石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

二条城(京都府京都市) 大政奉還が行われた二の丸御殿

徳川幕府終焉の大政奉還の舞台になった二条城。国宝の二の丸御殿は当然として、他にも見どころも沢山ありました。天守台があるって知ってました?

日本100名城

 2019年10月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

1601年、徳川家康は上洛した際の宿泊にあてるため、西国諸大名に京都二条への築城を命じました。1603年2月に家康は伏見城にて征夷大将軍の宣下を受け、翌3月には竣工間もない二条城から天皇のもとに参内しました。ただこの時点では、現在の二の丸部分のみの単郭式の城郭でした。

1619年、2代将軍秀忠の娘和子の入内が決まり、大規模な増築工事が行われました。翌1620年に和子は二条城から後水尾天皇に輿入れしました。

1626年には3代将軍家光が後水尾天皇行幸を迎えるために大改修を行い、本丸を二の丸が囲む現在の縄張りが完成しました。

家光の上洛後、久しく将軍の訪れることのなかった二条城ですが、幕末の動乱時には14代将軍家茂が230年振りに上洛しました。そして、1867年には15代将軍慶喜が二の丸御殿大広間に重臣を集めて大政奉還の意思を表明し、徳川幕府265年間の歴史に幕が閉じました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

光都市京都にある二条城はアクセス抜群ですが、バスか地下鉄を利用するのが個人的にお勧めです。二条城の入口は一箇所しかないので、JRだと駅から大回りになってしまいます。

・京都駅から市バス「1上賀茂神社行き」「50立命館大学行き」「101金閣寺行き」「111金閣寺行き」に乗車し、二条城前下車。約15分。

地下鉄東西線「二条城前」駅下車。1番出口から徒歩3分。

・JR「二条」駅下車後、徒歩15分。ちょい遠い。

 

城歩き

地下鉄の二条城前駅から歩いて東大手門に向かいました。北大手門と西門もありますが、現在入城出来るのは東大手門のみとなります。

 

東南隅櫓

二条城 東南隅櫓

地下鉄から向かうと一階屋根に千鳥破風の付いた東南隅櫓がお出迎え。この城に2つ残った櫓の一つです。

 

東大手

二条城 東大手門

豪華絢爛で威圧感のある東大手門。現在の姿の櫓門は1662年の地震後に建て替えられたものになります。もともと家康の築城時は櫓門でしたが、後水尾天皇行幸の際に櫓門の2階が失礼にあたると云う理由で薬医門に建て替えられ、再び櫓門に戻されました。外観は立派だけど苦労しているんですね(笑)

 

縄張図

二条城 縄張図

本丸が二の丸で囲まれた輪郭式の縄張りで、南北がほぼ対称になっています。東大手門から唐門を通って二の丸御殿に向かうのが標準的なルートです。

 

唐門 

二条城 唐門

二条城 唐門

二の丸御殿の正門にあたる唐門。唐破風や極彩色の彫刻が日光東照宮を思わせます。徳川の城なのに葵の紋ではないのは、明治維新後に二条離宮になったから。菊は皇室の紋ですもんね。

 

二の丸御殿

二条城 二の丸御殿

国宝の二の丸御殿。残念ながら撮影禁止ですが、華麗な障壁画と欄間の彫刻に目を奪われました。一の間・二の間では、ここが大政奉還の舞台になったのかと、思わずジーンときました。ただ、メチャクチャ混んでいて、鶯張りの音がよく分からなかったのが残念。

 

本丸櫓門

二条城 本丸櫓門

不細工な櫓門だと思ったら(失礼!)、かつては橋廊下と二階廊下がありました。橋廊下は1687年に撤去されましたが、二階廊下は1930年(昭和5年)まで残っていたそうです。残念。

 

天守

二条城 天守台

二条城 天守台

天守台は本丸の南西部にあり、伏見城から移築改造された天守が建っていましたが、1750年の落雷で焼失しました。今は天守台が残るのみ。

本丸西出口

二条城 本丸西出口

本丸西出口はクランク状の虎口になっており、厳重に防御されています。

 

天守

二条城 天守台

西橋からの天守台。二条城は本丸を囲む内堀のほうが外堀より広いんだよね。

 

旧二条城石垣

旧二条城石垣

1569年に織田信長が 築いた城の石垣が移築されています。地下鉄烏丸線建設の事前調査の際に京都御苑の西で発掘されました。

 

土蔵南

二条城 土蔵南

米を収納する土蔵です。二条城には3棟の土蔵が残っており、この土蔵は北の土蔵と対になっています。 ただ、付け根の漆喰が剥がれ落ちかけてて大丈夫かな。

 

北中仕切門

二条城 北中仕切門

1625~1626年頃に建てられた、二の丸を東西を分ける門になります。本丸を挟んだ反対側には、南中仕切門が設けられています。 

 

 

この後、東大手門から外に出て、二の丸の堀沿いを反時計回りに歩いてみました。なるほど、東大手門周辺以外は石垣の上に土塁が盛られているんですね。

 

北大手門

二条城 北大手門

東大手門より渡り櫓が少し小さい北大手門。現在は通行出来ないので、残念ながら地味な存在です。

 

散策路

二条城散策路

北西には散策路もありました。間近に堀と石垣を眺めることが出来ます。「ほら貝演奏禁止」の注意書きには驚きました。

 

西門

二条城 西門

1626年頃に建てられて、通用口として使われていました。当時架かっていた木橋は明治に失われました。 徳川慶喜大坂城へ移動する際、この西門から出ていったそうです。寂しいね。

 

西南隅櫓

二条城 西南隅櫓

1626年頃に建てられた隅櫓です。この櫓には一階屋根に唐破風が付いていますね。

 

南門

二条城 南門

これも江戸時代に建てられたのかと思ったら、1915年(大正4年)の大正大礼の際に天皇の入口として造られました。

 

感想

やはり歴史の重みを感じさせてくれる国宝の二の丸御殿はすごい(撮影禁止だけど)。ただ、天守台や大手門もしっかり残っていて、意外と重要文化財の建物が残っています。城好きとしても十分堪能出来ました。

 

松坂城(三重県松阪市) 蒲生氏郷が築いた石垣に感動

松阪牛で有名な松阪にある松坂城。戦国武将の蒲生氏郷によって築かれたその城は、野面積みが主体の豪壮な石垣が特徴です。天守等の建物はありませんが、石垣好きはぜひ訪問してみてください。

日本100名城

2019年6月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

1584年に豊臣秀吉から南伊勢を賜った蒲生氏郷は松ヶ島城に入りますが、海岸寄りで手狭なことから、四五百森(よいほのもり)に新しく築城を開始しました。

1588年に氏郷は完成した城に移り、城下の地名を「松坂」と改めました。城下町を整備するとともに、伊勢大湊や旧領地の日野から有力な商人を誘致したことから、のちに豪商の町と云われる松阪の礎を築きました。三井家発祥の地でもあります。

1590年に氏郷は会津に転封し、代わりに服部一忠が入封するも豊臣秀次事件に連座して切腹、1595年に古田重勝が入封しました。

1619年に古田家は石見に転封し、以後紀州藩領となり、城代が置かれました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR・近鉄松阪駅から徒歩15分。のんびり歩いて行ける距離です。駅前にはタクシーもあるので、大人数だと便利です。

 

城歩き

松坂城縄張り

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天守を置く本丸上段、一段下に本丸下段ときたい丸があり、南西に二の丸と隠居丸が築かれています。更に丘陵を囲むように三の丸と土塁や堀が築かれていましたが、現在はほとんど残っていません。それは少し残念。

 

表門跡

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大手筋が当たる表門入口は枡形になっており、この高石垣に圧倒されますね。 

 

二の丸方面

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表門を抜けると本丸下段の石垣に突き当たり、左に曲がると二の丸に出ます。

 

本丸下段方面

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右に曲がると本丸下段への道となります。写真正面に見えるのは松阪市歴史民俗資料館です。

 

きたい丸石垣

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野面積みのきたい丸高石垣。こっち方面を進んでも本丸には入れません。きたい丸の由来は、3人目城主の古田重勝の息子の幼名「稀代丸」から。

 

助左衛門御門(表二の門)跡 

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本丸下段ときたい丸への入り口の助左衛門御門跡。右に鐘ノ櫓、左に遠見櫓が睨みを利かす堅固な構えです。

 

本丸上段

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本丸下段から上段への石段です。奥にも上段へのルートがあり、わざわざここに入口を築いた理由が分かりません。本丸上下を行き来する藩主専用だったのかも。

 

本丸上段と天守

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天守台以外は平坦な本丸。実は兵部屋敷跡がありましたが、戦後昭和に配水池が設けられたため、屋敷の遺構は消滅しました(配水池は平成に撤去)。

北西と南東に敵見櫓と金の間櫓があり、かつては多門櫓でぐるっと繋がっていました。金の間櫓にはなんと金箔を貼った黄金の間があったそうで...、すごい。

 

天守台上

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かつては3重天守と付櫓が建っていましたが、1644年台風で倒壊し、その後再建されませんでした。現在はきたい丸への石段がありますが、当時は天守台への直接の階段は無かったようです。 

 

きたい丸からの本丸石垣

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松坂城の石垣は野面積みが特徴ですが、江戸時代に修復された箇所も多く、この隅部の算木積み箇所は明らかに新しいですね。
NHKの城の石垣保全の特集をたまたま見た際、松阪市松坂城のすべての石垣について状態を調べて管理していると知り、大変だなと感じたことを思い出しました。

 

きたい丸石垣

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隅櫓跡からの眺めです。石垣には無粋な(?)柵等はありませんので、際から下を眺めることが出来ます。高所恐怖症の方は注意!

 

中御門(裏二の門)跡

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本丸から中御門跡を通って裏門へと下ります。本丸を守る門だけあって、堅固な枡形が築かれています。

 

裏門跡

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裏門も枡形になっており、天守までに枡形が4度も続くという搦手とは思えない厳重さです。松坂城はつくづく戦のための城だったんですね。

感想

野面積みの石垣がとにかく凄かったです。石垣の保存修理工事を15年かけて実施するなど、市の努力には頭が下がります。次は隠居丸にある本居宣長旧宅もぜひ見学したいです。

 

田丸城(三重県度会郡玉城町) 伊勢神宮の宿場町の城

かつて伊勢神宮の宿場町として賑わった玉城町には、南北朝時代に築かれた田丸城がありました。大手門から本丸までにいくつもの虎口が残っています。現在三の丸には中学校があり、部活中の学生が元気に挨拶してくれました。

日本100名城

 2019年6月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

南北朝時代南朝軍の拠点として北畠親房に築かれたのが始まりです。

田丸城が近代的な城郭になるのは、織田信長による伊勢攻めの際、次男信雄を北畠氏の養子にして伊勢支配を任せたときでした。このときに3重の天守が建てられましたが、1580年に焼失し、信雄は松ヶ島城に移りました。

その後、稲葉道通が入城し、改修するも亡くなりました。江戸時代には紀州藩支配となり、付家老久野氏が城主を務めました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR参宮線の田丸駅から徒歩6分ほど。ただ、電車の本数が少ないので注意してください。

 

城歩き

大手門跡

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田丸駅から途中堀沿いの道を歩いて大手門跡に着きました。現在は正面の石垣が撤去され、直線の道路になっています。

 

田丸城の模型

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大手門先にある村山龍平記念館に展示されていた田丸城の模型。丘の頂部に二の丸・本丸・北の丸が直線上に並び、一段低いところに三の丸、そして丘の周りを堀が囲んでいるのが分かります。ちなみに続100名城のスタンプもこの記念館にありました。

 

二の門跡

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二の門跡は左折れの喰違虎口になっています。現在三の丸には中学校が建っているので、学校をぐるっと廻りながら坂道を上っていきます。

富士見門(移築)

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富士見門は三の丸から二の丸富士見台に向かう門でした。明治初年に入札で私邸に払い下げられたものを1984年(昭和59年)に現在地に移築復元されました。

 

山頂部の虎口

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大手門,二の門に続いて、また虎口。奥に見えるのは本丸と天守台。

 

本丸石垣

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本丸と北の丸の間に出ました。左折して本丸に向かいます。

 

本丸虎口

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正真正銘、やっと最後の虎口です。本丸にはこの虎口からと二の丸からの入口がありました。

 

天守台 

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ぽつんと残る天守台。田丸城にはかつて3重の天守が建てられていました。今残る天守台は稲葉道通が築いたと考えられています。

 

天守台からの眺め

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丘陵の天守台からなので見晴らしが抜群。 一面に広がる空と山と田んぼ。城の南から西にかけて鉄道が通っています。

 

二の丸

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本丸南には二の丸があるので、折角ですから向かってみましょうか。

 

本丸と二の丸間の空堀

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本丸と二の丸は土橋で繋がっています。本丸との間には広い空堀あり。

 

搦手道 

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二の丸からは城下南に抜ける搦手道がありました。

 

本丸石垣と空堀

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先程の空堀は本丸下の帯曲輪に繋がっています。帯曲輪に降りて、本丸を下から見上げてみましょう。

 

本丸石垣 

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田丸城の石垣はほとんどが野面積みです。転用石(石塔等の流用)もありました。ごつごつした自然石ばかりの中で少し浮いてますね(笑)。

北の丸

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最後に本丸北にある北の丸。稲荷神社が祀られていました。土塁がグルっと曲輪を囲んでいます。

 

感想

あまり有名ではない城ですが(失礼)、野面積みの石垣の見応えがありました。城を整備している努力が感じられ、とても見学しやすかったです。そう言えば、大手門から本丸まで階段がなく、良くも悪くもバリアフリーになっていました。

伊勢神宮にもほど近く、続日本100名城にも選ばれたことから、観光客が増えたらいいですね。応援しています。

 

仙台城(宮城県仙台市)  独眼竜政宗の城

かの「独眼流」伊達政宗の居城だった仙台城関ケ原の合戦後に築かれた城は意外にも山城で、特に東と南は断崖絶壁。完全に戦闘向きの城でした。麓から歩いて疲れたよ~

日本100名城

2019年1月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

関ケ原の合戦後、政宗は千代(仙台)に築城を開始し、1603年に岩出山城大崎市)から移りました。仙台城青葉山の上に造られ、南は竜の口渓谷、東は広瀬川によって守られた要害でした。ちなみに政宗は1628年に平地に仙台屋敷(若林城)を築き、晩年を過ごしました。山城は不便だしね。

1638年に2代目忠宗は麓に二の丸を築き、以後政務の中心は二の丸になりました。現在は東北大の川内キャンパスになっていますね。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

・JR仙台駅から観光シティループバス「るーぷる仙台」で22分、「仙台城跡」で下車。ぐるっと一周するので、「仙台城跡」から仙台駅へは48分かかります。時間によってはギューギューです。

地下鉄東西線の国際センター駅から本丸入口(詰の門)まで徒歩15分。途中から坂道で、他に歩いてる人はあまり見かけません(車は普通に通ってます)。

 

城歩き

案内図

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地下鉄東西線の国際センター駅から大手門ルートで城にむかいました。

 

大手門跡

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この広い道路を塞ぐように2階建ての櫓門が建っていましたが、1945年の仙台空襲で焼け落ちました。残念。

 

大手門脇櫓(復元)と門北側の土塀

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大手門脇櫓も空襲で焼失しましたが、1967年(昭和42年)に復元されました。土塀は焼失を逃れ、仙台城で唯一の建築物です。狭間が無いんだな。

 

中門跡

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坂道の途中にある中門跡。道路が大きく湾曲したところに、2階建ての櫓門が建っていました。
 

 

本丸北壁の高石垣

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天然の要害を利用した仙台城において、圧倒的な存在の高石垣。全く隙間なく積まれており、角の部分は特にソリッドさを感じます。本当にこの石垣は凄い。

イメージ図

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詰門から本丸に入ります。イメージ図を観ると、仙台城の堅城さが改めて理解できます。二の丸が三の丸より遠いのが、少し不思議に感じられますね。

 

本丸広場と大広間跡

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本丸が本当に広い。大広間は約430畳の広さだったとのこと。あまりに広すぎて、「何も無い?」という観光客の声もちらほら。


 

伊達政宗

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観光客の9割以上が写真を撮っている伊達政宗像。兜の三日月がとても格好いい!

実はこの像は2代目とのことで、初代は麓の仙台市博物館の庭にあるそうです。残念、見そびれた。

 

土井晩翠

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土井晩翠は仙台出身の詩人・英文学者です。「荒城の月」の作詞者で、仙台城はそのモデルと言われています。

 

石垣下の眺め

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見晴らし抜群。仙台は都会だな。上から見ると、改めて本丸が高い位置にあることを実感します。高所恐怖症の人は無理。

 

巽櫓跡

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本丸をグルッとしてみました。巽櫓は南東部に建てられた三重櫓でしたが、1646年の地震で倒壊しました。実は仙台城って、結構地震の被害を受けています。

 

埋門跡

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ただの山道に見えますが、瓦葺・平屋建ての門が建っていました。外部からは左に曲がって右に曲がる必要があり、防御性の高い構造になっていました。

 

切通

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本丸外部沿いの道路を歩いてみました。谷を削った切通を道路が続いていきます。この道路は歩道が無く、車とすれ違うたびにヒヤヒヤしました。危険危険。

 

酉門跡

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酉門は本丸西側にありました。巽櫓と同じく1646年の地震で倒壊したと考えられています。どんなに大きな地震やねん。



沢門跡

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どんどん下っていきます。このまま下ると大手門跡に至るので、途中の沢門跡で三の丸方面への道に入ってみました。

 

三の丸への道

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道は側面攻撃できるように大きく屈曲しています。ただ、冬の夕暮時は人も車も通らず、少し寂しい。

 

清水門跡

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三の丸への途中にあった清水門跡。2階建ての櫓門が建っていたらしい。名称の由来は、門近辺に御用酒造りに使われた清水が湧いていたことから。

 

造酒屋敷跡

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城内の醸造場所とされる造酒屋敷跡です。城内で酒造りって、どんだけ酒好きやねん(笑)。ちなみに伊達政宗は酒癖が悪かったらしいです。

 

巽門跡出入口

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三の丸の南側には2階建ての門がありました。巽門を通って沢門を抜けるこのルートが築城当初の登城路だったと考えられています。

 

子門(ねのもん)跡

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三の丸北側の子門跡です。かつて2階建ての門がありました。

五色沼

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子門跡を出て左にある五色沼。もちろん当時は堀の役割を果たしていました。

明治時代に第二高等学校生がドイツ語講師ウィルヘルからスケートの指導を受け、その後普及に努めたことから、「日本フィギュアスケート発祥の地」と言われています。そう言えば、メダリストの羽生結弦選手や荒川静香選手は仙台出身でした。
 

感想

関ケ原合戦後に築かれたのにも関わらず、仙台城って山城だったんですよね。独眼竜政宗の野望を感じさせてくれました。石垣好きは本丸北壁の高石垣は必見ですぞ。

 

グルメ

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牛タン専門店の司の牛タン。肉厚でサクッとした歯応え。ジューシーで脂が乗っていてうまい!

 

首里城(沖縄県那覇市)  琉球王国の歴史を物語る城

琉球王・尚巴志の居城であった首里城。太平洋戦争で尽く破壊されましたが、戦後復元され、2000年には世界遺産にも指定されました。観光客の多くが訪れている、那覇のシンボル的な遺構です。

※2019年10月31日の火災で正殿を始めに北殿や南殿等が全焼しました。

日本100名城

2018年12月登城

満足度:★★★★☆

 

歴史

14世紀の琉球では按司と呼ばれる領主が争っており、首里城はその頃には存在していたと考えられています。

1429年に尚巴志が南山・中山・北山に分かれていた三国を統一し、琉球王国が誕生しました。その居城が首里城で、以後琉球王国の王府となりました。本土における江戸幕府江戸城のようなものですね。

琉球王国の時代から、度重なる火災によって焼失・再建を繰り返して来ましたが、第二次世界大戦中の沖縄戦の際に完全に消失してしまいました。

戦後に逐次復元され、2000年には「琉球王国のグスク(城)および関連遺産群」が世界遺産登録されました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

当たり前ですが、本土からだと飛行機か船でしか来れません。ゆいレール首里駅から徒歩15分。首里駅へは空港からゆいレールで30分ほどなのですが、やはり那覇空港までが遠いですよね。

 

城歩き

首里城公園案内図

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首里城は丘陵に建てられており、急崖な南西部には一重、緩斜面部分には2重の城壁を巡らせてあります。首里駅から城壁に沿って、中心にある正殿にむかいました。

 

北西からの石垣

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石垣は隙間なく垂直に積まれており、滑らかなカーブを描いています。サンゴなどの死骸がもとになった琉球石灰岩は加工しやすいので、このような積み方が可能になっています。

 

隅頭石

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隅角部が突起のように丸みを帯びて上を向いています。角には悪い気が集まりやすいので、角をなくし、風当たりを良くするという説があります。ひょっとするとデザイン的なものかも知れませんね。

 

石垣新旧

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首里城沖縄戦で米軍からの艦砲射撃を受け、石垣も大きな損傷を受けました。よく見ると、昔の遺構と復元の境もありますね。

 

久慶門(復元)

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慶門はかつて通用門として使用され、主に女性が出入りしていました。


歓会門(復元)

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首里城は外郭と内郭により二重に囲まれており、歓会門は外郭に入る第一の正門です。つなみに「歓会」とは歓迎するという意味です。両脇の魔除けのシーサーが沖縄らしい。

 

瑞泉門(復元)

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瑞泉門は内郭に構えられた門になります。アーチ門ではなく、城壁が分断されたところに櫓が乗った本土風です。石段下右に湧水「龍樋」あるため、瑞泉門の名がつきました。

 

奉神門(復元)

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正殿のある「御庭(うなー)」へ入る門です。ここから先は入場料が必要で、そういう意味で最後の関門かも。

 

正殿(復元)

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とても鮮やかな朱色。正殿は琉球王国最大の木造建造物でした。過去に4度の焼失と再建を繰り返してきましたが、2019年10月に再度焼失しました。今となっては貴重な写真。

 

御差床

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正殿二階の国王が鎮座した玉座です。さまざまな儀式や祝宴が行われてきました。

正殿の遺構

正殿の遺構

見逃しそうになる地味な展示。正殿は過去に4回の焼失と再建を繰り返しており、これはその遺構です。今回の火災で5回めの焼失になりましたが・・・

 

守礼門(復元)

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首里城外にある守礼門二千円札にも描かれていますね。ただ、二千円札見かけないな(笑)

感想

琉球王国の拠点だけあって、壮大な石垣に囲まれた広大な城でした。再建とはいえ、石垣の立派さが印象的で、本土の城との違いも興味深かったです。沖縄に来るのは大変だけど、空港からのアクセスもいいのでお薦めです。

残念ながら、正殿を始めに北殿や南殿が焼失しましたが、城内の公開が再開されています。微力ながらも応援したいですね。