石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

大阪城(大阪府大阪市) 京橋口からの登城ルート

壮大な石垣に圧倒される大阪城。前回は大手門から登城しましたが、今回は京橋口から今里丸経由で天守に向かいました。太平洋戦争の傷跡がチラチラ垣間見えましたよ。

日本100名城

2020年8月登城

満足度:★★★★★

 

大阪城の歴史と交通アクセスは、過去の記事をご参照願います。大手門から天守を目指すコースを紹介しています。 

 

城歩き

登城ルート

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今回は京橋口から極楽橋を渡り、山里丸経由で天守に向かいます。これまた見どころいっぱいのコースになります。

 

天満橋駅から大阪城

天満橋駅から大阪城へ

大阪メトロ天満橋駅の3番出口から大阪城に向かいます。奥に天守が見えていますが、辿り着くのは大変ですぞ。

 

乾櫓

大阪城 乾櫓

大阪城 乾櫓

豪快な石垣と幅広い水掘にテンションが上ります。月並みな感想ですが、クレーン等の重機の無い時代によくこれだけの石垣を築いたもんだと感心します。乾櫓は千貫櫓と並び城内最古の建物となります。

 

京橋口

大阪城 京橋口

近くの寝屋川に京街道につながる橋「京橋」が架けられていたので京橋口。ここから城内に入ります。今の繁華街の京橋(京橋はええとこだっせ♪)からは少し離れています。

 

京橋口枡形と蛸石

大阪城 京橋口枡形

大阪城 肥後石

使われている石が巨大すぎて、コンクリートで作られているようにすら見えます。枡形正面の肥後石はなんと33畳の巨大さ(城内2位)。名の由来は、肥後の加藤清正が持ってきたから(実際は岡山藩主・池田忠雄によって運ばれたので岡山石?)

 

こま犬

大阪城 こま犬

このこま犬は中国・明時代の文化遺産です。1982年(昭和57年)の調査で略奪品であることが判明し、大阪市が中国に返還を打診した結果、中国から寄贈されました。

 

内堀越しの天守

大阪城 天守

内堀沿いに歩きます。ここからの天守はとても格好いい。一段低い曲輪が山里丸。

 

極楽橋

大阪城 極楽橋

山里丸へ架かる極楽橋。金沢御坊(本願寺)のあった金沢城にも同名の橋があることから、石山本願寺のあった大阪城にも極楽浄土へ向かう橋として名付けられたのかもしれません。また、琵琶湖・竹生島宝厳寺の唐門は、豊臣時代の極楽橋から移築されました。

極楽橋枡形
大阪城 極楽橋枡形
大阪城バリアフリー化が進んでいるのを感じます。そもそも城はバリアフリーとは対極の建造物ですが、これはこれで人に優しいなと思います。

 

刻印石広場

大阪城 刻印石広場

山里丸で目に入るのは、オブジェのような巨石群。現在の大阪城は徳川家の天下普請により築かれましたが、諸国大名の家紋等が刻印された石が展示してあります。まるでパズルのようでマニア大喜び。

 

豊臣秀頼淀君 自刃の地石碑

大阪城 豊臣秀頼・淀君 自刃の地石碑

豊臣時代の山里丸は松や桜の木々が茂り、茶室の建つ雅な場所でしたが、落城の際に豊臣秀頼淀君が自刃した場所と伝えられています。1997年(平成9年)に大阪市によって石碑が建てられました。

 

山里口

大阪城 山里口

本丸には山里口を通って向かいます。バリアフリーの坂道ですが、傾斜がえぐいな。

 

機銃掃射痕

機銃掃射痕

石垣の根本には、太平洋戦争末期の空襲による機銃掃射痕が残ります。また、山里丸の北側等は爆撃により、江戸時代の遺構は大きく破壊されていました。

 

山里口出枡形

大阪城 山里口出枡形

大阪城 山里口出枡形

本丸から山里丸に突き出している枡形です。ほんと広いね。

山里口出枡形からの天守

大阪城 山里口出枡形からの天守

天守のある本丸まであと少し。当時は姫門が建っていましたが、幕末に焼失しました。石垣が妙に新しいけど、空襲後の再建かな。

 

隠し曲輪

大阪城 隠し曲輪

大阪城 隠し曲輪

山里口出枡形の切れ目から、隠し曲輪と呼ばれる帯曲輪に出ることが出来ます。「この曲輪が役に立つんかな?」とは思いますが、一時期煙硝蔵(火薬庫)が置かれていたそうな。

 

隠し曲輪からの天守

大阪城 隠し曲輪からの天守

大阪城 刻印石

大阪城 刻印石

丸に十字は伊予大洲の加藤家、丸に二八は丹波園部・出石の小出家の刻印です。両家の刻印石が積み重なっている箇所もあり、互いに協力したんやろか?

 

天守

大阪城 天守

再び山里口出枡形に戻って、本丸に上ります。下から眺める天守の存在感は圧倒的。

 

天守台の歪み

大阪城 天守台

よく見ると、天守台の北壁から西壁にかけて石垣が歪んでいます。空襲で天守の北数メートル先に落とされた爆弾による影響です。直撃しなくて良かったというべきか

 

天守

大阪城 天守

大阪城 天守

実は大阪城天守は忠実な復元ではなく、豊臣天守と徳川天守の特徴が混ざった復興天守です。ただ、豊臣天守は30年、徳川天守は39年で焼失しましたので、1931年(昭和6年)に建てられた現天守が最も長寿であり、1997年(平成9年)には登録有形文化財にも指定されました。

感想

何と言っても枡形の巨石には唖然とさせられます。他の城ではまず見ることの出来ない大きさなので、ぜひ見てほしいです。

また、大阪城内には陸軍第4師団司令部が置かれたため、太平洋戦時には激しい爆撃を受けました。現在は封鎖されていますが、防空壕も掘られました。その傷跡を見るのもいいのかもしれません。

明石城(兵庫県明石市) 駅から見える2つの三重櫓

駅のホームからでも見える明石城。2基の三重櫓が現存している貴重な城です。明石と言えば、鯛と蛸が有名ですが、実は城も立派です。

日本100名城

2020年8月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

大阪の陣の戦功により、1617年に信濃松本より小笠原忠政が船上城に入ります。その直後、西国に対する押さえとして、徳川秀忠の命により築城を開始し、1620年に完成したのが明石城です。1632年に小笠原家は小倉に転封し、その後目まぐるしく城主が替わりますが、常に譜代大名が配されました。

1682年に越前大野から松平直明が6万石で入封し、以後、越前松平家が城主となりましたが、10代慶憲が版籍奉還しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★ 

JR明石駅、もしくは山陽明石駅から徒歩5分。JR明石駅のホームからは白亜の2基の三重櫓を眺めることも出来ます。駅チカの城ですね。

 

城歩き

ホームからの明石城

ホームからの明石城

JR明石駅のホームからの明石城。左が坤櫓、右が巽櫓。

 

太鼓門跡

明石城 太鼓門跡

明石城 太鼓門跡

三の丸への入口である太鼓門跡。かなり広くて立派な枡形です。当時は木製の太鼓門橋がかかり、正面には高麗門、奥の櫓門には時を告げる太鼓が備え付けられていました。

 

縄張図

明石城 縄張図

明石城は、人丸山の東西に東の丸・二の丸・本丸・稲荷丸が一直線に配置され、南側の山麓には内堀に囲まれた居屋敷曲輪と三の丸、更には外堀がありました。藩主の御殿のあった居屋敷曲輪は野球場に生まれ変わっていますね。

 

三の丸

明石城 三の丸

武家屋敷のあった三の丸には、いまでは青々とした芝生が広がっています。よく見ると、左右の櫓の姿は少し異なっています。

 

巽櫓

明石城 巽櫓

明石城 巽櫓

右のノッポな方は巽櫓。船上城からの移築との言い伝えもありますが、現在の櫓は江戸時代に焼失し再建されたものです。

 

二の丸と東の丸

明石城 二の丸

二の丸下の石段を上って本丸に向かいます。二の丸と東の丸の高石垣が見ものです。。

 

石段

明石城 石段

明石城 石段

明石城 石段

明石城 虎口

ぐるっとUターンするように石段は続きます。当時は石段の途中一か所と二の丸入口に門が構えられていました。大掛かりな階段枡形ですね。

 

二の丸

明石城 二の丸

石段を上りきった右側には二の丸が広がっています。今あるのはベンチくらいかな。

 

東の丸

明石城 東の丸

明石城 東の丸

二の丸の先には、東の丸が広がっています。二の丸とは低い石垣と門で区切られていました。ベンチと蚊しかないので(笑)、引き返して本丸に向かいます。

巽櫓と空堀

明石城 巽櫓

明石城 空堀

二の丸から本丸には土橋を渡って向かいます。曲輪間は空掘で区切られており、流石に本丸は防御が厳重です。

 

巽櫓

明石城 巽櫓

南東隅の巽櫓。あらビックリ、裏側は窓すらないのっぺらぼう。

 

狭間からの眺め

明石城 狭間

巽櫓と坤櫓の間には白壁の土塀が復元されています。


坤櫓

明石城 巽櫓

南西隅の坤櫓。伏見城から移築されたと伝わります。巽櫓よりも大きく、天守の代わりを果たしました。

 

天守

明石城 天守台

明石城 天守台

坤櫓近くの天守台。かなり立派ですが、最初から天守は建てられませんでした。

 

搦手の虎口

明石城 搦手虎口

本丸の搦手虎口。ここから稲荷曲輪に下ります。

 

桜堀

明石城 桜堀

稲荷曲輪から北に下りると広がる桜堀。近くの剛ノ池を水源とし、剛ノ池は天然の要害でもありました。

 

天守

明石城 天守台

稲荷曲輪に戻りましたが、稲荷神社は無いようです。ただ、下から見上げる天守台は圧巻の一言。

 

稲荷曲輪出口

明石城 稲荷曲輪出口

明石城 稲荷曲輪出口

稲荷曲輪からは南の居屋敷曲輪に下りることが出来ました。残念なことに、藩主の屋敷があった居屋敷曲輪の堀は埋められ、今では球場と芝生の広場が残るのみ。

 

坤櫓

明石城 坤櫓

先ほど本丸でもお会いした坤櫓。これはもう天守代わりですね、うん。

 

おまけ

魚の棚商店街

魚の棚商店街

築城時の町割りで誕生した魚の棚商店街。駅前はすっかりきれいになったけど、この商店街は変わりません。

 

脇道の店の軒先には蛸が干されていました。

感想

やはり櫓と長塀の眺めが絵になります。縄張りもよく残っていて、本丸を始めとした石垣を堪能できました。駅近なので気軽に楽しめるのもいいね。 z\ぜひ魚の棚明石焼きも食べてくださいね。

七尾城(石川県七尾市) 上杉謙信も苦戦した山城

日本5大山城の七尾城。能登・畠山氏の居城であり、上杉謙信が攻め落とすまでに1年もかかった堅城でした。そんな山城を真夏に電動自転車で登ってみました。

日本100名城

2020年8月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

七尾城は、能登国守護の畠山氏が16世紀前半に築きました。その縄張りは、七尾湾を一望できる標高305メートルの山に、山上から山麓までの尾根筋に多くの曲輪を配した大規模なものでした。7代義総の時代には京風の畠山文化が花開き、最盛期を迎えました。

加賀平定を目指す織田信長越中を平定した上杉謙信。畠山家中では親上杉派と親織田派で激しい対立がありましたが、織田側につくことを決断しました。1576年に上杉謙信が七尾に侵攻し、畠山家は七尾城に籠城しました。

籠城は1年にも渡りましたが、織田の援軍はなかなか来ず、重臣・遊佐続光,温井景隆らの裏切りもあり落城しました。ただ、翌年の1578年に上杉謙信が死去し、七尾城は織田の勢力下になりました。

1581年に能登に封じられた前田利家は七尾城に入城しますが、翌年1582年に港近くの小丸山城に移り、七尾城は廃城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR七尾駅まで金沢駅から普通電車で1時間30分。七尾駅から城の麓にある七尾城史資料館まで徒歩40分。市内循環バス「まりん号」を利用すれば13分。

七尾城史資料館から徒歩で登ると約1時間かかりますが、県道177号が本丸下の駐車場まで通っているので、大半の観光客は車で登城していますね。 

 

城への道のり

七尾駅

七尾駅前

駅から徒歩で向かうには辛すぎる七尾城。駅構内のこぢんまりとした観光案内所で電動自転車を借りて、本丸まで目指すことにしました。

 

七尾城史資料館

七尾城史資料館

国道159号、県道177号を通り、15分ほどで七尾城史資料館に着きました。35度を超える暑さのカンカン照りに早くもグロッキー気味。

登城口への道

七尾城登城口への道

七尾城への徒歩での登城口は、資料館から更に10分ほど先にあります。元気があったら徒歩で登ろうと思っていますたが、速攻でギブアップ。

 

七尾城登城口

車での七尾城登城口

車(自転車)はここから向かいます。正面左の山にあるのが七尾城。城跡までの距離3.7キロ。

 

能登

能登湾

道路は県道だけあって、狭いながらも整備されています。途中で能登湾も眺められました。

 

城跡まで2.2キロ

七尾城道路

木陰がほとんど無くて、直射日光がガンガンあたります。それにしても暑すぎるだろ。

 

城跡まで1.1キロ

途中には傾斜10%の坂道もあり、電動自転車とはいえ辛かった。何もしなくても汗が流れます。残り1.1キロ。

 

七尾城駐車場

七尾城 駐車場

登城口から登ること20分。駐車場に着いたときには嬉しさよりもホッとしました。真夏だったので地獄でしたが、涼しい季節なら電動自転車もありだと思います。

 

城歩き

登城路

七尾城 登城路

駐車場から本丸へは歩いて向かいます。道にはウッドチップが敷いてあって歩きやすい。

調度丸跡

七尾城 調度丸

本曲輪の北側にあり、武具をととのえた場所とあります。曲輪内には区分け用の石垣がありました。

 

桜馬場北面石垣

七尾城 桜馬場北面石垣

七尾城 桜馬場北面石垣

七尾城の最大の見所はこれでしょ。調度丸から見上げる桜馬場北面石垣。2メートルの野面積みの石垣を5段重ねています。昭和に積み直されたようですが、この段々畑石垣は本当にすごい。

 

案内板

七尾城 案内板

石垣横の階段を上ると桜の馬場に到着です。左に行くと遊佐屋敷・本丸、右に行くと九尺石。

 

桜馬場跡

七尾城 桜馬場

七尾城 桜馬場跡

軍馬の訓練を行ったという桜馬場跡。現在は杉が立ち並び、馬という雰囲気じゃないね。

遊佐屋敷跡

七尾城 伝・遊佐屋敷

七尾城 伝・遊佐屋敷

本丸下の遊佐屋敷跡。遊佐続光は畠山家の重臣でしたが、籠城戦では上杉に寝返ったため、七尾城は落城しました。なお、謙信の死後には織田に寝返りましたが、許されずに処刑されました。

 

本丸石垣

七尾城 本丸石垣

本丸北面の3段石垣。先程の桜馬場北面の石垣と比べて積み方が新しいので、畠山家にではなく、織田支配下時に築かれた模様です。

 

本丸

七尾城 本丸

七尾城 本丸

ようやくたどり着いた本丸。空の青さと芝生の緑がとてもキレイ。昔ここで血みどろの争いがあったとは信じられません。

 

城山神社

七尾城 城山神社

本丸の南側には小さな神社がありました。元は櫓台で、東の長屋敷曲輪を監視するための櫓が建っていました。

能登

能登湾

本丸からは能登湾が一望できます。本当に美しい。暑いけど。

 

感想

なんと言っても、桜馬場北面石垣と本丸からの能登湾の眺めが素晴らしい。城址もよく整備されていて、七尾市の力の入れ具合が伝わってきます。ただ、真夏に電動とはいえ自転車で登るのは無理があり、本丸に着いたときはグロッキー状態でした。今度は涼しいときに登って、二の丸や三の丸もみたいですね。
 

金沢城(石川県金沢市) 蘇る加賀百万石の巨城

2020年7月に復元された鼠多門と鼠多門橋を見学しに金沢城を訪問しました。鼠多門は黒漆喰の海鼠壁という、非常に珍しい外観をしています。また、鼠多門橋の復元により、兼六園から金沢城経由で尾山神社へ抜けるという観光ルートも完成しました。

日本100名城

2020年8月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

加賀一向一揆の拠点だった金沢御堂を改修して、1580年に佐久間盛政が入城しました。1583年の賤ヶ岳合戦の後、破れた佐久間盛政に替わり前田利家が入城します。改修は嫡男・利長が行い、蓮池堀・いもり堀・白鳥堀が掘られ、高石垣が築かれました。以後、280年余りに渡り、加賀百万石・前田家の居城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR金沢駅から徒歩30分程ですが、バスがバンバン出ていますので利用しましょう。バス停「兼六園下・金沢城」で下車し、石川門から入城。もしくは「南町・尾山神社」で下車し、尾山神社経由で鼠多門から入城。 

 

城歩き

鼠多門は江戸時代に存在していた櫓門ですが、1884年明治17年)に火災で焼失しました。2015年から再建工事が進められ、2020年7月に無事完成しました。

 

縄張図

金沢城 縄張図

今回は、石川門⇒三の丸⇒ 橋爪門⇒二の丸⇒玉泉院丸⇒鼠多門というルートで歩いてみました。鼠多聞橋が復元されたことにより、兼六園から金沢城を通って尾山神社に抜けるという動線が確保されました。石川県の深慮、恐るべし。

 

石川橋

金沢城 石川橋

金沢城兼六園をつなぐ石川橋。いつも観光客で賑わっていますが、実は大手ではなく、搦手にあたります。

 

百間堀跡

金沢城 百間堀跡

金沢城は小立野段丘の先端部に築かれており、大地続きの兼六園側が弱点になりました。そのため、かつては百間堀と呼ばれる幅広い水掘がありました。もしここに道路を造らなかったら、金沢城兼六園をと横切れないので不便だったでしょう。

 

石川櫓

金沢城 石川櫓

金沢城と言ったら石川櫓。海鼠壁に鉛瓦、唐破風付出格子という華麗な外観。

 

石川門

金沢城 石川門

金沢城 石川門

表門・櫓門・続櫓・菱櫓で構成された枡形門。金沢城で江戸時代からの唯一現存の門になります。

 

三の丸と五十間長屋

金沢城 三の丸と五十間長屋

加賀100万石だけあって、金沢城は本当に広い。奥に見えるのは五十間長屋。以前三の丸には金沢大学のキャンパスがありましたが、平成になり郊外に移転しました。そのおかげで近年整備が進んでいます。

 

内堀と五十間長屋

金沢城 内堀と五十間長屋

1999年から2000年(平成11~12年)にかけて復元された内堀と石垣。一見すると塀に狭間がないように見えますが、いざという時には瓦を一枚割れば鉄砲を撃てる「隠し狭間」が設けられています。

 

橋爪門

金沢城 橋爪門

金沢城 橋爪門

二の丸への正門の橋爪門。金沢城で一番大きな枡形で、2001年(平成13年)に一の門、2015年(平成27年)に二の門が復元されました。

 

極楽橋空堀

金沢城 極楽橋

金沢城 空堀

二の丸と本丸附段間の空堀に架けられた極楽橋。江戸時代からこの名で呼ばれており、かつてこの地にあった金沢御堂に由来すると伝えられています。

 

三十間長屋

金沢城 三十間長屋

本丸附段に立ち寄って、2階建ての土蔵である三十間長屋を眺めます。あまりに長すぎて全体写真を撮るのも大変です。

 

玉泉院丸庭園

金沢城 玉泉院丸方面

金沢城 玉泉院丸庭園

三十間長屋の見学後、玉泉院丸庭園に向かいます。玉泉院丸は2代藩主利長の正室・玉泉院の屋敷があった曲輪で、玉泉院逝去後、3代藩主利常によって庭園が作られました。実はつい最近まで県体育館があり、現在の庭園は2015年(平成27年)に整備されました。

 

色紙短冊積石垣

金沢城 色紙短冊積石垣

金沢城 色紙短冊積石垣

この色使いのセンスに脱帽。色紙形(正方形)と短冊形(長方形)の色違いの石を組み合わせた魅せる石垣です。十七世紀後半に造られた可能性が高く、かつては黒色のV字形石樋から水を落とし、滝に見立てていました。

 

色紙短冊積石垣付近

金沢城 色紙短冊積付近石垣

金沢城 色紙短冊積付近石垣

色紙短冊積石垣付近の石垣にも、様々な色彩の石が使われています。庭園に溶け込んだ、魅せることを目的とした石垣。石の積み方が何かの古代遺跡を想起させます。

 

鼠多門

金沢城 鼠多聞

金沢城 鼠多聞

2020年7月に再建されたばかりの鼠多門(ねずみたもん)。 その最大の特徴は、海鼠壁の目地に黒漆喰が使用されていることです。名称の“鼠”はこの色に由来しますが、金沢城で黒漆喰を使用しているのはこの門のみ。

 

鼠多門内部

金沢城 鼠多門内部

木のいい香りがします。広々とした櫓内は、木造による復元が行われています。 使用木材の75%が県産で、櫓の側柱・壁板・床板等には能登ヒバが使用されています。かなり気合が入っています。

 

鼠多門

金沢城 鼠多門

鼠多門橋から眺める鼠多門。黒漆喰のおかげで精悍な顔立ちです。門横の石垣は明らかに復元ですね。

 

鼠多門橋からの堀跡

金沢城 堀跡

鼠多門と金谷出丸(現尾山神社)を結ぶ鼠多門橋も復元されました。橋下の道路はかつての堀跡です。ここも道路になっていますね。

 

尾山神社

尾山神社

前田利家、おまつの方をお祀りする尾山神社1873年明治6年)に金谷出丸跡に建てられてました。

 

神門

尾山神社 神門

尾山神社の正門にあたる神門。和漢洋の建築様式が用いられ、最上階にはステンドグラスがはめられています。なんとも不思議な雰囲気。

 

感想

再建された鼠多門が渋くて格好良かったです。何より尾山神社と繋がったことにより、金沢城見学が便利になること間違いなし。特に玉泉院丸庭園の色紙短冊積石垣も必見です。1995年(平成7年)の大学移転からの石川県の気合の入れ具合は半端なく、それ以前とは別物と言っていいほど整備されています。城好きは必見ですぞ。 

高岡城(富山県高岡市) 前田利長の隠居城

前田利長の隠居城として築かれた高岡城。 完成後ほどなくして廃城となりましたが、広大な水掘が残されています。元キリスタン大名の高山右近が縄張りを行ったという伝承も残っていますが、さてその真実は?

日本100名城

2020年8月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

加賀藩2代の前田利長は、1605年に隠居して富山城に移りました。しかし、1609年3月の大火により城と城下町が焼失したため、新たに高岡の地に城を築き、同年9月に魚津城から移りました。これが現在残る高岡城になります。

せっかく築いた高岡城ですが、1614年の利長は死去、1615年には一国一城令が発せられ廃城となりました。完成からたった6年余りですね。ただ、3代利常は水掘を埋め立てず、その後も加賀藩米蔵等が置かれていました。いざというときの備えでしょうか。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

あいの風とやま鉄道高岡駅より徒歩15分。 もしくは、JR越中中川駅氷見線)から徒歩4分。北陸新幹線の開業で「新高岡駅」が出来たため、かえって行き難くなったような気もします。

 

高岡城の縄張りについて

縄張図(案内板から)

高岡城 縄張図

高岡城は、方形の本丸を二の丸・鍛冶丸・明丸・三の丸・小竹薮曲輪が囲んでいます。一見すると本丸の北西側が弱点に見えますが、当時は沼地が広がっていました。

キリシタン大名高山右近が縄張りしたとの伝承がありますが、実際は前田家で行ったようです。焼失した富山城の縄張りに類似しており、水堀がとても広いのは火事を恐れたからかも知れません。鍛冶丸・明丸・三の丸もやたらと水掘で区切っています。

 

 城への道

加賀藩が高岡に鋳物工場を開設したこともあり、高岡の銅器はとても有名です。また、マンガ好きには、藤子・F・不二雄先生の出身地としても知られています。

これらの名所に立ち寄りながら、高岡城に向かってみましょう。

 

ドラえもんポスト

ドラえもんポスト

高岡駅1階待合室にあるドラえもんポスト。高岡銅器で作られています。

 

ドラえもんの散歩道

高岡 ドラえもんの散歩道

駅近くの広場のドラえもん達。これも銅像です。

 

高岡大仏

高岡大仏

元は木製大仏でしたが、現在の大仏は26年の歳月をかけて1933年(昭和8年)に完成しました。これも銅製(青銅)で、銅器の街の面目躍如ですね。

 

城歩き

縄張図

高岡城 縄張図

高岡城は街中にあるにも関わらず、築城時の縄張りがほぼ残っています。城の三分の一を水掘が占めており、各曲輪には土塁が築かれていました。現在は本丸と二の丸に橋が架かっていますが(青円)、当時は鍛冶丸経由でしか入城できませんでした。

高山右近

高岡城 高山右近像

鍛冶丸に入る大手口にある高山右近像。

武将や茶人として活躍した大名の右近は、バテレン追放令後も棄教を拒み、前田家に客将として迎えられました。どうしてここに銅像があるのか考えましたが、高岡城の縄張りに関わったという伝承があるからでしょうね。

 

大手道

高岡城 大手道

高岡城

出丸である鍛冶丸への大手道。古図では喰違虎口が描かれていますが、現在は一直線。道の両脇には水掘がありますが、樹木が繁っていてよく見えません。残念。

 

鍛冶丸から二の丸への道

高岡城 二の丸への道

鍛冶丸から二の丸への道です。高岡城の二の丸は本丸に比べて狭く、実質的に出丸のような役割を果たしていました。道の脇には水堀がありますが、やはり木でよく見えません。

 

二の丸から本丸への道

高岡城 二の丸から本丸への道

二の丸から本丸への道です。さっきから同じような絵面が続きます。古図には枡形が描かれていますが、現在は射水神社がありますね。

 

土橋の石垣

高岡城 土橋の石垣

高岡城は土塁で築かれていますが、なぜか二の丸から本丸への土橋の両脇は石垣で築かれています。

 

本丸

高岡城 本丸

 本丸広場への通路。左側の土塁に上ってみましたが、樹木が茂って眺めは良くないな。

 

本丸広場

高岡城 本丸広場

本丸広場。かつては御殿がありましたが、今は見ての通り芝生が広がっています。

 

土塁上

高岡城 土塁

本丸を囲む土塁上の遊歩道。高岡城は平城ですが、堀から高さがありますね。

 

前田利長

高岡城 前田利長像

広場の奥にある加賀前田家2代の前田利長像。

烏帽子のように長い兜は、鯰の尾を模したものなんだって。

 

朝陽橋

高岡城 朝陽橋

本丸から小竹薮曲輪方面の出丸に架かった橋です。古図では「貫土橋」と記載され、当時は車橋と呼ばれる引き橋でした。
 

水掘

高岡城 水掘

高岡城 水掘

中の島を通って城外に出て、外から本丸を眺めてみました。とにかく水掘が広いね。城というより古墳だな。

 

本丸と水掘

高岡城 水掘

堀沿いの「池の端通り」を本丸を眺めながらテクテク歩きます。かつては本丸の北西側は沼地だったためか、平城の割には本丸土塁が高いね。

 

本丸土橋

高岡城 土橋

先程通った二の丸から本丸に架かる土橋。遠くに先程通った土橋の側面石垣が見えます。

 

感想

広大な掘と土塁の城でした。築城時の水堀が残っているのは本当に貴重です。ただ、公園として保全されているのでしょうがないのですが、城内からだと樹木が邪魔をして、せっかくの水掘が見えなのが残念でした。