな石垣があるなんて信じられません。これだけみたら、まるでどこかの古代遺跡みたい。
小天守台石垣
更に進むと圧巻の小天守台石垣。ここには吉川広家によって4階の天守が建てられていました。天守台の石垣がなんだか新しいのは、幕末に豪商鹿島家の負担で積み直しされたため。
鉄御門跡
本丸入口は枡形になっており、鉄板が貼られた門が建っていました。これまた山頂にあるとは思えない立派な石垣です。
大天守台
中村一忠(実務は家老の横田村詮)によって、この天守台には4重5階の大天守が建てられていました。大天守と小天守は連結しておらず、互いに独立していました。わざわざ別に天守を建てたのは、吉川家の後に入った中村家の見栄と意地なのか?
中海方面
米子城は南西が中海に面しており、麓には船着き場もありました。先の登り石垣は海側からの防御用に築かれており、海を重視した縄張りでした。
飯山
この飯山も采女丸(うねめまる)として縄張りに組み込んでいました。横田事件の際には横田一族が立て篭もったとされています。
小天守台
大天守と小天守は独立して建っていました。よく見るときちんとした正方形になっていないのは、もとが古い時代に積まれた石垣だから。
水手御門下郭の位置
2015年度の調査で水手御門の下に郭が発見されました(案内図の赤丸部分)。ちょっと覗いてみてみましょう。
水手御門跡
水手御門は海方面に抜ける搦手口にあたります。この石垣はかなり荒々しくて素敵。ただし、立入禁止のテープあり。
水手御門下郭
尾根に並行して築かれた上下二段の郭です。石垣はかなり崩れており、築城初期の段階で放棄されたと推測されています。2015年度の調査で見つかりました。
八幡台郭の位置
2015年度の調査で本丸の南に郭が発見されました(案内図の赤丸部分)。ちょっと寄り道しましょう。
鉄御門と小天守台
本丸から南に向かって下ります。
八幡台郭
築城時に築かれた郭であり、2015年度の調査では、野面積の石垣や幕末の小天守改修工事の際の切石やかけらが見つかりました。
裏御門跡
帰りは裏御門跡から出ました。駐車場があるので、車の方はこちらからの登城になります。二の丸の石垣も見えますが野球場があるので近寄れません。残念。
感想
見応えのある城でした。本丸の石垣が見事で、天守台からの眺めが本当に素晴らしい。米子市もやる気を見せていて、登り石垣や竪堀の遺構も発見されました。惜しむらくは、現地にもう少し案内板があった方が親切かと思います。
日本100名城でもおかしくない城です。