石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

今帰仁城(沖縄県国頭郡今帰仁村)  世界遺産に登録された琉球北山王の城

琉球・北山王の居城だった今帰仁城(なきじんぐすく)。緑の大地に大きくうねる城壁が特徴です。沖縄北部の美ら海水族館の近くにあって、今回はバスを利用して登城しました。

日本100名城

2020年1月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

14世紀から15世紀初頭にかけての三山鼎立(さんざんていりつ)時代、今帰仁城琉球北部を治める北山王の居城でした。

1416年に琉球統一を目指す尚巴志率いる中山軍によって攻められ、王である攀安知(はんあんち)は今帰仁城に籠城しましたが、部下・本部平原の裏切りもあり落城しました。

北山滅亡後は琉球王府から監守が派遣され管理されてきましたが、1609年の薩摩藩琉球侵攻の際に炎上し、以後廃城となりました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★ 

日本100名城の中では、根室半島チャシ跡群に次いでアクセス難易度の高い城です。那覇空港から車でも約2時間かかります。公共交通機関の場合、美ら海水族館行きの高速バスを利用するのがマストです。

 

美ら海水族館行きの高速バスは各社運行していますが、その先の今帰仁城跡入口」まで運行しているのはやんばる急行バスのみです。「県庁北口」から「今帰仁城跡入口」まで約2時間15分。運行は1,2時間に1本なので発車時刻に注意。

美ら海水族館までは各社運行しており、「県庁北口」から「記念公園前」まで約2時間。沖縄バス 本部半島線で「記念公園前」から「今帰仁城跡入口」まで10分。約1時間に1本の本部半島線を上手に利用するのがポイントです。

・バス停の「今帰仁城跡入口」から本当の今帰仁城入口まで車道を20分上ります(帰りは下りで早いけど)。また、かつて登城路として使われていたハンタ道もあります。まさに山道といった趣で、登りで40分ぐらいかかります。今帰仁城の観光客でハンタ道を歩いた人は1%もいないと思いますが・・・

 

城への道のり

舗装された道ではなく、当時の登城道であったハンタ道を登ってみました。

 

バス停(今帰仁城跡入口)

バス停(今帰仁城跡入口)

バス停のある今泊は廃城後に出来た集落です。薩摩侵攻で今帰仁城は炎上し、城近くの今帰仁と親泊の両集落は海沿いの現在地へ移転しました。

 

今泊散策道入口

ハンタ道入口

バス停の斜向いにある今泊散策道から城へ向かいます。石畳がいい雰囲気だけど、普通の田舎道って雰囲気です。

 

親川(エーガー)への脇道

親川(エーガー)道標

ずんずん歩いていくと、親川(エーガー)への脇道が現れますので見逃さないように。

 

親川(エーガー)

親川(エーガー)

親川(エーガー)はハンタ道の始点にある湧水です。水田への灌漑用水や飲水などの生活用水に利用されてきました。

 

ハンタ道入口

ハンタ道入口

親川(エーガー)の奥にハンタ道の登り口があります。普通に山道なので、明治まで登城路として現役だったのが信じられません。

 

ハンタ道

ハンタ道

ハンタ道中間地点

ハンタ道

ハンタ道が沖縄方言で「崖沿いの道」を意味することが実感できます。特に中間地点を超えてからは岩盤剥き出しの箇所が多く、雨に濡れていたこともあり、かなり滑りました。ロープを掴んでなかったら間違いなくコケてたな。

 

ミームングスク

ミームングスク

ミームングスク

ようやく平坦な道になって一息ついて歩くと、ミームングスクの案内板が目に付きました。現在はかなり崩れていますが、当時は三段の石積みからなる見張り台でした。よじ登ってみたけど、現在は樹木で見晴らしはよくありませんでした。

ミームンって、ムーミンって読んじゃいますよね。

 

供のかねノロ殿内火の神の祠

火の神の祠

火の神の祠

更に進むと、「供のかねノロ殿内火の神の祠」との標識があり、脇道に入っていきます。「ノロ」とは琉球時代の女性神職の役職で、「供のかね」とは、今帰仁ノロのお供の神職のこと。つまり、ここはそのお供の方の屋敷跡で、火の神の祠のみが静かに残されていました。

 

今帰仁ノロ殿内火の神の祠

今帰仁ノロ殿内火の神の祠

更に「この道あってんの?」と不安になりながら進むと、もうひとつの火の神の祠に出会いました。今帰仁ムラ,親泊ムラ,志慶真ムラの祭祀を司ったノロの屋敷後の火の神の祠です。屋敷はなくとも祠は残る。

 

今帰仁城

今帰仁城

ようやく辿り着いた今帰仁城。手前の荒々しい岩盤と雨に燻る奥に霞む石垣が神秘的。いろいろ立ち寄りながらなので、ハンタ道入口から40分ぐらいかかりました。

 

城歩き

はい、ここからが城歩きスタートです。ハンタ道から登ってきたおかげ(?)で、外郭の石垣から堪能できました。

 

外郭石垣

今帰仁城外郭

今帰仁城外郭石垣

今帰仁城石垣

野面積みの原始的な石垣が蛇行しながら続いています。石垣はさほど高くないので、外部との境界だったのでしょう。石は硬い古生代石灰岩であり、アンモナイトの化石が展示されていました。

 

今帰仁城

今帰仁城

外郭内から大隅(ウーシミ)郭方面を眺めます。2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産リストに登録されました。

 

平郎門

平郎門

平郎門は今帰仁城の正門にあたり、1962年に再建されました。豪快な一枚岩の天井が印象的ですが、当時は岩の天井はなく、櫓が乗っていたようです。奥の階段と少しずれているのは、工事途中に見つかった根石に合わせて再建したからとのこと。

 

大隅(ウーシミ)

大隅(ウーシミ)

大隅(ウーシミ)

門をくぐって左にある郭が「大隅(ウーシミ)」。黒い岩盤が露出していて、草木の緑との対比が本当に美しい。馬の訓練場だったと推定されています。

カーザフ

カーザフ

門をくぐって少し進んだ右側は、“水のある谷間”を意味する「カーザフ」。草ぼうぼうですが、堀のような役割を果たしていました。

 

七五三の階段

七五三の階段

3段・5段・7段の繰り返しの石段です。1959年(昭和34年)に造られました。この石段を上ってもいいのですが・・・

 

旧道

旧道

石段の右方には当時の登城道(旧道)があります。北山王の居城の登城路がこの狭い石段だったのも凄いな。防御優先ってことでしょうか。

 

大庭(ウーミャー)

大庭(ウーミャー)

階段を登りきると、祭祀を行った広場「大庭(ウーミャー)」が広がっています。奥に見える碑は、北山王の側室だった志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑です。

 

御内原(ウーチバル)

御内原(ウーチバル)

大庭から北に向かうと、女官の生活の場所と伝えられる「御内原(ウーチバル)」。高台の郭なので見晴らしが抜群。

 

大隅(ウーシミ)方面

大隅(ウーシミ)方面

先程訪れた大隅(ウーシミ)を見下ろせます。こっちから攻めるのは大変だ。

 

志慶真川方面

志慶真川方面

城の東側には志慶真川が流れており、断崖絶壁となっています。ちなみに、城内には井戸が無いので、志慶真川まで水を汲みに降りたみたい。こりゃ、当時の人は大変だ。

 

主郭

主郭

御内原の先の主郭には城主の住居がありました。主郭は元々岩山の頂上部だったため、山頂は削って平らにし、斜面には土留めの石を積み、内側に版築することで平地部分を造りました。まさに汗と涙の城作りです。

 

志慶真門郭(しじまじょうかく)

志慶真門郭(しじまじょうかく)

志慶真門郭(しじまじょうかく)は主郭の南東にある郭で、裏門や側近の住居がありました。蛇行する石垣が万里の長城みたいですね。

 

志慶真門跡今帰仁城 志慶真門跡

志慶真門郭には城壁が崩れているところがあります。実は裏門の跡で、志慶真ムラに続いていました。

 

主郭東側の石垣崩落

志慶真門郭(しじまじょうかく)

2018年(平成30年)の台風で主郭東側の石垣が崩落しました。その影響で志慶真門郭は立ち入り制限されていました。以前は杭のある住居跡まで歩いて行けたのにな。残念。

 

感想

うねうね蛇行する壮大な石垣が素敵な城跡でした。また、ゴツゴツとした岩盤の黒と草木の緑の対照がキレイでした。美ら海水族館とセットでぜひ訪れてみてください。

 

会津若松城(福島県会津若松市) 白虎隊の悲劇を生んだ戊辰戦争の舞台の城

戊辰戦争で攻城戦が繰り広げられた会津若松城。白虎隊の悲劇でも有名です。城は壮大な堀と堅固な石垣で囲まれており、白亜の天守がとても美しかったです。

日本100名城

2019年11月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

会津若松城の前身は南北朝末期に葦名直盛が築いた黒川城です。以後蘆名家の居城として拡張されましたが、1589年に摺上原の戦い伊達政宗に大敗し、蘆名義広常陸に敗走しました。これにより会津は伊達家の支配下となりましたが、惣無事令に反していることを理由に豊臣秀吉に没収されました。

1590年に伊勢松坂から蒲生氏郷が42万石で入封し、城下町の構築と同時に近世城郭として大改修されました。この時、7重の天守が建てられました。しかし、1595年に氏郷が40歳の若さで病没すると、その3年後に息子の秀行は宇都宮に移封されました。

1598年に越後高田から上杉景勝が120万石で入封しました。しかし、1600年の関ケ原合戦後、米沢に30万石で転封になりました。まあ、家康の会津征伐が関ケ原合戦の引き金になりましたしね。

1601年に蒲生秀行が再び会津に60万石で入封しますが、11年後に30歳の若さで病没。子の忠郷も25歳で亡くなり、蒲生家は断絶しました。

1627年に松山から加藤嘉明が40万石で入封しますが、4年後に死去し、息子の明成が跡を継ぎました。明成は天守を5重に改築、西出丸と北出丸を増築しました。しかし、重臣との争いがきっかけで、加藤家は石見1万石へと大減封されました。

1643年に2代目将軍・徳川秀忠庶子である保科正之が山形から23万石で入封しました。正之が1672年に亡くなると、その子正経、ついで正容が跡を継ぎ、正容の代に松平の姓与えられました。以後、松平家が9代続きました。

歴代の城主が大物ばかりで、いかに会津の地が重要視されたか分かりますね。

 

戊辰戦争

幕末の1852年に松平容保が9代藩主となり、1862年には京都守護職を命じられ、京都の治安維持に努めました。このことにより、尊王攘夷派から恨みを買うことになりました。

1868年1月にに鳥羽・伏見の戦い幕府軍薩長連合に大敗し、容保は朝敵とされ、新政府軍から標的とされました。東北諸藩は奥羽列藩同盟を結び新政府軍に対抗しましたが、次々に敗北し、8月には会津若松城を包囲されました。孤立無援の中で耐え抜きましたが、ついに1ヶ月後に開城しました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR郡山駅から磐越西線で快速で65分、会津若松駅下車。会津若松駅から、まちなか周遊バス「イカラさん」で20分、鶴ヶ城入口で下車。

会津若松は内陸部にあるので、東京・大阪からは少し行き難いです。駅からは、まちなか周遊バスの利用が便利です。一日乗車券もありました。

 

城歩き

縄張り図

会津若松城 縄張り図

会津若松城は、本丸の北と西を出丸で、東を二の丸で囲まれています。南には湯川が流れており、天然の防御となっています。

イカラさん」で鶴ヶ城入り口で下車し、大手門のある北出丸から入城しました。

 

北出丸

会津若松城 北出丸

北出丸は加藤嘉明により、本丸防御のために造られました。小規模だと馬出しですが、これほどの大きさは出丸と呼ばれます。

 

北出丸大手門跡

会津若松城 北出丸大手門跡

会津若松城 北出丸大手門

内部は枡形になっており、石垣が巨大な切石で積まれています。この大手門を攻める敵に対して、北出丸・本丸・二の丸の三方から攻撃できる縄張りになっています。北出丸の別名は「みなごろし丸」。

 

太鼓門跡

太鼓門跡

北出丸から本丸に向かう椿坂を上ると、太鼓門(大手門)が立ちはだかります。太鼓門を抜けると、帯曲輪に出ます。

 

武者走り

武者走り

これは太鼓門の枡形裏の武者走り。素早く石垣に上れるようにV字型に階段が築かれています。

 

天守(復元)

天守

帯曲輪から見上げる白亜の天守。造りは5重5階の層塔型であり、この圧倒的な存在感は感動もの。

 

天守

天守台

天守台の石垣は野性味溢れる野面積みです。蒲生氏郷時代のものになります。

 

表門(復元)

鉄門

帯郭から本丸へと通じる表門。扉と柱が鉄板で覆われていることから、鉄門(くろがねもん)とも呼ばれます。

 

天守

天守

本丸から眺める天守と走長屋。厳しい冬の寒さに耐えられるように釉薬が塗られた赤瓦が使用されており、白と赤の対比が美しい。1648年頃に保科正之が赤瓦に葺き替えとされ、2011年(平成23年)に当時に合わせて黒瓦から赤瓦に葺き替えられました。

本丸御殿 大広間跡

大広間跡

現在はただ芝生が広がるのみですが、かつては本丸御殿が建てられていました。太平洋戦争後の一時期、なんと競輪場が設けられていました。

 

天守からの眺め(小田山公園方面)

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天守内には戊辰戦争関連の資料が多数展示されています。
会津若松城会津盆地の南東隅に位置しており、新政府軍は城の南東にある小田山から激しい砲撃を加えました。時代が進み、大砲の射程範囲に入ってしまったんですね。

走長屋・鉄門・南走長屋・干飯櫓

走長屋と鉄門

本丸と帯曲輪を隔てる鉄門と走長屋。南走長屋と干飯櫓は2001年(平成13年)に再建されました。ちなみに走長屋内部は土産物売り場になっています。

 

北出丸方面

北出丸

先程通ってきた太鼓門跡と北出丸方面。枡形の石垣がまるでブロックみたい。

 

西出丸方面

西出丸

現在西出丸は駐車場になっています。後で行ってみましょう。

 

帯曲輪からの天守

天守

天守から下りて再び帯曲輪へ。ここから見上げる天守も映えますね。

西出丸

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西出丸

西出丸にも行ってみました。現在は駐車場になっていますが、しっかり石垣で囲まれていました。

廊下橋門跡

廊下橋門跡

廊下橋門跡

廊下橋

帯曲輪から二の丸へは、廊下橋門跡の枡形を通ります。加藤明成の改修まではこちら側が正門であり、有事の際にはこの廊下橋を落とす仕組みになっていました。

 

高石垣

高石垣

廊下橋付近の高石垣はこの城の見どころのひとつです。水面からの高さは20mを超え、圧倒されること間違い無し。

 

二の丸跡

二の丸

つい最近までテニスコートがあったみたい。現在は芝生で立ち入り禁止ですが、芝生の先に土塁が見えます。

 

二の丸東門跡

二の丸東門跡

二の丸と三の丸を繋ぐ門跡です。当初はこちら側が正面口でした。

 

 二の丸の土塁と堀

二の丸堀

二の丸堀

二の丸の門周辺は石垣で固めていましたが、二の丸の大半は土塁でした。東北の城って感じですね。

三の丸の南門土塁

三の丸土塁

三の丸には県立博物館や競技場が建てられ、城の面影が少ないのですが、南門の土塁がわずかに残っています。

感想

なんといっても、白亜の天守が素敵すぎます。縄張りもよく考えられていて、一ヶ月の籠城に耐えたのも理解できます。堅固な枡形石垣と廊下橋周りのの高石垣は必見です。

村上城(新潟県村上市) 新潟県最北端の石垣の城

新潟県の最北端のにある村上城。縄張りは山城部と山麓部 に分かれており、山城部には東日本では珍しい石垣が残っています。三面川(みおもてがわ)には鮭が上り、村上藩の貴重な財源でした。

「鮭と酒と情けの街、むらかみ」

日本100名城

2019年11月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

村上城は市内の臥牛山にあり、本庄氏によって室町時代に築かれたのが最初と言われています。

1598年の上杉家の会津転封に伴い、堀秀治の与力である村上勝頼が加賀小松から12万石で入封し、近世城郭として石垣や櫓を築きました。しかし、跡を継いだ養子の忠勝は、1618年に家中の争いを理由に領地を没収されました。

村上家の後には、越後長岡から堀直竒が10万石で入封し、本丸曲輪・二の丸曲輪・三の丸曲輪・新町曲輪を中心とした城郭へと整備しました。しかし、長男直次、孫の直定が相次ぎ亡くなり、1642年に御家断絶となりました。

その後、本多,松平,榊原,本多,松平,間部と目まぐるしく城主が替わり、1720年に大坂城代だった内藤弌信が入封すると、明治維新まで内藤家が治めました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

新潟県の最北端にある村上市は、新潟駅から普通電車で80分、特急で46分ほどかかります。登城口へは東北電力村上営業所を目指して徒歩30分。

駅にはレンタサイクルがありますが、12月から3月まで貸し出し休止です。私が訪問したのは11月でしたが、運悪く全車貸出中で涙を飲みました。

バスなら、まちなか循環バス「あべっ車」で二之町下車。ただ、本数が少なく、日祝は運行していないんで利用しにくいです。

 

城歩き

村上城は山城部と山麓部から成りますが、山麓部の遺構はほとんど残っていません。ななので、早速、臥牛山を登ってみましょうか。駅からは東北電力(株)村上営業所を目指していくといいです。100名城スタンプもありますよ。

 

城主居館跡

村上城 城主居館跡

登城口の城主居館跡。現在は城山児童公園になっています。往時は御殿と櫓が立ち並んでいましたが、今は本当に何も無い・・・

 

一文字門跡

村上城 一文字門跡

村上城 一文字門跡

城の登り口には、正門である一文字門がありましたが、現在は枡形の一部石垣をわずかに残すのみ。

 

七曲り道

村上城 七曲り道

村上城 七曲り道

村上城 七曲り道

登城道はつづら折りになっており、通称「七曲り道」と呼ばれています。息を切らせながら数えていましたが、曲がりが8箇所あるよね。これじゃ「八曲り道」だよ、まったく。とは言うものの、道は歩きやすく舗装がされており、途中にベンチもありました。 

 

四ツ門跡

村上城 四ツ門跡

ヒーヒー言いながら、10分ほどで四ツ門跡に到着。この場所は二の丸と三の丸、七曲り道と搦手道が交差する狭い地を活かし、四方向に門を設け、その上に櫓を建てて防御としました。そんな構造聞いたことないです。

縄張り

村上城の縄張り

四ツ門の北東に三の丸、南西に本丸と二の丸があります。南には村上城の前身である本庄城の遺構が残っており、村上城が中世の山城から近世の城へと変化したのが分かります。

 

三の丸 

村上城 三の丸

北東にある三の丸。調練場跡とありますが、当時は武具蔵があったとのこと。本丸と反対方面なので、人気全くなし。

 

御鐘門跡

村上城 御鐘門跡

二の丸への御鐘門跡。枡形の石垣は切込接ぎで積まれています。

 

出櫓跡

村上城 出櫓跡

御鐘門跡からの敵を待ち構える出櫓の跡。本丸に向かうにはここを通るしか無く、出櫓から狙い撃ちですな。

 

黒門跡

村上城 黒門跡

出櫓の横、大手道と搦手道の合流手前にそれぞれの道を塞ぐように黒門が建てられていました。四ツ門といい、この城は変則的な門が好きですね。石垣崩落・土砂が堆積し、門の正確な位置は不明でしたが、2010年からの石垣調査で判明しました。
 

本丸石垣

村上城 本丸石垣

立派な本丸石垣。石垣の積み方は打込み接ぎ。この山頂でさぞ大変だっただろうに。
 

埋門跡

村上城 埋門跡

埋門は帯曲輪に繋がっていました。今では中世遺構散策コースの出入口になっています。私の本能がこっちには行くなと言っています(体力的に問題あり)。

冠木門跡

村上城 冠木門跡

村上城 枡形

本丸への唯一の入口にある冠木門。外枡形と内枡形が組み合わさっています。

 

天守

村上城 天守台

村上城天守は堀直竒によって、1620年頃に建てられました。詳細は不明ですが、正保城絵図では、3層白亜の天守が描かれています。その後に入城した松平直矩によって1663年に改築されましたが、1667年に落雷によって焼失しました。

 

本丸から出櫓跡

村上城 出櫓跡

本丸から出櫓跡を見下ろすと、ブルーシートが痛々しいですね。村上城地震や大雨の被害を度々受けており、修復箇所が多い印象を持ちました。続日本100名城に認定されたこともあり、保全が進むといいのですが。

 

本丸からの眺望

村上城からの眺め

村上城からの眺め

この日は秋晴れで、城跡からの眺望が本当に素晴らしかった。海の向こうに蜃気楼のように微かに見えるのは佐渡ヶ島。城下を流れる三面川は鮭の遡上で有名です。ぜひ晴れた日に登城してこの景色を味わって欲しい。

 

城下町歩き

鮭の「きっかわ」

鮭のきっかわ

 

きっかわの鮭

城下の「きっかわ」 の吊るし鮭。塩引き鮭が売っており、吊るされた鮭を見学できます。

 

茶の「九重園」

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村上市新潟県北端にあり、茶の生産地としては最北に位置しています。約400年の歴史があり、市内には立派な茶所が点在しています。

 

感想

本丸からの城下の眺めがとにかく最高でした。地元の方も城登りしているようで、おばちゃんが「あれが佐渡だよっ」と親切に教えてくれました(笑)。

対照的に山麓の遺構に乏しく。もっと残っていてもおかしくない気がします。何でですかね?

街にも見どころ(イヨボヤ会館や酒蔵)が沢山あるので、ぜひ訪問してみてください。

新発田城(新潟県新発田市) 自衛隊と3尾の鯱

北国らしい海鼠壁の美しい新発田城。三重櫓は全国でも珍しい3尾の鯱を載せています。ただ、敷地の大半が自衛隊の駐屯地で立ち入りできないのが残念。これが本当の戦国自衛隊か?

日本100名城

2019年11月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

豊臣秀吉の命により、1598年に上杉家は越後から会津に転封になりました。

代わりに越後に入封した堀秀治の与力大名として、溝口秀勝が蒲原郡に6万石で入部しました。秀勝は領内最北端の新発田に城を築き、以後270年余り12代藩主直正で廃藩置県に至りました。ずっと藩主が変わらなかった珍しいお城です。

 

交通アクセス

行きやすさ: ★★★★

新潟駅から新発田駅まで電車で40分弱。新発田駅から徒歩25分。

城下町らしく何度か道を曲がる必要があり、地図がないと迷うと思います。駅のレンタサイクル利用がお薦めです。

 

城歩き

新発田城城郭図

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近世初期城郭としては珍しい平城であり、五角形の本丸を二の丸が囲み、二の丸南に三の丸が置かれる縄張りでした。当時は湿地に囲まれており、別名「菖蒲(あやめ)城」とも呼ばれました。

現在、二の丸・三の丸の堀は埋め立てられており、本丸の半分と二の丸北部を自衛隊が駐屯しております。

 

土橋門跡

新発田城土橋門跡

二の丸から本丸に入るには、一旦この土橋門を通って帯曲輪に入る必要があります。

よく写真で見る新発田城は石垣と櫓ですが、実際は本丸の一部を除いて土塁の城でした。

 

旧二の丸隅櫓

新発田城 旧二の丸隅櫓

海鼠壁がきれいな隅櫓。元は二の丸にありましたが、1960年(昭和35年)に本丸鉄砲櫓跡に移築されました。新発田城で唯一の現存櫓になります。

 

本丸表門

新発田城 本丸表門

現存する表門。石垣塁線から一間(約1.8m)ほど奥まって建てられており、相横矢がかかるようになっています。新発田城に入城できるのは4月から11月まで、冬季は入城できないので要注意。雪国ならではですね。

ボランティアガイドの方もいらっしゃって、なんとも和む雰囲気です。

 

辰巳櫓(復元)

新発田城 辰巳櫓

明治の廃城令で取り壊された辰巳櫓ですが、2004年(平成16年)に古写真他を元に木造で復元されました。この櫓は海鼠壁では無いんですね。

本丸表門内部

新発田城 本丸表門
新発田城 本丸表門内部

本丸表門は内部が公開されています。がらんと広いです。前面の石落としが印象的。
 

旧二の丸隅櫓内部

新発田城 旧二の丸隅櫓入口

新発田城 旧二の丸隅櫓内部

先程見かけた旧二の丸隅櫓にも入ることが出来ます。余計な展示はなく、櫓内は石落としも無くてシンプルです。

 

辰巳櫓内部

新発田城 辰巳櫓内部

こちらは復元された辰巳櫓内部です。柱の木が真新しく、照明が明るいですね。

自衛隊駐屯地

辰巳櫓入口からの自衛隊駐屯地の眺め。本丸の半分は駐屯地に占められており、境目には塀が建てられています。明治以降、城跡に軍が駐屯した例は多々ありますが、現在まで続いているのはこの城くらいです。そういう意味では貴重かも?

御三階櫓(復元)

新発田城 御三階櫓

本丸から出て、堀沿いに天守代用であった御三階櫓に向かいます。御三階櫓は2004年(平成16年)に辰巳櫓とともに木造で復元されました。海鼠壁がとてもきれいです。ただ、屋根上の鯱の向きがなんだかおかしい???

御三階櫓(復元)

新発田城 御三階櫓

実は最上階がT字型の入母屋屋根になっており、3尾の鯱が載っています。どうしてこのような特異な構造なのか不明だそうですが、この城以外では見かけることは無い貴重な構造です。

非常に残念なのが、駐屯地内にあるため内部に入ることが出来ません。上手にルートを設置できれば、観光の目玉になるのに惜しいな。

 

感想

本丸以外の遺構は少なく、その本丸も自衛隊駐屯地とあって惜しい印象でした。ただ、復元された御三階櫓が美しく、現存する表門や隅櫓の内部に入れるのも良かったです。ボランティアガイドの方たちも楽しそうで、愛されているお城でした。

 

米子城(鳥取県米子市)  ツイン天守がそびえ立っていた城

中海に面した湊山とその麓に築かれた米子城。往時には山頂にツイン天守がそびえ立っていましたが、廃城後に薪代わりに燃やされたという悲しい話が伝わっています。近年改めて調査と整備が進み、登り石垣や竪堀が発見されました。今後要注目の城です。

日本100名城

2019年11月登城

満足度:★★★★★

 

歴史

米子城伯耆の拠点として、1591年に毛利家の重鎮吉川広家によって工事着工されましたが、関ケ原の合戦後に広家は岩国に改易になりました。この時点で7割方完成しており、4重天守が建っていました。

吉川広家に代わって、駿府から中村一忠伯耆18万石で入封しました。この時まだ11歳であり、徳川家康の命で叔父の横田内膳村詮が執政家老として、米子城を完成させました。このとき5重天守も建てられました。

このように辣腕を振るった村詮ですが、1603年に安井清一郎や天野宗杷らの対立する家臣と一忠に謀殺され、横田一族が飯山に立て籠もるという事件が起きます(横田事件)。松江藩の助力を得て鎮圧しましたが、家康の命により安井ら側近は処罰され、1609年に20歳という若さで一忠が急死して中村家は断絶しました。

1610年に美濃黒野から加藤貞泰が米子6万石で入封しました。伯耆18万石は分断されちゃった訳ですね。

1617年に加藤貞泰伊予国大洲に転封し、池田光政因幡伯耆32万国を領しました。光政は鳥取城に入ったため、米子城には重臣の池田由之が入り、その後は家老の荒尾家が城を預かりました。一国一城令の特例となります。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR米子駅から登城口まで15分。そこから山頂の本丸まで15分くらい(個人差あり)。米子空港利用の人は米子駅までは行き易いです。ただ、山道の上りはありますが・・・

 

城歩き

この日の天気はとても不安定で、晴れたと思ったら突然雨が降ったりと大変でした。

 

米子城縄張り

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中海に面した湊山山頂に本丸と内膳丸があり、麓に二の丸と三の丸がありました。現在二の丸にはテニス場、三の丸には野球場があり、三の丸・飯山を囲んでいた内堀は完全に埋め立てられ、武家屋敷を囲んでいた外堀もわずかにしか残っていません。

 

枡形入口

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湊山と飯山の間にある枡形から本丸に向かいます。当時もこの入口には門は構えられていませんでした。

 

二の丸表門跡 

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二の丸の入口であり、冠木門と二重櫓を配していました。枡形の広さといい、表門の石垣といい、非常に立派です。松江城の大手門入口を思い浮かべました。

 

小原家長屋門(移築)

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外郭にあった武家屋敷の小原家長屋門が移築されていました。ちなみに門の先はテニスコートで行き止まりです(笑)

 

麓の道

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このテニスコートのある場所が二の丸で、かつて御殿や武器庫がありました。色々事情はあるのでしょうが、なぜここにテニスコートを作ったのか・・・

  

登り口

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ここが二の丸からの登り口です。逆光ですが、上方に本丸石垣が見えますね。ああ、あそこまで登るのか・・・

 

登山道

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楽とまでは言わないけど、石段がきちんと整備されていて登りやすい。

案内板

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運命の分かれ道。まずは出丸の内膳丸を目指しましょうか。

 

内膳丸入口

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湊山には2つの頂があって、内膳丸は北の頂に築かれました。

 

内膳丸

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内膳丸は本丸の北に位置し、出丸の役割を果たしました。郭内は結構広く、手前の下段と奥の上段に分かれています。多分誰も利用しないだろう(失礼!)休憩場がありました。内膳丸の名の由来は、この郭を築いたとされる家老の横田内膳正村詮の名から。源五郎丸みたいなものか?(いや違う)

 

登り石垣

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内膳丸から分岐点に戻る途中に見かけた登り石垣。江戸時代の絵図にも描かれていましたが、2017年に存在が確認されました。登り石垣とは、山の斜面に縦方向に石垣を築くことにより、敵の横移動を阻害する石垣です。秀吉の朝鮮出兵時の倭城に導入され、国内では彦根城松山城等の数例しかありません。そう言えば、米子城を築城した吉川広家も朝鮮に出兵していました。

 

石段と番所

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本丸に向かって更に上っていくと、突如現れる石垣。往時には番所があり、本丸の出入りを見張っていました。

番所跡からの竪堀

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番所跡からは竪堀を見下ろすことが出来ます。竪堀は斜面を登るように掘られた空堀で、敵兵の横移動を遮断するのを目的とします。先の登り石垣と対になり、麓の二の丸をハの字の防御線で守っていたと考えられています。2017年度の調査で見つかりました。

 

4段石垣

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番所跡からの4段石垣。奥に見えるのが大天守台。山頂にこんな石垣があるなんて信じられません。これだけみたら、まるでどこかの古代遺跡みたい。

 

天守台石垣

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更に進むと圧巻の小天守台石垣。ここには吉川広家によって4階の天守が建てられていました。天守台の石垣がなんだか新しいのは、幕末に豪商鹿島家の負担で積み直しされたため。

 

鉄御門跡 

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本丸入口は枡形になっており、鉄板が貼られた門が建っていました。これまた山頂にあるとは思えない立派な石垣です。

 

天守

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中村一忠(実務は家老の横田村詮)によって、この天守台には4重5階の大天守が建てられていました。大天守と小天守は連結しておらず、互いに独立していました。わざわざ別に天守を建てたのは、吉川家の後に入った中村家の見栄と意地なのか?

 

中海方面

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米子城は南西が中海に面しており、麓には船着き場もありました。先の登り石垣は海側からの防御用に築かれており、海を重視した縄張りでした。

 

飯山

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この飯山も采女丸(うねめまる)として縄張りに組み込んでいました。横田事件の際には横田一族が立て篭もったとされています。

天守

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天守と小天守は独立して建っていました。よく見るときちんとした正方形になっていないのは、もとが古い時代に積まれた石垣だから。

 

水手御門下郭の位置

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2015年度の調査で水手御門の下に郭が発見されました(案内図の赤丸部分)。ちょっと覗いてみてみましょう。

 

水手御門跡

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水手御門は海方面に抜ける搦手口にあたります。この石垣はかなり荒々しくて素敵。ただし、立入禁止のテープあり。

 

水手御門下郭

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尾根に並行して築かれた上下二段の郭です。石垣はかなり崩れており、築城初期の段階で放棄されたと推測されています。2015年度の調査で見つかりました。

 

八幡台郭の位置

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2015年度の調査で本丸の南に郭が発見されました(案内図の赤丸部分)。ちょっと寄り道しましょう。

鉄御門と小天守

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本丸から南に向かって下ります。

八幡台郭

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築城時に築かれた郭であり、2015年度の調査では、野面積の石垣や幕末の小天守改修工事の際の切石やかけらが見つかりました。

 

裏御門跡

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帰りは裏御門跡から出ました。駐車場があるので、車の方はこちらからの登城になります。二の丸の石垣も見えますが野球場があるので近寄れません。残念。


感想

見応えのある城でした。本丸の石垣が見事で、天守台からの眺めが本当に素晴らしい。米子市もやる気を見せていて、登り石垣や竪堀の遺構も発見されました。惜しむらくは、現地にもう少し案内板があった方が親切かと思います。

日本100名城でもおかしくない城です。