壮大な石垣に圧倒される大阪城。前回は大手門から登城しましたが、今回は京橋口から今里丸経由で天守に向かいました。太平洋戦争の傷跡がチラチラ垣間見えましたよ。
2020年8月登城
満足度:★★★★★
大阪城の歴史と交通アクセスは、過去の記事をご参照願います。大手門から天守を目指すコースを紹介しています。
城歩き
登城ルート
今回は京橋口から極楽橋を渡り、山里丸経由で天守に向かいます。これまた見どころいっぱいのコースになります。
大阪メトロ天満橋駅の3番出口から大阪城に向かいます。奥に天守が見えていますが、辿り着くのは大変ですぞ。
乾櫓
豪快な石垣と幅広い水掘にテンションが上ります。月並みな感想ですが、クレーン等の重機の無い時代によくこれだけの石垣を築いたもんだと感心します。乾櫓は千貫櫓と並び城内最古の建物となります。
京橋口
近くの寝屋川に京街道につながる橋「京橋」が架けられていたので京橋口。ここから城内に入ります。今の繁華街の京橋(京橋はええとこだっせ♪)からは少し離れています。
京橋口枡形と蛸石
使われている石が巨大すぎて、コンクリートで作られているようにすら見えます。枡形正面の肥後石はなんと33畳の巨大さ(城内2位)。名の由来は、肥後の加藤清正が持ってきたから(実際は岡山藩主・池田忠雄によって運ばれたので岡山石?)
こま犬
このこま犬は中国・明時代の文化遺産です。1982年(昭和57年)の調査で略奪品であることが判明し、大阪市が中国に返還を打診した結果、中国から寄贈されました。
内堀越しの天守
内堀沿いに歩きます。ここからの天守はとても格好いい。一段低い曲輪が山里丸。
山里丸へ架かる極楽橋。金沢御坊(本願寺)のあった金沢城にも同名の橋があることから、石山本願寺のあった大阪城にも極楽浄土へ向かう橋として名付けられたのかもしれません。また、琵琶湖・竹生島の宝厳寺の唐門は、豊臣時代の極楽橋から移築されました。
極楽橋枡形
大阪城はバリアフリー化が進んでいるのを感じます。そもそも城はバリアフリーとは対極の建造物ですが、これはこれで人に優しいなと思います。
刻印石広場
山里丸で目に入るのは、オブジェのような巨石群。現在の大阪城は徳川家の天下普請により築かれましたが、諸国大名の家紋等が刻印された石が展示してあります。まるでパズルのようでマニア大喜び。
豊臣時代の山里丸は松や桜の木々が茂り、茶室の建つ雅な場所でしたが、落城の際に豊臣秀頼・淀君が自刃した場所と伝えられています。1997年(平成9年)に大阪市によって石碑が建てられました。
山里口
本丸には山里口を通って向かいます。バリアフリーの坂道ですが、傾斜がえぐいな。
機銃掃射痕
石垣の根本には、太平洋戦争末期の空襲による機銃掃射痕が残ります。また、山里丸の北側等は爆撃により、江戸時代の遺構は大きく破壊されていました。
山里口出枡形
本丸から山里丸に突き出している枡形です。ほんと広いね。
山里口出枡形からの天守
天守のある本丸まであと少し。当時は姫門が建っていましたが、幕末に焼失しました。石垣が妙に新しいけど、空襲後の再建かな。
隠し曲輪
山里口出枡形の切れ目から、隠し曲輪と呼ばれる帯曲輪に出ることが出来ます。「この曲輪が役に立つんかな?」とは思いますが、一時期煙硝蔵(火薬庫)が置かれていたそうな。
隠し曲輪からの天守
丸に十字は伊予大洲の加藤家、丸に二八は丹波園部・出石の小出家の刻印です。両家の刻印石が積み重なっている箇所もあり、互いに協力したんやろか?
再び山里口出枡形に戻って、本丸に上ります。下から眺める天守の存在感は圧倒的。
天守台の歪み
よく見ると、天守台の北壁から西壁にかけて石垣が歪んでいます。空襲で天守の北数メートル先に落とされた爆弾による影響です。直撃しなくて良かったというべきか
実は大阪城天守は忠実な復元ではなく、豊臣天守と徳川天守の特徴が混ざった復興天守です。ただ、豊臣天守は30年、徳川天守は39年で焼失しましたので、1931年(昭和6年)に建てられた現天守が最も長寿であり、1997年(平成9年)には登録有形文化財にも指定されました。
感想
何と言っても枡形の巨石には唖然とさせられます。他の城ではまず見ることの出来ない大きさなので、ぜひ見てほしいです。
また、大阪城内には陸軍第4師団司令部が置かれたため、太平洋戦時には激しい爆撃を受けました。現在は封鎖されていますが、防空壕も掘られました。その傷跡を見るのもいいのかもしれません。