石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

首里城(沖縄県那覇市)  琉球王国の歴史を物語る城

琉球王・尚巴志の居城であった首里城。太平洋戦争で尽く破壊されましたが、戦後復元され、2000年には世界遺産にも指定されました。観光客の多くが訪れている、那覇のシンボル的な遺構です。

※2019年10月31日の火災で正殿を始めに北殿や南殿等が全焼しました。

日本100名城

2018年12月登城

満足度:★★★★☆

 

歴史

14世紀の琉球では按司と呼ばれる領主が争っており、首里城はその頃には存在していたと考えられています。

1429年に尚巴志が南山・中山・北山に分かれていた三国を統一し、琉球王国が誕生しました。その居城が首里城で、以後琉球王国の王府となりました。本土における江戸幕府江戸城のようなものですね。

琉球王国の時代から、度重なる火災によって焼失・再建を繰り返して来ましたが、第二次世界大戦中の沖縄戦の際に完全に消失してしまいました。

戦後に逐次復元され、2000年には「琉球王国のグスク(城)および関連遺産群」が世界遺産登録されました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

当たり前ですが、本土からだと飛行機か船でしか来れません。ゆいレール首里駅から徒歩15分。首里駅へは空港からゆいレールで30分ほどなのですが、やはり那覇空港までが遠いですよね。

 

城歩き

首里城公園案内図

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首里城は丘陵に建てられており、急崖な南西部には一重、緩斜面部分には2重の城壁を巡らせてあります。首里駅から城壁に沿って、中心にある正殿にむかいました。

 

北西からの石垣

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石垣は隙間なく垂直に積まれており、滑らかなカーブを描いています。サンゴなどの死骸がもとになった琉球石灰岩は加工しやすいので、このような積み方が可能になっています。

 

隅頭石

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隅角部が突起のように丸みを帯びて上を向いています。角には悪い気が集まりやすいので、角をなくし、風当たりを良くするという説があります。ひょっとするとデザイン的なものかも知れませんね。

 

石垣新旧

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首里城沖縄戦で米軍からの艦砲射撃を受け、石垣も大きな損傷を受けました。よく見ると、昔の遺構と復元の境もありますね。

 

久慶門(復元)

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慶門はかつて通用門として使用され、主に女性が出入りしていました。


歓会門(復元)

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首里城は外郭と内郭により二重に囲まれており、歓会門は外郭に入る第一の正門です。つなみに「歓会」とは歓迎するという意味です。両脇の魔除けのシーサーが沖縄らしい。

 

瑞泉門(復元)

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瑞泉門は内郭に構えられた門になります。アーチ門ではなく、城壁が分断されたところに櫓が乗った本土風です。石段下右に湧水「龍樋」あるため、瑞泉門の名がつきました。

 

奉神門(復元)

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正殿のある「御庭(うなー)」へ入る門です。ここから先は入場料が必要で、そういう意味で最後の関門かも。

 

正殿(復元)

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とても鮮やかな朱色。正殿は琉球王国最大の木造建造物でした。過去に4度の焼失と再建を繰り返してきましたが、2019年10月に再度焼失しました。今となっては貴重な写真。

 

御差床

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正殿二階の国王が鎮座した玉座です。さまざまな儀式や祝宴が行われてきました。

正殿の遺構

正殿の遺構

見逃しそうになる地味な展示。正殿は過去に4回の焼失と再建を繰り返しており、これはその遺構です。今回の火災で5回めの焼失になりましたが・・・

 

守礼門(復元)

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首里城外にある守礼門二千円札にも描かれていますね。ただ、二千円札見かけないな(笑)

感想

琉球王国の拠点だけあって、壮大な石垣に囲まれた広大な城でした。再建とはいえ、石垣の立派さが印象的で、本土の城との違いも興味深かったです。沖縄に来るのは大変だけど、空港からのアクセスもいいのでお薦めです。

残念ながら、正殿を始めに北殿や南殿が焼失しましたが、城内の公開が再開されています。微力ながらも応援したいですね。


 

人吉城(熊本県人吉市) 日本では珍しいはね出し石垣

鎌倉時代から相良家の居城だった人吉城。その城は広大で、平城と山城が合体したような城でした。珍しい跳ね出しの武者返しや謎の地下室と見どころも沢山。人吉名物の鰻も美味しかった。

※2020年7月の豪雨水害により大きな被害を受けました。

日本100名城

2018年7月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

鎌倉時代に相良長頼が下向し、平頼盛の家臣 矢瀬主馬佑を討って館に入ったのが、相良家37代700年に渡る統治の始まりでした。

現在の縄張の人吉城は、天正年間(1573~1593年)の末頃から、19代義陽、20代長毎、21代頼寛の3代に渡って築かれ、1639年頃に完成しました。

明治の西南戦争時には西郷軍側につき、人吉は戦いの舞台にもなりました。1860年の城下の大火後、薩摩藩が支援してくれたことへの恩があったからと言われています。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR人吉駅から徒歩20分弱。ただ、球磨川沿いの盆地である人吉までがなかなか行きにくくて困っていました。

・JRの場合は熊本駅から人吉駅まで特急で1時間30分。普通だと八代乗り換えで2時間30分。どちらも本数が少ないので注意。

・バスの場合、 熊本駅前または熊本桜町バスターミナルから人吉ICまで高速バスで1時間40分くらい。鹿児島行きまたは宮崎行きの途中になります。人吉IC下車後、人吉駅前まで人吉周遊バスで12分。

 

城歩き

城の西方の大手口から歩いてみました。この日は昼まで晴れていたのに、午後からスコールのような雨と雷が止まずに困りました。当然のごとく傘なし(笑)

 

 長塀(復元)

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胸川沿いに石垣と長塀が築かれています。瓦を貼った海鼠壁が美しい。

 

大手門跡

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多聞櫓(復元)を傍目に見ながら城内に入ります。 今は直線で入城できますが、当時は枡形の石垣に突き当たり、一旦右に折れてから大手門櫓下を通る鉤形の通路でした。

 

 

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とても広くて驚きました。2万2千石の大名の城とは思えません。つい最近まで市庁舎もありましたが、熊本地震の影響で2018年に解体されました。
 

城模型

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城内にある人吉城歴史館に展示されていた人吉城の模型です。

右側が入ってきた大手口。川に挟まれた平地には屋敷や御殿があり、左の山側には詰城が築かれているのが分かりますね。

 

相良清兵衛の地下室

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また、歴史館内では1997年(平成9年)からの発掘調査で見つかった特殊な地下室を見学することも出来ます。石積みの壁に囲まれており、長方形の貯水池には刀が一振沈められていました。元家老の相良清兵衛の屋敷跡にあり、清兵衛の息子の屋敷跡でも同様の地下室が見つかっています。

莫大な権力を持った清兵衛は藩主の相良頼寛と対立し、幕府の呼び出しを受け江戸に出発した後、残された一族は藩と衝突し全滅しました。(お下の乱)
 

球磨川沿いの城壁

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一旦城外に出て、球磨川に架かった水の手橋から城を眺めます。当時は橋は架かっておらず、球磨川が外堀の役目を果たしていました。

 

水ノ手門跡

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川に面した石垣には7ヶ所の船着場が造られ、水ノ手門はその最大のものでした。年貢米が水運を利用しこの門から城内に運び込まれていました。

はね出し石垣

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幕末の火災後に導入された石垣のはね出し石垣。他では五稜郭やお台場といった西洋式の城郭で見られる珍しい工法です。なぜ、この人吉の地に・・・謎だ。

 

堀合門(復元)

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堀合門(現存)

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堀合門は相良家御殿の裏門です。城跡には2007年に復元されましたが、本物(?)は城下の新宮家に移築されています。人吉城唯一の建物の遺構です。

 

御下門跡 

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三の丸に入る唯一の入口。この石垣には圧倒されますね。

 

石段

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このような石段を登っていきます。山城ですな。

 

三の丸跡

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初夏の田んぼのような芝生の緑がきれい。

 

中の御門跡

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二の丸への入口です。きっちりとした枡形になっています。

 

本丸跡

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本丸には天守は建てられず、後に護摩堂となった屋敷がありました。

 

感想

こんなに広い城とは思っていませんでした。川沿いに海鼠壁の塀があるかと思えば、本丸への道には豪快な石垣もあり、とても堪能できました。謎の地下室にも興味が湧きますね。雨でびしょ濡れで廻った甲斐がありました(笑)

 

観光

青井阿蘇神社

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阿蘇神社の分霊を勧請して創建されました。2008年に国宝指定されました。このときは晴れていたんだよな・・・

永国寺楼門

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西南戦争時に西郷軍の本営が置かれました。別名幽霊寺で幽霊の掛軸があることでも有名です。

 

元湯 

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人吉は温泉でも有名です。温泉銭湯も多数あり、城跡近くの元湯でさっぱり。

 

上村うなぎ屋

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人通りの少ない街で(失礼)、この店だけはめっちゃ活気がありました。肉厚の鰻が美味しかったです。

徳島城(徳島県徳島市)  蜂須賀家と阿波おどり

蜂須賀家25万石の居城であった徳島城天守等の建物は残っていませんが、野面積みの青みを帯びた石垣が特徴です。堀ではクラゲがのんびり浮かんでいました。

「阿波の殿様蜂須賀公が 今に残せし阿波おどり

日本100名城

2018年6月登城

 満足度:★★★★

 

歴史

南北朝時代細川頼之が渭山に渭山城、麓の寺島城を築いたのが始めです。

1585年、豊臣秀吉の四国平定により、蜂須賀家政が一宮城に入城したが手狭なため、翌年から渭山城と寺島城を合わせた徳島城を築きました。築城を記念して、城下の人々に城内での無礼講を許した際に踊られたものが阿波おどりの始まりと唄われています。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR徳島駅から城入口の下馬橋まで徒歩8分。築城時は城南に寺島川が流れており堀として利用されていましたが、今では埋め立てられて線路が走っていますね。

 

城歩き

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徳島は吉野川河口の本当に島でした。江戸時代に描かれた「正保城絵図」を見ると、徳島城は浮島のようで、攻めにくい縄張でした。

 

鷲の門(復元)

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城南に三木曲輪を拡張したときに建てられた門。幕府に曲輪で鷲を飼うので、その通用門として届けを出したとか。平成元年に復元されました。

 

江戸時代の地形

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渭山に本丸・二の丸・三の丸があり、山麓には御殿と西の丸がありました。

 

大手門跡と下乗橋

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大手口は枡形になっています。右側の石垣は野面積み、左側は積み直し切込接ぎ。やはり青みを帯びた野面積みの方が好みだな。

また、下乗橋の名の由来は殿様以外は籠から下りたから。往時は木製の太鼓橋でした。

 

舌石

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かつて寺島川沿いの石垣にはⅤ字に突き出た折れ曲がり塀が設けられており、舌石はこの塀を支えていました。他では見たことのない珍しい遺構です。

 

登山口

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本丸は渭山上にあります。東坂口から上りました。
石垣には阿波の青石(緑泥片岩)が使われており、鈍い光沢の青がきれいです。和歌山城でも同じ石が使われており、海で離れていても地層は繋がっているようです。ロマンだ。

 

東二の丸跡

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徳島城は東二の丸に3重3階の代用天守が建っていました。天守台もなく、本丸より低い二の丸に天守を建てた理由は不明です。

 

本丸石垣

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このあたりの石垣は野趣あふれる野面積み。

 

本丸

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サッカーが出来そうなくらいの広さ。本丸には御座敷や詰番所、各種櫓が設けられていましたが、藩主は山麓の御殿で暮らしていました。詰の城だったんですね。

 

本丸弓櫓跡

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帰りは西側から下りました。弓櫓跡の石垣は壮大だ。

 

感想

青緑色の阿波青石の石垣の美しさが印象的でした。雨の日はより引き立つんでしょうね。あと、堀の水には海水が混じっているようで、チヌやクラゲが見られたのも良かったです。なんだか癒やされる城跡でした。

 

和歌山城(和歌山県和歌山市) 暴れん坊将軍・徳川吉宗の出身城

紀州徳川家55万石の居城だった和歌山城暴れん坊将軍、8代徳川吉宗が居た城と言ったほうが分かりやすいかも。惜しくも天守は空襲で焼失しましたが、徳川御三家の名に恥じない立派な城でした。

日本100名城

2018年6月登城

満足度:★★★★★ 

 

歴史

豊臣秀長紀伊三国100万石の太守となり、1585年に紀伊支配の拠点として和歌山城を築き、桑山重晴を城代として置きました。

1600年の関ケ原合戦後、戦功を上げた浅野幸長が甲斐から入封し、本丸・二の丸を築き、天守を建てました。

1619年に徳川家康の10男頼宣が入城し、二の丸を西に広げ、砂の丸・南の丸を新たに築きました。以降、紀州徳川家の居城となり、尾張・水戸とともに「御三家」と呼ばれました。

豊臣秀長浅野幸長徳川頼宣と大物(?)の居城となり、それぞれの時代に城が拡張されました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR和歌山駅から大手門入口まで徒歩20分。南海和歌山市駅からなら徒歩18分ほど。バスも多数走っています。行きやすい。

 

城歩き

和歌山城

和歌山城古図

和歌山城は、山上に天守郭と本丸が並立し、山麓には二の丸・西の丸・砂の丸・南の丸が配置されています。典型的な平山城ですね。

 

一の橋と大手門(復元)

和歌山城 大手門

大手門にしては簡素な気がするのは、元は現在の岡口門が大手門だったから。浅野時代に大手が北に変更されました。

 

大手入口からの石垣

和歌山城 石垣

和歌山城 石垣

大手門から二の丸に入りましたが、中心部側には石垣が築かれています 。この石垣は切込接ぎで積まれており、石も大きめでかなり立派です。

 

二の丸(中奥・大奥跡)

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和歌山城では二の丸が藩の中心であり、 政治を行う庁舎のある、藩主の公邸がある中奥、藩主の正室や側室たちが住む大奥とに分かれていました。

表ににあった建物は明治に大坂城に移築されていましたが、戦後失火により焼失しました。残念です・・・

 

廊下橋(再建)

和歌山城 廊下橋

和歌山城 廊下橋

西の丸には能舞台や庭園があり、二の丸から藩主専用の廊下橋が架けられていました。お忍びで行き来出来るわけですな。二の丸と西の丸には高低差があるため、滑り止め用の段差が設けられています。これは珍しい。

 

台所門跡

和歌山城 台所門跡

天守への主な坂は表坂と 裏坂があります。二の丸からは台所門跡を通って裏坂から登ります。門跡過ぎた右側の石垣には・・・

 

石段の小人?

和歌山城 小人

なんと小人が石段を登っています。正体は木の根っこなんですが、隠れスポットだとか???

 

裏坂

和歌山城 裏坂

和歌山城 裏坂

和歌山城 裏坂

右に左に曲がりながら上っていきます。裏坂の石垣は初期の桑山氏時代に積まれたのでしょうか、「紀州の青石」と呼ばれる緑泥片岩が使用されています。苔の緑と相まって、しっとりと落ち着いた雰囲気です。好きだな。

 

本丸跡 

和歌山城 本丸跡

和歌山城の山上はラクダの背のように2つに分かれており、こちらは本丸側。 かつて本丸御殿がありましたが、不便なためほとんど使われませんでした。現在は水道配水池があり、不遇な曲輪です。

 

天守と裏坂

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本丸跡から撮る天守がベストショット。

 

天守(復元)

和歌山城 天守

三重三階の大天守と小天守・櫓との連立式天守です。戦前には国宝に指定されていましたが、空襲で焼失しました。現在の天守は鉄筋コンクリートですが、消失前の史料を基にかなり忠実に復元されています。
 

追廻門 

和歌山城 追廻門

天守を見た後、山麓に下りて城を一周しました。

西の追廻門は搦手から砂の丸に入る門で、その色から赤門と呼ばれています。

 

不明門跡

和歌山城 不明門跡

南の不明門跡は現在駐車場入口になっていますが、当時は死体や罪人を運び出す不浄門として使用されていました。切込接ぎの高石垣が見事。

 

岡口門

和歌山城 岡口門

戦災を免れた南東の岡口門。築城時はこちらが大手門でした。

 

感想

紀州徳川家の城だけあって、天守も石垣もとても立派でした。特に裏坂の苔むした石垣が印象に残りました。ぜひ小人にも会いに来てください。

 

福岡城(福岡県福岡市) 黒田家52万石の居城

黒田家52万石の本拠地にふさわしい広大な福岡城。その割には少しマイナーな気がするのが残念です。天守は建てられなかったというのが長年の定説でしたが、築いたけど取り壊したという説も最近出てきました。面白いですね。

日本100名城

2018年5月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

関ケ原の合戦で戦功を上げた黒田長政は、徳川家康から筑前一国を賜りました。一旦は小早川家の名島城に入りましたが、手狭で博多からも離れているため、1601年から7年の歳月をかけて福崎の地に城を築きました。以後、黒田家52万石の居城として、明治を迎えました。

なお、福岡という地名は、黒田家出身地の備前国福岡にちなんで、福崎を福岡に改称したことによります。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

福岡市地下鉄赤坂駅から徒歩10分弱。繁華街の天神からも近く、アクセス抜群です。 

 

城歩き

案内図 

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本丸・二ノ丸には堅固な石垣が築かれ、三の丸は土塁と幅広の水堀で囲まれていました。南東の水堀は埋め立てられていますが、城内には平和台球場跡や陸上競技場がすっぽり入るほど広大な敷地です。

 

東御門跡

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二の丸に入る東御門跡。虎口になっており堅固な構え。権威付けの鏡石がはめ込められていますね。

 

祈念櫓

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本丸の東北隅に鬼門封じの祈念をするために建てられた櫓です。1918年(大正7年)に大正寺に移築され、1983年(昭和58年)に同寺から戻ってきたとのこと。元は下見板張り・上白漆喰でしたが、寺への移築時に改変されたようです。

 

表御門跡

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二ノ丸から本丸に入る門跡です。やはり石垣が立派だよな。当時の門は黒田家の菩提寺である崇福寺に移築されているそうなので、見とけばよかったな。

 

本丸

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本丸も広いね。宴会(?)をしているグループもいて、ほのぼのとした雰囲気。

 

鉄御門跡

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天守台に入るには、鉄御門跡を通ります。当時は二重の鉄扉と上部櫓で厳重に守られおり、その櫓は「切腹櫓」と呼ばれていました。物騒な切腹櫓の名の由来は、いざというとき城主が自害するための櫓だったから。残念ながら、1915年(大正4年)に鉄御門は老朽化で崩落しました。

 

天守

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埋門上の橋を渡って天守台に入ります。礎石も残っており、立派過ぎる天守台ですね。本当に見晴らしが抜群です。

この福岡城には天守の存在を示す文書や絵図はなく、天守台のみが築かれたというのが通説でした。ところが、最近になって細川家史料に天守に関する記述が見つかったことから、短期間のみ天守が在ったのではという説も出てきています。個人的には、ロマンはあるけど無かったと思います。


多聞櫓

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天守台を下りて向かったのは、南二の丸にある多聞櫓。江戸時代から残る数少ない建物です。ここまで来ると人はまばら。少しもったいない。

 

下之橋御門(再建)と伝潮見櫓

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三の丸には、上之橋・下之橋・追廻橋が架かっていましたが、下之橋を渡って入る門が下之橋御門(大手門)です。門のみ残っていましたが、2000年(平成12年)に不審火で焼けてしまったとのこと。もったいなさすぎる・・・

 

大濠公園

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博多湾の入り江だった大濠公園福岡城の外堀として利用されてきました。渡ってみたところ10分くらいかかったよ。

 

感想

広大な城跡です。あまりに広すぎるので、城らしさよりも公園らしさが強かった気がします。交通の便が良く、豪快な石垣や天守台も残っているので、博多観光の際にはぜひ寄ってみてください(無料だし)。