石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

日本三大山城まとめ

日本三大山城まとめ

一般に日本三大山城として、高取城(奈良)、岩村城(岐阜)、備中松山城(岡山)が挙げられています。ようやくこれらの山城を制覇したので、その印象をまとめさせていただきます。

 

 

三大山城の定義

城の規模で比べたら、戦国大名の居城だった上杉家の春日山城,毛利家の吉田郡山城が上回っています。ただ、いずれも江戸初期に廃城となっていますので、江戸時代にも存在した城が対象なのでしょうね。

ちなみに昭和58~59年に発行された書籍「城郭と城下町(小学館)」には、岩村城のみ「日本三大山城」という語句が見受けられました。「三大山城」という定義自体、比較的新しいのかもしれません。

 

三大山城の特徴

岩村城高取城備中松山城には、次のような特徴があります。

  • 高取城比高は390メートルで日本一(半端じゃない!)
  • 岩村城高さは海抜717メートルで日本一(海抜だと諏訪の高島城、伊那の高遠城の方が高いが・・・)
  • 備中松山城建物が現存する城の中で高さ日本一(少し苦しいか?)

 

城の規模について 

城の広さで比較したら、高取城が一番広く、 次いで岩村城備中松山城となります。ただ、備中松山城は隣接する大松山城も含めたら城域は一番広いかもしれません。

 

大手門跡(高取城

高取城 大手門跡

城の規模としては、高取城がずば抜けています。その広さは、小藩であった高取藩が管理できる範囲を超えており、現在でも管理が大変そうです。私の訪問時にも、所々で石垣が崩落しており、荒廃した曲輪が見受けられました。奈良県頑張れ!

 

畳橋跡(岩村城

岩村城岩村城は江戸時代では一番高い所にあった城であり、城下から本丸まで延々と上りが続く山城です。道沿いに曲輪が設けられており、千人は収容できるかな?

 

大手前の石垣(備中松山城

備中松山城

高取城岩村城に比べると、備中松山城の曲輪自体の広さはさほどでもありません。ただ、本来の松山城は臥牛山全体を縄張りとしており、隣接する大松山城を足すと一番かもしれません。

 

各城の見どころ

天守備中松山城

備中松山城

備中松山城には日本で12しか残っていない現存天守が建っています。保存していたのではなく、取り壊すのが大変なので放置していたのが真相のようですが、結果オーライ。

 

天守台石垣(高取城

高取城

山城とは思えない石垣が特徴ですが、特に本丸の高石垣が圧倒的です。よくここにわざわざ石垣を築いたなと、当時の苦労が忍ばれます。

 

弥勒堀切(高取城

高取城 弥勒堀切

路である尾根筋をV字状に切断するのが堀切です。山城ではよく見られる防御方法ですが、高取城の堀切は石垣で補強してあります。珍しいというか、金がかかってますね。
 

本丸北東面の6段石垣(岩村城

岩村城

段々畑のように築かれた石垣です。当初は最上部のみ石垣が積まれていましたが、前に前にと補強されたとのことです。日本は地震や大雨が多いからね・・・

 

各城のミステリー

城には伝説が付きものですが、各城には興味深い遺構が残っています。

 

猿石(高取城

猿石(高取城)

二の門の外にある猿石。実は高取町は、石舞台古墳で有名な明日香村の南にあるんです。そこから運んで来たと考えられていますが、理由や由来は不明です。個人的には魔除けとして置かれたのだと思います。

 

霧ケ井(岩村城

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戦時に蛇骨を投げ込むと霧が直ちに立ち込めると云う霧ケ井。そもそも山城は霧が発生しやすいので、このような言い伝えがよく残っています。蛇骨というのが、雰囲気がありますね。

大池(大松山城

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備中松山城(小松山城)に離接する大松山城にある大池。わざわざ山中に石垣造りの貯水池を設けておりました。江戸時代も大切に管理されていましたが、その目的は不明です。

 

どの城も立派な石垣があり、登り応え十分。日本三大山城の名に恥じない堅城ですぞ。

犬山城(愛知県犬山市) 木曽川沿いの国宝の現存天守

現存天守が残る犬山城木曽川沿いに立つその姿から、白帝城とも呼ばれました。国宝に指定されていますが、平成まで個人が所有するという珍しい城でもありました。

日本100名城

2020年10月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

織田信長の叔父である織田信康が木下城から現在地に移したのが犬山城の始まりと伝えられています。尾張統一の過程で信長は犬山城を落とし、1570年に家臣・池田恒興が入城し、11年間城主を務めました。

本能寺の変後、信長の次男の信雄は尾張を相続し、家臣の中川定成が犬山城に入ります。その後の小牧・長久手の戦いでは旧城主・池田恒興によって攻め落とされたり、関ケ原の合戦では西軍の拠点となったりと、なにかと争いに巻き込まれます。

現在見られる姿に整備されたのは、関ヶ原合戦後に入城した清州藩の付家老・小笠原吉次以降となります。1617年には徳川家康の命により、尾張徳川家の付家老だった成瀬正成が城主となり、以後成瀬家が代々城主となります。

1868年に明治政府により諸侯に列せられ犬山藩が成立するも、1871年廃藩置県犬山城は愛知県の所有となり、天守以外のほとんどの建物が取り壊されました。1891年の濃尾大地震により天守が半壊すると、修理を条件に成瀬家に譲与されます。以後、2004年(平成16年)まで成瀬家が所有していました。(現在は公益財団法人・犬山城白帝文庫が管理)

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

名鉄名古屋駅から快速特急・特急で犬山駅まで30分。犬山駅から登城口まで徒歩15分。犬山遊園駅からの方が少し近いのですが、城下の雰囲気が感じられる犬山駅からがお薦めです。

 

城歩き

本町通り

遠くの犬山城天守を眺めながら向かいます。通りは整備されていて、城下町っぽい雰囲気が再現されています。

 

大手門跡

犬山城 大手門跡

注意しなければ気づかない大手門跡。当時は大手門と二の門で枡形を形成していました。

 

針綱神社

針綱神社

本町通りの突き当たりにある針綱神社。犬山城の松之丸跡に建てられており、奥の拝殿は桐の丸跡にあります。この神社経由で天守に向かうことも可能ですが、左折して大手道を目指しましょう。

 

三光稲荷神社

三光稲荷神社

針綱神社の隣りにある三光稲荷神社。松之丸跡に建てられており、この神社から経由で天守に向かうことも可能です。

 

犬山城入口

国宝の文字が眩しい犬山城入口の碑。犬山駅から徒歩15分ほどで到着。

 

縄張図

犬山城 縄張図

本丸が一番奥にあり、大手道が城の中心を通り、各曲輪がその両脇にある縄張り。大手道には5つもの門が設けられていました。

 

中門跡

犬山城 中門跡

大手門入口にあった中門跡。最初の関門でありました。

 

来門

犬山城 矢来門跡

大手道第二の門、矢来門跡。

 

黒門跡

犬山城 黒門跡

大手道第三の門、黒門跡。

 

大手道

大手道の左手には樅の丸、右手には桐の丸と杉の丸が築かれています。安土城の大手道の縄張りを思い起こしました。

 

鉄門(復興)

犬山城 鉄門

本丸への最後の関門である鉄門。当時と同じ姿ではありませんが、櫓門が復元されています。

 

天守

犬山城 天守

犬山城 天守

天守は3重4階地下2階の構造で付櫓が付いています。日本最古の現存天守と言われ、美濃金山城からの移築説が唱えられましたが、解体修理の結果、関ヶ原合戦後に新造されたと考えられています。

 

天守地階

犬山城 天守地階

穴蔵になっており、天守を支える石垣は野面積みです。梁には釿(ちょうな)のハツリ跡が残っています。

 

天守1階

犬山城 天守1階

 

上段の間(殿様用)

犬山城 天守上段の間

 

北西付櫓(石落としの間)

犬山城 天守石落としの間

 

南東付櫓

犬山城 付櫓内部

中央部に第一の間,第二の間,上段の間,納戸の間の4室があり、周囲を武者走りが巡っています。北西と南東隅は付櫓内部につながっています。南東の付櫓は明治の濃尾地震で全壊しており、実は今見る付櫓は昭和の大修理の際に復元されました。


天守2階

犬山城 天守2階

中心に武具の間があり、周囲を武者走りが巡っています。1階とほぼ同じ広さがありますが、シンプルですね。

 

天守3階

犬山城 天守3階

元は2階の屋根裏でしたが、望楼の増築に伴って3階となりました。出窓は唐破風の裏側ですね。

 

天守4階

犬山城 天守4階

最上階の4階には赤絨毯が敷かれています。昭和の大修理の際に絨毯生地の一部が発見され、もともと絨毯敷きであったことが判明しました。

 

桃の瓦

犬山城 桃の瓦

珍しい桃の形の瓦を発見。桃には魔除けの効力があるとの伝承から、天守の瓦に使用されています。

 

天守からの眺め

天守からの眺めが本当に素晴らしい。殿様も絶対同じ風景を眺めていたよね。

 

感想

青空に映える天守が素晴らしかったです。天守以外の遺構が乏しいのは少々残念ですが、天守自体にも見所が沢山ありました。それにしても、観光客が多くて驚きました。昔来た時はこんなに多くなかったよなと、しみじみ思い返しました。

岩村城(岐阜県恵那市) 女城主の悲劇の城

日本三大山城の一つである岩村城。また、女城主の城としても知られています。標高713メートルの城山に本丸を始めとした曲輪郡が築かれており、特に本丸北東の6段石垣は見応えがあります。

日本100名城

2020年10月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

岩村城を築いたのは、鎌倉幕府の功臣・加藤景廉の子の景朝であり、遠山氏を称しました。以来、岩村遠山氏は東美濃を支配していましたが、戦国末期には武田氏が侵攻し、しばしば織田信長との争いの舞台になります。

1572年に遠山景任が病死し、妻のおつやの方が岩村城主となります。おつやの方は信長の叔母でもありましたが、圧力の強まりから武田側に帰属します。1573年に武田の重臣・秋山虎繁が岩村に入城すると、おつやの方を妻としました。

しかし、1575年に長篠の戦いで武田軍が大敗すると情勢が急変します。信長は岩村城への攻勢を強め、虎繁は籠城するも援軍なく降伏します。信長は虎繁とおつやの方を決して許さず、磔で処刑しました。

その後城主が目まぐるしく替わりますが、1702年に入城した大給松平家明治維新を迎えました。現在の縄張りは、小牧・長久手の戦い後の森忠政の入封後、重臣・各務元正が整備しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR名古屋駅から恵那駅まで快速で1時間。明知鉄道恵那駅から岩村駅まで30分。岩村駅から登城口まで歩いて25分少々。明知鉄道は電車の本数が多いとは言えないので、注意する必要があります。

 

城歩き

太鼓櫓

岩村城 太鼓櫓

岩村駅からぶらぶら町中を歩いて23分少々。登城口手前には太鼓櫓をはじめとした表御門などの建物が復原されています。ご多分に漏れず、江戸時代には山の麓に藩主邸が建てられていました。

 

登城口

太鼓櫓を通り過ぎてすぐ、そこが岩村城の登城口。ここは未だ入口で、この先には下田歌子勉学所や菖蒲園といった見所もあります。

 

藤坂

岩村城 藤坂

藤坂と呼ばれる、藩主邸から一の門まで続く長い急坂です。この坂を見て、山城に来たと強く実感しました。やれやれ、本丸まで600メートル。

 

初門

岩村城 初門

坂道の鉤の手のように曲がった箇所が初門です。当時も門は無かったようですが、いざという時はここに門を構える要所でした。

 

続く坂道

岩村城 坂道

岩村城 坂道

ひたすらに坂道を上っていきます。石段はきちんと整備されているのですが、なかなかキツイね。私以外にも上り下りする観光客がおり、高取城備中松山城に比べると未だ楽かも。

 

一の門跡

岩村城 一の門跡

山城らしからぬ立派な石垣。かつてここには一の門と呼ばれる2階建ての櫓門がありました。実質ここからが城内になります。

 

土岐門跡

岩村城 土岐門跡

岩村城の第二の門、土岐門がここにありました。石垣が切込接できれいに積まれており、内部が馬出状の曲輪になっています。

 

追手門跡と復元CG

岩村城 追手門跡

追手門と三重櫓跡。当時は畳橋を渡って左の棟門をくぐり、更に右に曲がって櫓門に入る枡形造りとなっており、天守相当の三重櫓がそびえ立っていました。現在は橋がありませんので、空堀の底を通るコースになっています。

イメージしにくいかと思いますので、復元CGムービーのキャプチャ画像も貼っておきます。城内の看板のQRコードを読み取ると、スマホで復元CGが見れて親切です。

 

登城道

追手門跡を過ぎ、両脇の曲輪を横目に更に坂を上っていきます。苔むした打込接の石垣に風情がありますね。

 

霧ヶ井

岩村城 霧ヶ井

坂の途中にある霧ヶ井。敵が攻めてきたとき、蛇骨を投じると霧が生じたという伝説の残っています。真相はともかく、城内のあちこちに井戸があり、水には困らなかったようです。堅城の条件ですね。

 

八幡曲輪

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霧ヶ井から道を挟んで斜向かいには八幡曲輪が広がっており、更に石段を上ると八幡さまが祀られていました。

 

二の丸菱櫓跡

岩村城 二の丸石垣

二の丸東側の石垣は山の形に沿って積まれたため、角度が鈍角になっています。この石垣上には変形の菱櫓が建てられていました。石垣と櫓を地形に合わせたわけですね。

 

六段壁

岩村城 六段壁

岩村城 六段壁

圧巻の本丸北東面の六段壁。急な地形に石垣を築くため、一段毎に犬走りが設けられています。この石垣は本当に見応えがあります。

北門跡から本丸石垣

六段壁脇の北門跡から石段を上って本丸に向かいます。石垣6段分の高さがあるので、そりゃ高低差があるわな。

 

長局埋門跡

岩村城 長局埋門跡

石垣の間に門を設けた長局埋門跡。当時は石垣の上に櫓の乗った櫓門でした。

 

東口門跡

長局埋門跡を入って左手の本丸入口は東門で、本丸への正門でした。ちなみに右に行っても本丸に入ることが出来ます。

 

本丸

岩村城 本丸

ついに本丸まで辿り着きました。石垣上には2重櫓2棟と多門櫓2棟が建てられていましたが、内部に御殿等の建物はありませんでした。つまり、平常時には人が住んでいなかったわけですね。

 

本丸からの眺め

山並みが続いています。武田討伐後に織田信長が滞在したそうですが、同じ風景を眺めていたのでしょうか。叔母のおつやの方を処刑した信長はその7年後、本能寺の変明智光秀に討たれました。

出丸跡

岩村城 出丸跡

本丸の南西にある出丸跡。切り立った崖をよじ登るのは困難でしょう。現在は駐車場があり、ここまで車で上って来ることが出来ます。今までの苦労は・・・ぎゃふん。

 

感想

日本三大山城だけあって、一の門から続く石垣が立派でした。 特に六段壁の石垣は必見です(以前登城した時に見た記憶が残っていない・・・)。登城道はよく整備されていますが、追手門の畳橋が復元されていたら、より楽しめるだろうに。 少し残念。

苗木城(岐阜県中津川市) 岩盤上の赤壁の城

巨大な岩が印象的な苗木城。岩盤を利用した石垣は圧巻で、天守跡に設けられた展望台からの木曽川の眺めは絶景の一言です。

日本100名城

2020年10月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

苗木城は、鎌倉時代から東美濃に勢力を伸ばした岩村遠山氏の支城として、天文年間(1532~1555年)に遠山直廉によって築かれたと伝えられています。信濃から侵攻してくる小笠原氏に備えたものと考えられています。

やがて武田信玄信濃を制すると、東美濃尾張織田信長との係争地となります。1574年に武田勝頼の侵攻によって苗木城は落城しましたが、その翌年には織田信長によって奪取されるなど、遠山氏は両雄の間にあって苦労します。

1582年に本能寺の変で信長が倒されると、苗木城は羽柴秀吉配下の森長可に攻められ、翌年に城主の遠山友忠・友政父子は徳川家康を頼りに落ち延びました。

1600年の関が原の合戦の際にあたり、家康の命で友政は苗木城を奪取し、苦節18年で旧領復帰を果たしました。以後明治維新まで遠山家が苗木藩主を務めますが、1万5百石の小藩ということもあり、常に財政は窮乏していました。苗木城は別名「赤壁城」とも呼ばれていましたが、漆喰を塗る余裕がなかったのも理由の一つとされています。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR名古屋駅から中津川駅まで特急で48分、快速で75分。中津川駅からは北恵那バスの付知峡線/加子母市民病院行きに乗車、苗木バス停下車。徒歩20分。電車・バスともに1時間に一本ほど運行されています。

 

城への道のり

バス停からの道

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苗木城は、「苗木」が最寄りのバス停になります。しばらくは普通の道が続きますが、
途中には折れもあり、城下町だった町割りを少し感じました。

 

遠山家

苗木 遠山家

苗木藩主だった遠山家のご子孫が現在住まれている屋敷です。廃藩置県で東京への移住が命じられましたが、1889年(明治22年)に苗木に戻られました。

 

土蔵

苗木 土蔵

道沿いには土蔵も2棟ありました。いいね。

 

永寿寺

苗木 永寿寺

左手の石垣上にあるのは、苗木で唯一の寺である永寿寺。苗木藩では廃仏毀釈が徹底的に行われたため、一時藩内全ての寺が無くなりました。小藩であるゆえ、時の明治政府に忖度したようです。

 

上町御門跡

苗木城 上町御門跡

当時ここには城内と城下を分ける上町御門がありました。立て札がなかったら絶対に気づかないスポットです。

 

(一部)石畳の坂道

苗木遠山資料館手前で左折して、最後の力を振り絞って坂を上ります。この上に城跡に一番近い駐車場(無料)がありますが、見ての通りの狭道なので、係の人が無線でやり取りしてました。そこまでの人気か・・・

 

竹門跡

苗木城 竹の門

苗木城 竹の門

バス停から歩いて20分。ここから先が実質的に城内になります。車で来た方もここから先は一緒に徒歩ですね。
 

城歩き

苗木城遠景と現地看板イメージCG(浅野孝司氏制作)

苗木城 遠景

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竹門すぐ西側の平地には足軽長屋がありました。その長屋跡から眺める苗木城本丸は渦巻みたい。近くの看板に描かれたイメージ図と比較するのも面白いですね。まるでジブリの映画で出てくる城みたい。

 

縄張図

本丸を二の丸が螺旋状にぐるりと取り囲み、北側には三の丸があります。南は木曽川の絶壁、東と西も険しい崖なので、北に三の丸を配置して強化するのは理にかなっています。

風吹門跡

苗木城 風吹門跡

風吹門は大手門とも呼ばれ、三の丸への入口になります。風吹門とは格好いい名ですが、名の由来は不明とのこと。左手に見えるのは大矢倉の石垣です。

大矢倉跡

苗木城 大矢倉跡

苗木城 大矢倉跡

異常に立派すぎる。岩の多い苗木城にあっても、この大矢倉の石垣は別格です。かつては石垣の北隅に3階建ての櫓が建っており、北の守りの要でした。
 

駆門跡

苗木城 駆門跡

苗木城 駆門跡

三の丸はさほど広くなく、風吹門の反対側には駆門がありました。かなり立派な石垣が残っていますが、これって積み直しされてますね。

 

木曽川筋大手門への道

駆門からは木曽川筋大手門へと下りる道が続いており、四十八曲がりと呼ばれています。ヘタレなのですぐに引き返しました(笑)

 

牢屋跡

苗木城 牢屋跡

三の丸の南東隅にある牢屋跡。日の当たらない大岩の上に設けられていました。明治初期にも使用されたというのが地味に怖い。

 

大門跡

苗木城 大門跡

二の丸と三の丸は大門で仕切られており、苗木城で一番大きな門でもありました。ここから先は関係者以外進入禁止。

 

御朱印蔵跡

苗木城 御朱印蔵跡

大門を通って左手には御朱印蔵跡があります。将軍家から代々与えられた領知目録や朱印状が保管されていました。それにしても、石垣と岩の組み合わせがすごいね。

 

綿蔵門跡

苗木城 綿蔵門跡

年貢の綿が門の2階に保管されていたので綿蔵門。ここから本丸まで右に左に上っていきます。

 

二の丸屋敷跡

上りの途中で見下ろした二の丸屋敷跡。昔はここに書院や役人詰所等があり、今は礎石のみが残っています。

 

坂下門跡

苗木城 坂下門跡

坂の下にあるから坂下門。分かりやすいネーミング。

 

菱櫓門跡

苗木城 菱櫓門跡

坂道を折り返す度に門跡が現れます。かつては2階建ての櫓門が建っていました。

 

千石井戸

苗木城 千石井戸

菱櫓門跡を通り過ぎ、本丸口門前にある千石井戸。こんな岩山に水が湧き出ているのが不思議です。城内のあちこちに井戸があり、この城は水には困らなかったでしょうね。

 

的場跡

苗木城 的場跡

苗木城の本丸を二の丸がぐるりと囲んでおり、この的場も二の丸の一部になります。二の丸屋敷近くにも的場があり、ここにも的場を置く意味は・・・、よく分からん(笑)

 

本丸口門跡

苗木城 本丸口門

ようやくここから先が本丸になります。バリアフリーとまでは言いませんが、上りやすい整備された登城道です。

 

具足蔵・武器蔵跡

本丸口門から見て右の崖上には、具足蔵と武器蔵がありました。ここに保管しておけば、盗まれることはないでしょう。

 

笠置矢倉跡

岩山で平地が少ないこともあって、笠置矢倉は巨岩の上に懸造(かけづくり)で建てられていました。見晴らしが抜群だね。

 

玄関口門跡

苗木城 玄関口門跡

玄関口門というだけあって、当時は土廊下の建物の入口にあたり、天守への正式ルートでもありました。

 

本丸玄関跡

苗木城 本丸玄関跡

今は階段が設けられていますが、当時は懸造の千畳敷を通って、回り込むようにして天守台に入りました。玄関に玉石が敷かれていたことが分かっており、現在復元されています。

 

天守

苗木城 天守台

苗木城 天守台

ここ苗木城の天守台は全国でも珍しい巨大な2つの岩のみです。かつて天守は地階から2階まであり、2階部分のみ岩の上にありました。ただ、岩の上は狭いので、京都・清水寺の舞台のような懸造で床面積を広げて建てられていました。
現在は天守台を活かした展望台が建てられているので、イメージしやすいかと思います。実は過去に苗木城を訪問したことがあるのですが、この岩に直に乗ったのを憶えています。

 

木曽川の眺め

本丸から見下ろす木曽川は絶景です。駅からバスで通った玉蔵橋の手前の橋梁は、廃線になった旧北恵那鉄道の木曽川橋梁。中津川にはリニア地上駅も出来る予定なので、次に来た時はこの眺めも変わるかも。

 

二の丸への下り道

本丸の南隅に二の丸へと通じる道がこっそりあります。気づかずに行きと同じルートで戻る観光客もいてもったいない。

 

下から見上げた天守

苗木城 天守台

小藩だった苗木藩は借金返済にあてるため、1871年(明治3年)に苗木城の建物を入札で売却します。こんな場所に建てられた天守は取り壊すのにも非常に苦労したようです。

 

馬洗岩

苗木城 馬洗岩

苗木城 馬洗岩

天守台の南下にある馬洗岩。巨石が多い苗木城の中でも唖然とする大きさです。こんな絶壁にある岩の上に、馬なんて乗せられないよと強くツッコミ。

 

本丸石垣

苗木城 本丸石垣

苔むした石垣が本当にいいね。

 

感想

城の規模自体は大きくないのですが、 岩盤を活かした石垣は圧巻でした。特に大矢倉跡の強大さと本丸からの眺めは見事の一言です。以前訪問した時はほとんど人を見かけなかったのですが、家族連れも沢山見かけました。 この城の魅力が広まっていて嬉しいです。

大和郡山城(奈良県大和郡山市) 逆さ地蔵の埋まる天守台

大和の要として築かれた大和郡山城。石垣には多くの石仏や五輪塔が転用されており、中でも逆さ地蔵が有名です。今年3月に極楽橋が再建され、城内を廻るのも便利になりました。

日本100名城

2021年3月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

1580年の織田信長の大和一国破城により、郡山城以外の城は破却され、大和守護筒井順慶郡山城に移りました。これが近世城郭としての始まりです。

1585年、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が大和・和泉・紀伊の太守として入城し、100万石にふさわしい城として大改修が行われました。しかし、1591年に秀長が亡くなり、養子の秀保も1595年に亡くなりました。その後、五奉行の一人増田長盛が22万3千石で入城し、外堀の普請を行い、ほぼ現在の形になりました。

長盛は関ケ原の合戦後に高野山に追放され、郡山城徳川家康により筒井定慶に与えられました。元の鞘に戻ったわけですが、1615年の大阪夏の陣で豊臣方に攻められ、定慶は城から撤収しました。郡山城は火をかけられ、戦後に定慶も自刃しました。

夏の陣の後、譜代大名水野勝成が入城し、荒れ果てた郡山城を改修しました。勝成の福山転封後は松平忠明が摂津大坂から入城し、伏見城から鉄門等を移す等、復興に務めました。

1639年の忠明の姫路転封後、姫路から本多政勝が入城し、郡山城下は大いに栄えます。しかし、政勝死後にお家騒動が勃発し、結果的に明石から松平信之が入封します。後日信弘は老中に任じられ、古河に加増転封となり、宇都宮から本多忠平が入城します。本多家は5代続きますが、無嗣断絶となりました。1724年に柳沢吉里が甲府から15万石で入城し、明治維新まで続きました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

近鉄郡山駅から徒歩7分。JR郡山駅からだと徒歩15分。奈良観光のついでにいかがでしょう?

 

城歩き

大和郡山城の縄張りは、本丸の周囲に、二の丸、毘沙門郭、新宅郭、麒麟郭を配した輪郭式であり、総堀で城下町も囲い込んだ広大な城郭でした。現在は本丸を中心に石垣や堀がよく残っています。

 

鉄門跡

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踏切を渡って迎えてくれるのは鉄門跡。鉄門は伏見城から移築された由緒正しい門でしたが、明治の払い下げで行方不明になっています。正面右側のみ石垣が残っており、高校生が自転車で通学していました。


本丸石垣

大和郡山城 本丸石垣

鉄門跡を過ぎて少し歩くと、本丸南東隅に出ます。西だと二の丸、北だと陣甫曲輪へと進むことになります。

二の丸方面

西に進むと最短で本丸に辿り着けますが、もちろん遠回りしてみます。時間のない方はこちらをどうぞ。

陣甫曲輪方面

大和郡山城 陣甫曲輪

細長い陣甫曲輪を通って、追手門に向かいます。道路の東側には民家が建ち並んでいますね。

 

追手東隅櫓

大和郡山城 追手東隅櫓

1987年(昭和62年)、常盤曲輪の南東隅に追手東隅櫓が復元されています。なぜここの櫓をと疑問に思いましたが、近鉄電車から見える場所に復元したかったのかもしれません。

 

追手門と追手向櫓

大和郡山城 追手門・追手向櫓

大和郡山城 追手門

追手門は梅林門とも呼ばれ、常盤曲輪から本丸に向かうのが正式ルートだったのが分かります。追手門は1983年(昭和58年)、追手向櫓は1987年(昭和62年)に復元されました。ただ、建物内に入れないのが少し残念。

 

本丸方面

大和郡山城 本丸

大和郡山城

追手門跡を通ると毘沙門郭に出ると、堀の向こうに本丸や天守台を臨むことができます。ただ、そこに辿り着くには、毘沙門郭を南へと進む必要があります。目の前なのにもどかしい、でもそれがいい。

 

極楽橋

大和郡山城 極楽橋

大和郡山城 極楽橋

2021年3月に再建された極楽橋。明治初期に撤去されたため、長く本丸への正式ルートが無い状態でしたが、ようやく復元されました。柳沢家の家臣の子孫の方が3億円が寄贈したとのことで、床板と手すりにヒノキ材が使われており、新しい木のいい香りが漂っていました。

 

旧本丸への入口

極楽橋の再建前は、毘沙門郭の端から本丸に入りました。これは後世造られた道であり、しかも全然目立たないので、本丸に行くのに立ち往生する人が多数発生しました(私だけ?)

 

柳澤神社

本丸に建つ柳澤神社。祭神は五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保です(時代劇でよく黒幕として描かれていますね・・・)。

 

天守

大和郡山城 天守台

天守台は明治以降にしばしば改変されており、現在の天守台は2017年(平成29年)に展望エリアとして整備されました。実は整備前天守台の階段も、明治以降に付け足されたものでした。ではどうやって天守台に上ったのでしょうか?

 

付櫓入口跡

2013年(平成26年)の発掘調査にて、付櫓地階の石垣と礎石が発見されました。天守台には、付櫓台南面から付櫓に入り、付櫓の階段を上って入ることが証明された訳です。現在も入口の痕跡を見ることができます。

 

天守台からの眺め

展望台からは城内を見渡すことが出来ます。以前西側には高校があったのに、いつの間にか空き地になっていますね。


逆さ地蔵

大和郡山城 逆さ地蔵

大和郡山城 逆さ地蔵

郡山城の石垣には様々な転用石が使われていますが、一番有名なのがこの逆さ地蔵。仏身の大きさは約90センチで、大永3年(1523年)7月18日の刻印があるとのことです。

竹橋門跡

大和郡山城 竹林門跡

竹林橋は搦手に架かる木橋でしたが、現在は土橋になっています。

二の丸

かつての二の丸、松蔭郭跡には郡山高校が建っています。高校沿いの道には、中仕切門跡、松蔭門跡がありました。


南御門跡

松陰郭への南入口にあたる南御門跡。門の西に広がる鷺池堀は、最幅70メートルを超える大濠です。


永慶寺山門

永慶寺山門

城主柳澤家の菩提寺である永慶寺。その山門は南御門を移したもので、郡山城唯一の現存建築物です。

 

感想

大和の要として築かれただけあって、残された石垣や堀に大城郭の面影が見えました。本丸が整備され、極楽橋も再建されたのもポイント高し。奈良に来た際には、気軽に立ち寄ってくださいね。