石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

姫路城(兵庫県姫路市) 日本初の世界文化遺産に登録された白亜の城

白鷺城とも呼ばれる白亜の姫路城。天守を始めとした主要な建物が残っている非常に貴重な城郭です。それは正に奇跡。1993年に奈良の法隆寺とともに日本初の世界文化遺産に登録されました。 

日本100名城

 2020年8月登城

満足度:★★★★★

 

 

歴史

姫路は古来から交通の要地であり、1346年に赤松貞範が姫山に本格的な城を築いたのが初めと言われています。その後、赤松氏の目代である小寺氏の時代が続き、一時山名氏が治めるものも、再び小寺氏が入り、重臣の黒田氏が城を預かりました。

1580年の羽柴秀吉の中国攻めで小寺氏は滅亡し、黒田孝高(官兵衛)は城を秀吉に献上し、秀吉一門の木下家定が16年間治めました。

1600年の関ケ原の合戦後、東軍に属して武勲を立てた池田輝政が播磨52万石で入城しました。輝政は城の大改築を始め、今日ある姫路城が完成しました。

1617年に池田輝政鳥取に転封し、桑名から本多忠政が15万石で入城しました。子の忠刻は、徳川秀忠の娘である妻千姫の化粧料10万石を受けたので、本多家は合わせて25万石となりました。

1639年に本多政勝は大和郡山に転封し、入れ替わりに松平忠明が入城しました。

その後は目まぐるしく城主が交代しましたが、1749年に酒井忠恭が15万石で入城し、以後明治維新まで10代続きました。

姫路城と言うと、大河ドラマ黒田官兵衛、 後の太閤羽柴秀吉、大大名の池田輝政、悲運の千姫の印象が強いのですが、実は酒井家の在城期間が一番長いんですよね。意外だ。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR姫路駅から大手門まで徒歩15分、入城口(券売所)まで徒歩20分。駅から一直線に城へ向かうのですが、途中天守がずっと目に入ります。こりゃ絶対迷いません。

 

城歩き(姫路駅から三の丸まで)

まずは駅から入城無料の三の丸まで歩いてみました。

 

大手前通り

姫路城 大手前通り

駅からの大手前通りの先に姫路城が見えます。これなら迷わず辿り着けますね。

 

大手門(新造)

姫路城 大手門

桜門橋を渡ると大手門がお出迎え。実はこの高麗門は1938年(昭和13年)に建てられたもので、門のある場所には当時枡形石垣がありました。

三の丸広場からの天守

姫路城 天守

姫路城 天守

三の丸広場には芝生が広がっており、ここから眺める天守の美しさには絶句。姫路城は姫山と鷺山を中心に築かれており、天守や曲輪が丘に築かれているのが分かります。

 

城歩き(入城口からほの門まで)

入口を出て、まず目に入るのは菱の門。菱の門を通った後は、いろはの順で門を潜っています。

 

菱の門

姫路城 菱の門

姫路城 菱の門

二の丸の正門で、城内で一番大きい脇戸付櫓門です。2階にはアーチ型の花頭窓もあって、優美な印象を受ける建物です。門の名称は、冠木に木製の花菱が飾られていることから。

 

いの門

姫路城 いの門

姫路城 いの門

菱の門を通り抜けて直進すると、いの門が待ち構えています。姫路城の門はいろは順で名付けられており、なんとをの門(現在焼失)までありました。

 

ろの門

姫路城 ろの門

高麗門ですが、左側に脇戸が付いていますね。

 

将軍坂(通称)

姫路城 将軍坂

「ろの門」を潜って進むと、右側が上り坂となります。時代劇「暴れん坊将軍」のロケ地に度々登場したことから、将軍坂との異名が付いています。

 

はの門

姫路城 はの門

姫路城 はの門

はの門は櫓門ですが、内側から見ると埋門のようにも見えます。いざというときは両脇の石垣を崩して、門の内側を石で埋めてしまう作戦です。

 

にの門

姫路城 にの門

姫路城 にの門

二の丸の最終関門は、にの門になります。鉄板貼りとなっていて、防御力抜群。内部は穴蔵のようになっており、槍を持ったまま通り抜けるのは困難です。

ほの門

姫路城 ほの門

姫路城 ほの門

ほの門は埋門になっています。やはり扉に黒鉄板が貼ってあります。

 

城歩き(水の一門から天守まで)

水の一門から水の六門まで、天守台を横目に進んでいくことになります。水の門の名の由来は、ろの渡櫓内の井戸から天守までの水を運ぶルートにある門だから。

 

水の一門

姫路城 水の一門

ほの門を潜ってすぐUターンすると水の一門。ほの門との境には、白亜の姫路城では珍しい油壁(土壁)が築かれてます。この後、天守まで水の門が続きます。

 

ろの渡櫓

姫路城 ろの渡櫓

姫路城 ろの渡櫓

ろの渡櫓内には井戸がありました。籠城時にはこの井戸を利用します。

 


水の二門・水の三門

姫路城 水の二門

姫路城 水の三門

水の二門と水の三門が連続してあります。天守に向かうのに、下りになっているのも面白い。

 

水の四門

姫路城 水の四門

水の四門は埋門になっています。塀の下に門があるのも珍しいですね。

 

水の五門

姫路城 水の五門

水の五門は大天守と西小天守をつなぐ渡櫓下の門になります。全面鉄板に覆われており、防御も鉄壁。

 

水の六門

姫路城 水の六門

水の六門は本当の最終門。大天守への入口となります。

 

天守内部(1階から最上階)

姫路城 天守1階

姫路城 天守2階

姫路城 天守3階

姫路城 天守4階

姫路城 天守5階

姫路城 天守最上階

姫路城の天守は5重6階。本当に広いです。息が切れますわ。

 

天守からの眺め

姫路城 天守からの眺め

姫路城 天守からの眺め

天守最上階からの眺めがいいですね。1枚目の写真は大手方面、2枚目は西の丸方面。

城歩き(備前丸から三国堀まで)

天守に上った後は、本丸にあたる備前丸から下りていきます。上りと下りでコースが違うのは、沢山の観光客をさばくためですね。

 

備前丸からの天守

姫路城 天守

姫路城 天守

天守内部を見学した後、備前丸(本丸)に進みます。池田家時代には、備前丸に御殿が建てられ藩主が住んでいました。残念ながら、1882年(明治15年)の火災で備前丸の建物は全て焼失しましたが、この曲輪からの天守の眺めは迫力満点です。

 

備前

姫路城 備前門

姫路城 備前門

備前丸の入口の備前門。江戸時代には東入口門と呼ばれていました。門上の櫓部分は1882年(明治15年)の火災で焼失しましたが、1963年(昭和38年)に再建されています。

  

転用石(石棺)

姫路城 転用石

姫路城 転用石

城の石垣には墓石等の転用石がよく使用されますが、姫路城には古墳の石棺も多く転用されています。

 

転用石

姫路城 転用石

姫路城 転用石

備前門から下る途中の石垣に、やたらときれいな切り口の石があります。元は石棺がはめられていましたが、昭和の解体修理時に新しい石材に交換されました。石棺は中がくり抜いてあるので脆いんだって。

 

りの門とへの櫓

姫路城 りの門

姫路城 りの門とへの櫓

帯曲輪からりの門を通って上山里丸に出ます。城内で一番古い門で、池田輝政より前に木下家定が建てたことが判明しています。
 

お菊井戸

姫路城 お菊井戸

上山里丸の名物にあるお菊井戸。江戸時代の怪談「番町皿屋敷」のモデルになった井戸になります。市内にはお菊さんを祀っているお菊神社もありますのでぜひお参りしてください。

 

ぬの門

姫路城 ぬの門

姫路城 ぬの門

上山里丸と二の丸を結ぶ櫓門がぬの門になります。櫓部分が2階建てという堅固な櫓門です。

 

 るの門

姫路城 るの門

姫路城 るの門

るの門は埋門です。巨大な石を組み合わせた入口は、まるで古墳のようです。

 

三国堀

姫路城 三国堀

姫路城 三国堀の石垣

方形の三国堀。よくみると石垣にV字の境目があります。元々は奥まで堀が伸びていましたが、池田時代に改修した跡になります。

これで二の丸の正門の菱の門までぐるりと戻ってきました。

 

城歩き(西の丸)

 

西の丸入口

姫路城 西の丸入口

菱の門からは西の丸へ向かいます。西の丸は徳川家から嫁いだ千姫のために、本多家が築きました。逆に言うと、池田輝政の時はありませんでした。

 

ワの櫓

姫路城 西の丸 ワの櫓

曲輪沿いに渡り櫓が延々と続いており、中の廊下は百間廊下と呼ばれています。

百間廊下

姫路城 百間廊下

姫路城 百間廊下

ただひたすらに長い廊下が延々と続いています。多聞櫓って、こういう建物なんだって勉強になります。

 

ルの櫓

姫路城 ルの櫓

入口のワの櫓からルの櫓までは、当時は倉庫として使用されていました。えらい長い倉庫やな。

 

廊下の大戸

姫路城 廊下の大戸

廊下の途中にやたら頑丈な大戸があり、この大戸の内側は女性が住む区域でした。

 

西の丸長局

姫路城 西の丸長局

姫路城 西の丸長局

確かに多数の女中部屋がありますね。千姫に使えた侍女たちが住んでいました。


化粧櫓

姫路城 化粧櫓

姫路城 化粧櫓

百間廊下の終着点は化粧櫓。奥の女性像は千姫です(ちょっと怖い)。

千姫豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大阪の陣で秀頼は自害。その後、本多忠政の子・忠刻に嫁ぎますが、長男を幼くして亡くし、夫の忠刻も31歳で早世しました。悲運の女性であります。

 

感想

姫路城と言えば白亜の天守ですが、実際に登城すると迷路のような縄張りが凄すぎます。侵入してきた敵を撃退する仕掛けがマニアックで、城を上りながら一つ一つ確認するのが楽しすぎます。火災や空襲を乗り越え、現在まで残ってくれていることに感謝です。

福井城(福井県福井市) 日本最強の県庁

一部から日本最強の県庁と呼ばれる福井県庁。その理由は、城の本丸に県庁と警察本部があるから。そのためか、越前松平家68万石の巨城でありながら、福井城はもうひとつ地味な印象です。ただ、2018年(平成30年)には山里口御門が復元され、少しずつ整備が進められています。

日本100名城

 2020年8月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

関ケ原の合戦後、徳川家康の二男・結城秀康が越前68万石に入封し、1606年に北庄城(後の福井城)が完成しました。以後、約270年間17代にわたり越前松平家の居城となりました。

越前松平家は徳川本家と折り合いが悪く、1686年には25万石まで領地を減らされました。2代藩主・松平忠直は暴君として豊後に隠居させられ、菊池寛の「忠直卿行状記」のモデルにもなりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR福井駅から徒歩5分。 県庁があるだけにアクセス抜群です。というか、福井駅もかつての城内にありました。 

 

城歩き

かつては4重・5重の堀で囲まれていた福井城ですが、現在は本丸を残すのみ。2018年(平成30年)に復元整備された山里口御門から城内に入りました。

  

廊下橋

福井城 御廊下橋

福井城 御廊下橋

大手門ではありませんが、16代藩主松平春嶽らの時代には、藩主は御廊下橋を渡り、山里口御門を通って本丸に入りました。2008年(平成20年)に復元されました。

 

山里口御門

福井城 山里口御門

福井城 山里口御門

山里口御門は、棟門と櫓門からなる枡形です。空間が狭く、技巧的な造りになっています。再建されたのは良いのですが、妙に新しすぎる箇所もあります・・・

 

天守

 

福井城 天守台

山里口御門を通ってすぐに天守台がお出迎え。早速上ってみましょうか。

 

天守台上

福井城 天守台

天守台は2段の石垣で構成されていて、下段(現在の場所)は帯曲輪になっています。改めて、スケールの大きな城だったんだと実感。

 

福の井

福井城 福の井

天守台には、築城当時からあった「福の井」と呼ばれる井戸があります。2017年(平成29年)に整備されました。

 

天守

福井城 小天守台

天守台の石垣は激しく崩れています。これは1948年(昭和23年)の福井地震によるものです。この地震では、近隣の丸岡城天守も倒壊しました。

 

天守

福井城 大天守台

福井城 大天守台

68万石にふさわしい4重5階の天守が建てられていましたが、1669年の大火で焼失し、その後再建されませんでした。復元図を見ると、現在の大阪城みたいな外観で、下層の4階と5階部分には屋根は無かったようです。

 

案内図

福井城 案内図

天守台から下りてどうしようかと思ったら、城内の案内図がありました。警察本部と県庁舎の間を抜けて、かつての大手口の御本城橋に向かいましょうか。

 

大手口

福井城 大手口

残念ながら、かつての枡形の石垣は残っていません。車が通るのには邪魔だからな。

 

本丸復元図

福井城 本丸復元図

本丸復元図を見ると、当時の御殿後に警察本部と県庁舎があるわけね。これが最強の県庁と言われる所以。

 

雁木

福井城 大手口 雁木

ただ、石垣に昇降するための階段である雁木は残っています。幅が広くて高さもあり、こりゃ立派だ。早速上りたいところですが、危険のため昇るの禁止。

 

石垣への階段

福井城 石垣

雁木の代わりに木の階段で石垣に上がります。

 

御本城橋

福井城 大手口

石垣から見下ろす御本城橋。福井城は平城ですが、盛土がしてあり本丸石垣は高さがあります。

 

大手口

福井城 大手口

石垣から下りて、御本城橋からの大手口。

 

本丸石垣

福井城 本丸

先程上った本丸石垣。堀も広い。

 

本丸石垣

福井城 本丸石垣

福井城の石垣には地場の「笏谷石」が使用されています。ところどころにはらみがありますね。

 

感想 

本丸の堀と石垣は、越前松平家68万石という立派なものでした。県庁があるので、どうしても城としての存在感が薄いのが残念。移転してくれないかな(おいおい)。

ただ、いっそ最強の県庁推しで売り出せば、意外と人気になるかもしれませんね。

丸岡城(福井県坂井市)  古風な天守が残る城

貴重な現存12天守のひとつが残る丸岡城天守以外の遺構が少ないのが残念ですが、その古式な佇まいの天守に思わず魅了されます。

「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」

日本100名城

2020年8月登城

満足度:★★★★

 

歴史

かつてこの地の中心は豊原寺という有力寺院でしたが、一向一揆の拠点となったため、1575年に織田信長によって焼き払われました。その後、柴田勝家の甥である勝豊は、一旦豊原寺跡に城を構えましたが、1576年に丸岡に新たに城を築き移りました。これが現在の丸岡城の始まりです。

その後、勝豊の家臣・安井家清、丹羽長秀の家臣・青山忠元、結城秀康の家臣・今村盛次の所領となりましたが、1612年に本多成重が入りました。成重の幼名は仙千代で、父重次が陣中から妻に宛てた手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」のお仙にあたります。

本多家4代目・重益のときにお家騒動が起き、1695年に糸魚川から有馬清純が入封し、以後8代続き明治を迎えました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR福井駅から、京福バス・丸岡線(朝夕のみ)で43分。県立病院丸岡線か大和田丸岡線だと、どちらも1時間に1本あり、乗車時間約1時間。JR丸岡駅もありますが、城からは4キロも離れているので注意。 

 

現存最古天守

日本には現存する天守が12あり、丸岡城天守は柴田勝豊に建てられた現存最古と言われてきました。しかし、2019年に丸岡城調査研究委員会は、本多成重が整備した可能性が高いと結論づけました。レトロな見た目ですが、姫路城より若かった!

 

城歩き

縄張図

丸岡城 縄張図

今は街中にぽつんとある丸岡城ですが、かつては本丸と二の丸を五角形の水堀が囲み、更に三の丸がその周囲を囲んでいました。

本丸入口

丸岡城 本丸入口

入城料を払って天守に向かいます。やはり堀や石垣の遺構は残っていないですね。残念。

 

本丸と天守

丸岡城 天守

いきなり天守が登場。小振りな天守ですが、天守台が高いので意外と迫力があります。

 

天守

丸岡城 天守

天守台の野面積みの石垣が立派です。天守は2層3階で、板張りの古風な造りとなっています。

 

天守

丸岡城 天守

1948年(昭和23年)の福井地震では天守が倒壊し、1955年(昭和30年)に保管されていた部材にて再建されました。

 

石製の鯱

丸岡城 石製鯱

天守の鯱は木彫銅板貼りでしたが、1940~1942年(昭和15~17年)の修理の際に銅不足のため石製に交換されました。その鯱ですが、先の福井地震で落下してしまいました。こんなのが上から落ちてきたらたまらんな。

 

天守内階段

丸岡城 天守内階段

天守の階段は急なものですが、ここまで急な階段は見たことないです。階段にロープが備え付けてあるなんて、この城ぐらい。階段も狭いので譲り合いの精神が必要です(笑)

 

天守内部(2階)

丸岡城 天守内部

1階と2階の通し柱はなく、天守内部の広間はシンプルな造り。

 

石瓦

丸岡城 天守瓦

瓦には防寒対策として、越前特有の笏谷石が使用されています。雨に濡れると青みがかってきれいなそうですが、この日は猛暑日天守を通り抜ける風が気持ちいい。

 

一筆啓上の碑

丸岡城 一筆啓上の碑

城内にある「一筆啓上」の碑です。初代藩主の本多成重(幼名:仙千代)の父・重次が長篠の合戦時に妻に出した日本一短い手紙の文面です。鬼作左と呼ばれた重次の家族への優しさが読み取れます。

 

感想

ほぼ天守しか残っていませんが、その天守に風格があって良かったです。残念ながら現存最古天守ではありませんでしたが、階段ロープは要体験ですぞ。

 

赤穂城(兵庫県赤穂市)  軍学者の技巧的な縄張り

赤穂といえば、何はなくとも忠臣蔵。討ち入った大石内蔵助赤穂藩の家老職を務めていました。その本拠地の赤穂城は、一国一城令後に築かれた、軍学に基づく技巧的な城でした。

日本100名城

2020年6月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

1645年に常陸笠間から浅野長直が赤穂に入封し、その3年後から新たに築城が開始されました。縄張りは甲州流軍学者・近藤正純が担当し、1661年に完成しました。浅野家は3代続きますが、3代目長矩の殿中刃傷事件により断絶しました。

1701年に浅野家の後に寺社奉行の永井直敬が入封しましたが、1706年に信濃飯山に転封しました。一時リリーフですね。

1706年に森和長直が備中西江原から入封し、12代続いて明治に廃藩になりました。森家の方が圧倒的長くいたのですが、どうしても浅野家のイメージが強いですね。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

赤穂線播州赤穂駅から徒歩20分。 

 

城歩き

播州赤穂駅から真っすぐ歩いて赤穂城を目指しました。 

 

赤穂藩上水道

赤穂城 赤穂藩上水道

 城に向かう途中、所々で赤穂藩上水道の記念碑を見かけました。赤穂城と城下町は河口の砂州に造られたため、井戸からは塩分を含んだ水しか湧きませんでした。飲水の確保に上水道は必要不可欠な設備でした。

 

大手門隅櫓(復元)

赤穂城 大手門隅櫓



 まず出迎えてくれる三の丸隅櫓。やや縦長でシュッとした櫓です。

 

三の丸大手門

赤穂城 三の丸大手門

赤穂城 三の丸大手門枡形

大手門は、1955年(昭和30年)に復元されました。門手前左の石垣は折れ、枡形内が広い厳重な構えでした。

 

近藤源八宅跡長屋門

赤穂城 近藤源八宅跡長屋門

近藤源八は千石番頭であり、父正純が甲州軍学に基づいて、城の縄張りを担当しました。現在残っているのは長屋部分のみであり、当時は36メートル近くの長大な長屋門でした。

 

大石邸長屋門

赤穂城 大石邸長屋門

浅野家筆頭家老・大石内蔵助が住んだ長屋門です。内部は赤穂大石神社の敷地になっています。

 

赤穂大石神社

赤穂大石神社 参道

赤穂大石神社 本殿

赤穂大石神社は1912年(大正元年)に四十七義士命を祀る神社として建てられました。大願成就のご利益にあやかろうと、城よりも人が多かったです(笑)

 

二の丸北隅櫓台

赤穂城 二の丸北隅櫓台

赤穂城は明治以降に田畑・宅地化したため、1982年(昭和57年)から断続的に復元整備が進められています。石垣が新しく、原っぱが広がっているのはこのためです。

 

二の丸門跡

赤穂城 二の丸門跡

赤穂城 二の丸堀

かつて二の丸入口の門があった場所です。赤穂には軍学者山鹿素行が滞在したこともあり、この周辺の縄張りを一部変更したと伝わっています。現在は跡形もなくて残念。

 

縄張図

赤穂城 縄張図

赤穂城の特徴はこの縄張り。塁線をいたるところで屈折させ、特に本丸と二の丸は西洋の城の縄張りのようです。また、築城時は二の丸の南半分と三の丸の西は海に面しており、干潮時は泥洲となっていました。今回は北から南に通り抜けてみました。

大石頼母助屋敷門(再建)

赤穂城 大石頼母助屋敷門

大石内蔵助の大叔父にあたる大石良重の屋敷門です。2009年(平成21年)に再建されました、

 

二の丸庭園

赤穂城 二の丸庭園

屋敷門をくぐると、庭園が広がっていました。1998年(平成10年)から発掘調査・修復が行われ、2016年から部分公開されました。この池の水にも上水道が利用されていました。(現在はどうだろう?)

 

本丸門(復元)

赤穂城 本丸門赤穂城 本丸門

本丸枡形の高麗門と櫓門。1992年(平成4年)から4年かけて復元されました。残念ながら、この日は櫓門の内部公開がありませんでした。

 

天守

赤穂城 天守台

赤穂城 天守台

天守は建てられませんでしたが、天守台は造られました。高さは9メートルもあり、5重の天守を載せることも可能な大きさです。天守が建てられなかった理由については、資金面や幕府への配慮と推測されています。個人的には、最初から建てるつもりはなく、様式美と云うか、ポーズだったと思います。

 

本丸御殿跡

赤穂城 本丸御殿跡

本丸の大半は御殿で占められていました。本丸には1981年(昭和56年)まで赤穂高校が建っており、遺構は残っていませんでしたが、その後永井家時代の間取り図が見つかり、1989年(平成元年)に御殿の間取り復元が行われました。

 

本丸庭園

赤穂城 本丸庭園

本丸内にも庭園が造られていました。発掘調査で遺構が検出され、現在は修復整備されています。本丸と二の丸の両方に庭園を持つ、優雅な城だったんですね。

 

厩口門(再建)

赤穂城 厩口門

赤穂城 厩口門

廃城後に失われましたが、2001年(平成13年)に門と橋だけではなく、石垣と白壁も一緒に再建されました。

 

本丸石垣

赤穂城 本丸石垣

赤穂城 本丸石垣

本丸の櫓台が突き出ており、城壁には折れも見受けられます。死角を無くし、横矢をかける縄張りになっています。

 

刎橋門跡

赤穂城 刎橋門跡

本丸御殿の裏手にあった刎橋門跡です。開閉式の刎橋(はねはし)が架けられていました。勝手口ですね。

 

水手門跡

赤穂城 水手門跡

赤穂城 水手門跡

二の丸の南側は海(干潟)に面していたので、船が出入り出来るように窪んだ縄張りになっていました。塩で有名な赤穂だけあって、海城だったと実感します。

 

感想

複雑な縄張りが印象に残りました。ただ、堀の幅や石垣の高さが控えめで、飲み水を上水道に頼っているのも実戦では致命的だと思いました。本丸・二の丸の庭園といい、平和な江戸時代の象徴的な城かな。

城内の整備が進められているので、これからの変化も楽しみです。

高取城(奈良県高取町)  日本三大にふさわしい壮大な山城

日本三大山城に数えられる高取城。作家・司馬遼太郎に、「アンコール・ワットに入った人の気持がわかる」とまで言わしめた山深い城です。気合で歩いて登城しましたが、みなさんにもこの苦労をぜひ味わっていただきたい!

日本100名城

2020年6月登城

満足度:★★★★★ 

 

 

歴史

高取城は、1332年に南朝方の豪族・越智邦澄によって、本拠貝吹城の詰の城として築かれました。以後、中世的な山城へと整備されていきますが、戦国時代に越智氏は滅亡し、高取城も廃城になりました。

1584年、大和郡山筒井順慶郡山城の詰の城として復興に着手していきますが、翌年伊賀に転封になりました。

代わって、豊臣秀吉の弟・秀長が郡山に入城し、高取城は家臣の本多利久によって大拡張工事が行われました。この時、広大な石垣づくりの城に生まれ変わりました。豊臣家の力ですかね。

本多氏は大和豊臣家の断絶後は秀吉の家臣として独立し、高取城主にまで栄達しました。関ケ原の合戦では東軍に付き、2万5千石の高取藩主にまでなりましたが、嫡子なく本多家は3代で断絶しました。

1640年、代わって譜代の植村家政が入城し、以後植村家が14代続き明治維新を迎えました。幕末には尊皇攘夷派の天誅組の襲撃を撃退し、この戦いは司馬遼太郎の「おお、大砲」によっても描かれています。

  

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

最寄りの駅は近鉄壺阪山駅。「壺阪山ってどこ?」と思ったけど、飛鳥駅の一つ先の駅でした。問題は駅から城跡まで4キロ以上あり、しかも途中から険しい山道になることです。

・王道は、駅から土佐街道を通って南東に進み、二の門から大手道を登っていくコースです。問題は登城口まで2キロ強歩く必要があり、更に山道を2キロ登る必要があることです。

・壺阪寺までバスに乗り、そこから壺阪口門跡を通って本丸まで歩いて目指すコースもあります。先の土佐街道コースよりは楽ですが、寺から1時間近く上る必要があります。バスの本数が少ないのも難点です。

・徒歩だと非常に厳しい高取城ですが、実は車を利用すると楽に登城できます。県道119号で八幡口登り口まで車を利用し、そこから歩くと壺坂口門跡を通って本丸まで20分。県道の行き止まりの七ツ井戸下まで車で行けば、本丸まで歩いてたったの10分。ただ、道が非常に狭くすれ違いが困難なのと、車を停めておくスペースも小さいので、運転の苦手な人はタクシー利用かな。 

 

城への道のり

城下からの本丸までひたすら登る、王道の土佐街道コースで城へと向かいました。

 

土佐街道

高取 土佐街道

土佐街道は城下のメインルートであり、両脇には古い町家が残っています。この石畳は、阪神大震災の復旧工事で出てきた阪神国道線の石畳を利用しています。

 

松ノ門(移築・再建)

高取城 松の門

児童公園入口に高取城松の門の一部が再建されています。松の門は明治に小学校に移築され、1944年(昭和19年)の火災後に解体された残材によって再建されました。

 

田塩家長屋門

高取城 田塩家長屋門

格子が横向きの「与力窓」を二つ付けた長屋門。現在も人が住まれています。

 

植村家長屋門

高取城 植村家長屋門


なまこ壁が印象的な植村家長屋門。旧藩主・植村家の住居となっており、元殿様が実際に住んでいるなんて凄いよね。

砂防公園休憩所

高取 砂防公園休憩所

砂防公園まで約30分かかりました。距離的には中間地点になりますが、この辺りから道が険しくなってきました。トイレはここで済ませておきましょう。

 

黒門跡

高取城 黒門跡

砂防公園から7分ほどで黒門跡に到着。門の痕跡は残っていませんが、ここから先が高取城の領域になります。

大手道

高取城 大手道

大手道入口の高取城阯の碑。ずっと山道を登ってきたのに、本丸まで更に1.7キロ。しかも、ここからが本当の地獄だ!

 

七曲り

高取城 七曲り

高取城 七曲り

曲がりくねった坂道が続きます。途中までカーブを数えていたけど、7つ以上曲がってるじゃん。この辺りから石垣がちらほら出てきて、少しだけテンションが上ります。

 

一升坂

高取城 一升坂

ずっと続く絶望の坂道。名の由来は、築城の際に石材を運ぶ人夫に米一升を加増したから。割増料金をもらわないとやってられないのが十分理解できます。本丸までまだ1.2キロ弱。

 

猿石

高取城 猿石

二の門の外にある謎の猿石。ここまで駅から75分かかりました。

この猿石は、飛鳥の吉備津姫墓にある猿石と同種であり、大手筋と岡口門の分岐点である二の門前に置かれています。石垣として利用する転用石として運ばれてきたという説もありますが、城内との境目を示す「結界石」との説に一票。

 

城歩き(二の門から本丸まで)

高取城登城ルート

高取城 登城ルート

ハイキング地図ダウンロード■高取町観光ガイドから高取城之図をお借りして、登城ルートを追記してみました。二の門から本丸まで872メートル、高低差は110メートルもあり、 こりゃ疲れそうだ。かつては途中に多数の門と虎口が設けてありました。

 

二の門跡

高取城 二の門跡

二の門より内側が城内となります。かつては門前に堀切があり、木橋が架かっていました。

 

水堀

高取城 水堀

二の門の左脇には山城では珍しい水堀があります。増水した場合、奥から谷底へ排水する仕組みになっています。
 

城内の坂道

高取城 城内坂道

往時は二の門から少し先に三の門がありましたが、遺構は残っていません。また、両脇に侍屋敷が立ち並んでいたらしいのですが、倒木と崩落がひどくて確認は困難です。

 

国見櫓跡

高取城 国見櫓跡

高取城 城下の眺め

途中に国見櫓への案内が出ていたので、横道に入ってみました。国見というだけあって、櫓跡からは大和盆地一円を見渡せます。この日は曇ってて残念。夜景もキレイとのことですが、誰が夜中にこんなとこまで来るんだよ(笑)

 

矢場門跡

高取城 矢場門跡

崩れかけの石垣が金網で覆われていて、なんとも痛々しい。

 

松ノ門跡

高取城 松ノ門跡

先の児童公園に復元された門がありましたね。ここも石垣が崩れているな。

 

宇陀門跡

高取城 宇陀門跡

食い違い虎口の千早門。ちなみに宇陀は奈良県中東部の地名です。

 

千早門跡

高取城 千早門跡

立派な石垣の千早門。楠木正成千早城から名を取っていますかね?

 

大手門跡

高取城 大手門跡

高取城 大手門跡

大手門まで来るのに、二の門からだと途中5つの門を通る必要があります。また、本丸に至るには、二の門・壺阪門・吉野口門のどのルートから登ってきても、必ずこの大手門を通らなければなりません。

 

十三間多聞跡

高取城 十三間多門跡

二の丸に入るには、十三間多聞門を通る必要がありました。正面に門の無い枡形です。

 

二の丸

高取城 二の丸

山城にしては、芝生公園と言えるくらい広い二の丸。かつては御殿が建てられており、政務や藩主の中心でした。奥に見えるのは、太鼓櫓・新櫓の石垣。1972年(昭和47年)に修復されているので、妙に新しくみえます。

 

十五間多聞跡

高取城 十五間多聞跡

本丸下郭への入口にある十五間多聞櫓跡。


本丸天守

高取城 天守台

高取城 天守台

この圧倒的な本丸天守台。石垣の高さは12メートルもあり、かつては3層白亜の天守がそびえ立っていました。古墳からの石も転用されているとのことですが、いかにも奈良っぽいですね。

 

本丸虎口

高取城 本丸虎口

二の門から幾つもの虎口を通ってきましたが、ここが最後の関門となります。

 

本丸

高取城 本丸

山城にしては広い本丸。二の門から城内に入ってから、のんびり歩いて45分。かつては大天守・小天守・御殿がありました。

 

天守

高取城 本丸天守台

高取城 天守台下

本丸北西隅には先程下から見上げた天守台があります。眺めは期待したほどでもないですが(失礼)、柵が無いので石垣の際まで近づけます。高所恐怖症の方は注意!

 

城歩き(大手門前から弥勒堀切まで)

マニアックですが、吉野口門の先にあるという弥勒(みろく)堀切を見に行きました。堀切とは、山城でよく見受けられる尾根筋をV字型に切断した遮断線です。

 

弥勒堀切ルート

高取城縄張り

大手門手前から、三の丸・吉野口門跡を経由して芋峠へ向かう途中にあります。矢印のまだ先にあって、縄張図や地図には載っていないので少々不安あり。

 

大手門手前から三の丸へ

高取城 芋峠案内

高取城 三の丸

大手門手前に芋峠への案内が出ていますので、そこから三の丸に下ります。芋峠は明日香と吉野の間にあり、高取にとって交通の要衝でした。

 

本丸下の石垣

高取城 本丸下石垣

高取城 本丸下石垣

右手に苔むした壮大な石垣を見ながら進みます。また、左手には吉野口郭が広がっていたはずですが、倒木や落ち葉の荒れ具合がひどくて立ち寄れません。

 

吉野口門跡と登り石垣

高取城 吉野口門跡

高取城 登り石垣

吉野口門跡を過ぎて振り返ると、門前の斜面に沿って石垣が築かれていました。

 

堀切

高取城 堀切

高取城 堀切

高取城 堀切

林道を進んでいくと(赤色ルート)、突然道が断ち切られました。左側に迂回して(青色ルート)下から見上げると、尾根がV字型に切り取られています。しかも、断面を石垣で補強しているのがすごい。

 

林道

高取城 林道

高取城 林道

堀切を抜けた後は、右側が崖になっている道をひたすら進みます。滑ったら本当に洒落になりません。倒木を林道部分のみ切断しているのが少しシュールでした。


 弥勒(みろく)堀切

高取城 弥勒堀切

高取城 弥勒堀切

高取城 弥勒堀切

先の堀切から7分ほどで弥勒(みろく)堀切に着きました。尾根筋がスパッと断ち切ってあって、谷底からの高さは6メートルはあります。櫓台のように、しっかり石垣で築かれていました。

感想

城の入口まで辿り着くのも一苦労、ものすごい山城でした。しかも、こんなに石垣を張り巡らせた山城はちょっと経験ありません。特に本丸天守台の高石垣は必見です。

ただ、大手門から本丸まではよく整備されていますが、他は石垣の崩れや倒木も目立ち、このままだと自然に帰ってしまう気がします。高取町の負担も重いと思うので、国や県が助けてくれないかな。切実に願います。