石垣好きの城歩き

石垣好きの城歩き

石垣マニア(自称)が電車とバスと気合でお城を歩き回ります

杵築城(大分県杵築市) サンドイッチ型の城下町とは?

国東半島の南に位置する杵築城。城跡としては当時を偲ぶものはほとんどありませんが、サンドイッチ型(!?)とも言われる城下町がとても面白い。さて、サンドイッチとはなんぞや?

2017年4月登城

満足度:★★ 

 

歴史

室町時代初期、木付氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれました。木付氏は17代にわたって木付を治めましたが、秀吉の朝鮮出兵後に宗家大友氏と共に滅亡。その後目まぐるしく城主が替わりましたが、1645年に松平英親が入封し、以後220年余に渡って松平家が治めました。

江戸時代には城の中心が平地に移されており、既に城跡になっていたようです。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR杵築駅から杵築バスターミナルまでバスで約10分。大分空港から杵築バスターミナルまでバスで30分。杵築バスターミナルから城跡入口まで徒歩10分弱。

大分空港から大分駅行きのバスの途中にありますので、空港利用者(九州外)の方が公共交通機関のアクセスは良いかも。 

 

城下町歩き

杵築城下町は高山川と八坂川の間に築かれており、北台・南台と呼ばれる台地には武家、その谷間には町家が開けていました。それでは、北から南に縦断してみましょう!

 

番所の坂

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北から北台に上る坂。 かつてはこの坂の下に北浜口番所があり、城下町への出入りを取り締まっていました。

 

酢屋の坂

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番所の坂を上ったと思ったら、今度は下り坂。坂を降りたところに酢屋があったから「酢屋の坂」。ちょっと安直ですよね(笑)

 

塩屋の坂

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ようやく下ったと思ったら、もちろん今度は南台への上り坂。上り口に塩屋(酒屋)があったから「塩屋の坂」だそうな。

 

塩屋の坂上からの見返り

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北と南の高台に挟まれた谷間があるからサンドイッチ型城下町。みんな坂の上り下りが大変だっただろうな。

 

北台の武家屋敷跡

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再び戻って、北台の通り。朽ちた土壁が風情を感じさせます。ここだけ江戸時代。

 

大原邸

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武家屋敷の一つ、上級武士の大原邸に入ってみました。いろいろ説明が聞けて勉強になった。

・総理官邸のように家老が替わると主も替わっていた。最後が大原家。

・入口に番所があるから、槍や刀が振り回せるよう天井が高い。

・客間には押し入れなし。(隠れられないことアピール)

・弓の練習のため、一部天井が高い所あり。

・湯殿に湯はなし。たらいの水で手ぬぐいで拭ってた。

 

藩校の門

f:id:castle_walk:20191026230208j:plain藩校「学習館」の門でした。現在は小学校の門として現役なんだって。いいね。

 

勘定場の坂

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北台から杵築城方面に下る坂。江戸時代に収税や金銭出納の役所があったことから名づけられました。下ったところからパチリ。

城歩き

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杵築中央病院前の道を通って城山に向かいます。 

 

石垣と白壁

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途中に石垣と白壁がありますが、残念ながらナンチャッテです。

 

本丸への門

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これも雰囲気だけ味わいましょう。

 

模擬天守

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松平家の治世時には既に城跡状態でしたが、昭和に模擬天守が建てられています。見晴らしが良好です。

 

感想

正直、城跡自体はもう一歩というところですが、街歩きがとても楽しいです。石坂,土塀,武家屋敷と見どころがいっぱい。ぜひサンドイッチ城下町を堪能してみてください。

篠山城(兵庫県篠山市) 天下普請で築かれた城

徳川家康の命令で築かれた、隠れた(?)天下普請の篠山城。今も角馬出しが残ります。二の丸の大書院は昭和に失火で焼失しましたが、2000年(平成12年)に木造で復元されました。

日本100名城

2016年11月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

1608年に徳川家康大坂城を牽制する目的で、交通の要衝の篠山に新城の築城を命じました。普請総奉行に池田輝政、縄張りに藤堂高虎を配し、天下普請としてわずか6カ月で完成しました。

彦根城名古屋城と同じく、豊臣対策のため天下普請で築かれた城ですね。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

JR篠山口駅から神姫バスで約15分、二階町で下車。二階町バス停から徒歩5分。バスは30分に一本出ています。

私は篠山口駅で電動自転車をレンタルしました。駅から約25分。ただし、冬季(12~2月)は休業しているので要注意。 

 

城歩き

篠山城模型 篠山城大書院展

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篠山の岩盤の上に本丸と二の丸が築かれ、その周りを三の丸が囲っています。三の丸には3箇所の入口があり、それぞれに角馬出が設けられています。

教科書に載ってそうな縄張りだ。

 

南馬出

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篠山城の特徴の一つが馬出しが残っていくこと。

現存2ヶ所の馬出しの内、まず南馬出を訪問しました。木が茂っていて分かり難いですが、土塁と堀で入口を防御しています。いざというときはここから出撃したんですね。

 

南門跡 

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南馬出からの三の丸への入口は虎口になっていますね。 土塁盛り盛り。

 

三の丸から振り返り

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城内がだだっ広いな。流石は天下普請。

 

南西側二の丸石垣

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直線的な高石垣で、裾部が犬走りになっています。犬走りは防御的には弱くなりますが、堀を掘るのと石垣を築くのを同時に作業できる利点があります。藤堂高虎の縄張りでよく見受けられますね。

北西側二の丸石垣

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内堀に沿って北の入口に向かいます。ちらっと見える建物は二の丸書院。

 

二の丸大手門

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2重の桝形になっており、特に防御力を高めています。

 

大書院

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天守のなかった篠山城の中核をなす建物です。惜しくも1944年(昭和19年)に失火で焼失しましたが、木造で再建されました。本当に立派。

 

本丸入口

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本丸入口にあるのは篠山藩主を祀る青山神社。本丸の石垣はそれほど高くなく、防御というより区割りといった感じ。

 

天守

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天守台はありましたが、天守は建てられませんでした。篠山城は実戦を想定していたので、攻撃目標となる天守は省いたらしいです。

 

丹波富士(高城山

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天守台からは丹波富士が眺められます。丹波富士には波多野氏の八上城がありましたが、明智光秀により落城しました。その際に人質にしていた光秀の母が殺され、本能寺の変の一因になったという言い伝えもあります。

 

二の丸から三の丸

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篠山城が想定よりも立派すぎたので、築城を命じた徳川家康が立腹したとの言い伝えもあります。

 

埋門(三の丸側から)

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帰りは二の丸南にある埋門から下りました。このあたりの石垣には各大名の刻印があり、宝探し感覚で探すのも楽しい。

 

天守台石垣

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改めて立派な石垣だと思います。訪問時、三の丸のこの辺りは工事中でしたが、2019年6月に三の丸南広場として整備されました。

東馬出

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最後に東馬出を訪問。南馬出に比べて小規模ですが、きれいに整備されていました。

 

感想

木造で再建された大書院が有名ですが、天下普請で築かれた石垣も立派です。個人的には犬走りの無い方がが好みなんですが、 芝生の緑と石垣の対比は絵になりますね。

特筆すべきは、篠山市の城を整備しようとする市の姿勢です。明治に埋め立てられた内堀を復元したり、石垣を修理したりと気合が入っています。これからも楽しみです。

 

広島城(広島県広島市) 毛利輝元が築いた新城

毛利輝元が本拠地の郡山城(山城)を廃し、新たに築いた平城が広島城です。その縄張りは豊臣秀吉が築城した聚楽第と瓜二つであり、秀吉と輝元の繋がりを感じさせます。現存していれば最古級の天守がありましたが、1945年の原爆投下で壊滅しました。非常に残念。

日本100名城

2016年8月登城

満足度:★★★★ 

 

歴史

1599年に毛利輝元により太田川河口のデルタ地帯に築かれましたが、翌1600年の関ケ原の合戦後に西軍の総大将だった輝元は周防・長門へ転封になりました。替わりに福島正則が入封しましたが、城の無断修理が原因で改易。紀州から浅野長晟が入封し、以後浅野家が明治を迎えました。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★★

JR広島駅から徒歩25分。広島電鉄路面電車)の紙屋町東駅からなら徒歩15分。私はJR新白鳥駅から歩いてみました(約20分)。 

 

城歩き

堀沿いからの天守

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JR新白鳥駅から内堀に沿って二の丸の入口に向かいました。天守が本丸の北西隅に建っているので、堀・石垣・天守の構図が最高。 

 

表御門・平櫓・多門櫓

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広島城の縄張りでは二の丸が角馬出として設けられています。御門橋を通って表御門をくぐります。1994年(平成6年)に表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が木造で復元されました。中に入ることも出来て嬉しい。

 

中御門跡

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本丸入口は虎口になっていますが、通常は外側に構えられる二の門が無く、右折れしたところに一の門のみが構えられていました。少し珍しいタイプ。

 

本丸北東部の石垣

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福島正則が築いた本丸の北東部分の石垣は、一部が崩れかけています。これは無断修復を幕府に咎められた際、わざわざ壊した箇所と推定されています。ただ、言い訳は通らず、結局改易されてしまいました。

 

天守

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天守は5重5階で、3重3階の東小天守と南小天守に渡櫓で連結されていました(現在は小天守はありません)。関ケ原の合戦前に建てられており、残っていれば最古級の天守でした。黒板張りの外観が精悍で、戦国時代の雰囲気があり格好いい。


感想

毛利輝元が転封されたり、福島正則が改易されたりと下げマンの城ですが、なんといっても黒い天守が格好いい。二の丸の表御門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓が再建され、内部を見学出来るのも楽しいです。平城で街中にありますので、ぜひ訪問してみてください。

大洲城(愛媛県大洲市) 木造で復元された四層天守

肱川に突き出るように築かれた大洲城。2004年には4層4階の天守木造で復元されました。消防法対応等の大変な苦労があったと思いますが、市民参加型の取組として評価されています。

2016年8月登城

日本100名城

満足度:★★★★ 

 

歴史

豊臣秀吉の四国平定で伊予に封ぜられた小早川隆景湯築城を居城とし、大津(大洲)城を支城としました。隆景の九州転封後、戸田勝隆が宇和・喜多郡に封じられ、大津(大洲)城を居城としました。

現在の姿に整備されたのは、その後に入城した藤堂高虎脇坂安治によるものです。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★

JR伊予大洲駅から徒歩25分。市内循環バス(ぐるりんおおず)も一時間に1本出ています。 

 

 城歩き

大洲駅から歩いて大洲城を目指しました。

 

橋上から

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肱川に架かる橋上からの大洲城肱川が天然の堀って訳ですな。天守が川際に建っている感じが岡山城に似ています。

 

水門

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郵便局と公民館の間の水門を通って肱川に出ます。鵜飼いで有名な肱川は洪水が多いことでも知られています。

 

苧綿櫓(おわたやぐら)

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現存する4棟の櫓のうちのひとつで、苧綿(布や糸などの原料にもなる繊維)の貯蔵庫でした。1959年(昭和34年)に解体修理が行われ、その際に洪水被害防止のため、石垣が約2.6mかさ上げされています。

 

古地図

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現在、内堀と外堀は 埋め立てられていますが、肱川を背にした縄張りです。暴れ川の肱川方面から攻めるのは困難極まりない。

 

石垣と天守

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登城の道は舗装されており、石垣越しに天守を眺めながら歩きます。歩きやすいけど、少々味気ない・・・

 

天守と高欄櫓

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天守は4層4階で千鳥破風の装飾の多め。高欄櫓は現存の櫓で、2階に廻縁(まわりえん)が設けられているのは珍しい。

 

天守内部

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大洲城天守は木造で忠実に復元されています。建築基準法の問題を始めとし、木造復元には大変な困難が伴いますが、関係者の熱意には頭が下がります。木の匂いが良いね。

 

感想

やはりこの木造復元天守が一番の魅力でしょう。 内堀が埋め立てられているのは残念ですが、この天守で十分お釣りが来ます。他にもNHKドラマ「おはなはん」のロケ地にもなった町並みや趣のある臥龍山荘と見どころたっぷり。おいでませ、伊予大洲

 

豪雨被害について

2018年7月に大洲市は豪雨災害に遭いました。心ばかりの寄付をさせていただいたのですが、律儀に礼状と大洲城臥龍山荘の入場券をいただきました。また、再訪問させていただきたいと思います。

 

 

一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市) 朝倉氏の栄華を偲ぶ一乗谷

戦国大名の朝倉氏の本拠地だった一乗谷織田信長に焼き払われた後、長年水田の下に埋もれていました。近年発掘調査が行われ、かつて北陸の小京都と呼ばれた栄華を偲ばせてくれます。

日本100名城

2016年7月登城

満足度:★★★★ 

 

 歴史

朝倉氏は現在の兵庫県養父(やぶ)市出身の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主人の斯波高経(しばたかつね)に従って越前に入国しました。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、斯波氏、甲斐(かい)氏を追放して越前国(えちぜんのくに)を平定しました。以後孝景(たかかげ)、氏景(うじかげ)、貞景(さだかげ)、孝景(たかかげ)、義景(よしかげ)と5代103年間にわたって越前国の中心として繁栄し、この間、京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれました。しかし天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き尽くされました。

引用:特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡 特設サイト

水田に埋まり忘れ去られていたことで、良好な状態で発掘されました。何が幸いするかわからないね。

 

交通アクセス

行きやすさ:★★★★

JR一乗谷駅から入口の下城戸後まで徒歩10分。福井駅から一乗谷駅までは15分程ですが、電車の本数が2時間に約1本。福井駅からバスも出ていますので、電車よりは割高にはなりますが、上手に利用しましょう。 

 

城歩き

一乗谷

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福井駅から九頭竜線で5駅目。気持ちいいくらい無人駅。右奥にあるのは西山光照寺跡です。

 

一乗谷朝倉氏遺跡資料館

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駅前の道を真っすぐ進み、突き当りを左に曲がって歩くと(一乗谷とは反対方向)、一乗谷朝倉氏遺跡資料館があります。復原町並とのお得な共通券があり、自転車も無料で借りられます。

 

一乗谷入口

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ここから約2キロに渡る谷間一帯が一乗谷朝倉遺跡になります。

 

下城戸跡

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一乗谷の北端の下城戸跡。堀と土塁で谷への入口を守っていた訳ですな。

 

平面復原地区

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下城戸跡から10分ほど歩くと平面復原地区です。町人屋敷跡、寺院跡、武家屋敷跡と計画的に区画されていたことが分かります。谷間とはいえ広いな。

 

朝倉館跡・唐門

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朝倉義景の館跡です。館は三方を堀と土塁で囲まれていて、背後の山には山城がありました。一乗谷の中心部ですな。

 

上から見た館跡

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背後の山に登って眺めてみると、改めて広い屋敷だな。

 

湯殿跡庭園

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館跡背後を登った高台にある湯殿跡庭園。戦国時代らしい荒々しい石組みです。一乗谷で一番古い庭園で、当時は池に水が満たされていたとのこと。

諏訪館跡庭園

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湯殿跡庭園から奥にある諏訪館跡庭園。池とその周囲を巡る園路を中心に作庭された池泉回遊式庭園です。一乗谷の中でも最も規模が大きく、朝倉義景が妻「小少将」のためにつくったと伝えられています。

 

復原町並 武家屋敷群

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武家屋敷や町家が当時の姿そのままに復元されています。以前来たときにはありませんでした、たぶん。

 

上城戸跡

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一乗谷の南端に位置する土塁。上城戸と下城戸の間が城内になる訳ですな。

 

 上城戸跡から

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上城戸跡付近から今まで歩いて来たところを振り返り。中央の一乗谷川を挟んで、左奥側が復原町並、右奥側が朝倉館跡。

 

感想

一乗谷自体は上城戸や下城戸はあるものの、自然豊かな城下町跡といった趣です。朝倉氏滅亡後に忘れ去られたのが幸いして、街全体を発掘出来たなんてロマンじゃないですか。そして何より山の濃い緑が気持ちいい。

朝倉館裏には詰めの山城がありますが、疲れそうで未登城です。ダイエットに成功し、身体が軽くなった際にはチャレンジします(無理かな?)。