紀州徳川家55万石の居城だった和歌山城。暴れん坊将軍、8代徳川吉宗が居た城と言ったほうが分かりやすいかも。惜しくも天守は空襲で焼失しましたが、徳川御三家の名に恥じない立派な城でした。
2018年6月登城
満足度:★★★★★
歴史
豊臣秀長は紀伊三国100万石の太守となり、1585年に紀伊支配の拠点として和歌山城を築き、桑山重晴を城代として置きました。
1600年の関ケ原合戦後、戦功を上げた浅野幸長が甲斐から入封し、本丸・二の丸を築き、天守を建てました。
1619年に徳川家康の10男頼宣が入城し、二の丸を西に広げ、砂の丸・南の丸を新たに築きました。以降、紀州徳川家の居城となり、尾張・水戸とともに「御三家」と呼ばれました。
豊臣秀長→浅野幸長→徳川頼宣と大物(?)の居城となり、それぞれの時代に城が拡張されました。
交通アクセス
行きやすさ:★★★★★
JR和歌山駅から大手門入口まで徒歩20分。南海和歌山市駅からなら徒歩18分ほど。バスも多数走っています。行きやすい。
城歩き
和歌山城は、山上に天守郭と本丸が並立し、山麓には二の丸・西の丸・砂の丸・南の丸が配置されています。典型的な平山城ですね。
一の橋と大手門(復元)
大手門にしては簡素な気がするのは、元は現在の岡口門が大手門だったから。浅野時代に大手が北に変更されました。
大手入口からの石垣
大手門から二の丸に入りましたが、中心部側には石垣が築かれています 。この石垣は切込接ぎで積まれており、石も大きめでかなり立派です。
二の丸(中奥・大奥跡)
和歌山城では二の丸が藩の中心であり、 政治を行う庁舎のある表、藩主の公邸がある中奥、藩主の正室や側室たちが住む大奥とに分かれていました。
表ににあった建物は明治に大坂城に移築されていましたが、戦後失火により焼失しました。残念です・・・
廊下橋(再建)
西の丸には能舞台や庭園があり、二の丸から藩主専用の廊下橋が架けられていました。お忍びで行き来出来るわけですな。二の丸と西の丸には高低差があるため、滑り止め用の段差が設けられています。これは珍しい。
台所門跡
天守への主な坂は表坂と 裏坂があります。二の丸からは台所門跡を通って裏坂から登ります。門跡過ぎた右側の石垣には・・・
石段の小人?
なんと小人が石段を登っています。正体は木の根っこなんですが、隠れスポットだとか???
裏坂
右に左に曲がりながら上っていきます。裏坂の石垣は初期の桑山氏時代に積まれたのでしょうか、「紀州の青石」と呼ばれる緑泥片岩が使用されています。苔の緑と相まって、しっとりと落ち着いた雰囲気です。好きだな。
本丸跡
和歌山城の山上はラクダの背のように2つに分かれており、こちらは本丸側。 かつて本丸御殿がありましたが、不便なためほとんど使われませんでした。現在は水道配水池があり、不遇な曲輪です。
天守と裏坂
本丸跡から撮る天守がベストショット。
天守(復元)
三重三階の大天守と小天守・櫓との連立式天守です。戦前には国宝に指定されていましたが、空襲で焼失しました。現在の天守は鉄筋コンクリートですが、消失前の史料を基にかなり忠実に復元されています。
追廻門
西の追廻門は搦手から砂の丸に入る門で、その色から赤門と呼ばれています。
不明門跡
南の不明門跡は現在駐車場入口になっていますが、当時は死体や罪人を運び出す不浄門として使用されていました。切込接ぎの高石垣が見事。
岡口門
戦災を免れた南東の岡口門。築城時はこちらが大手門でした。
感想
紀州徳川家の城だけあって、天守も石垣もとても立派でした。特に裏坂の苔むした石垣が印象に残りました。ぜひ小人にも会いに来てください。